先日、原地区後背山地の落ち葉が厚く堆積した山道を縦走していたら通常の落ち葉とは違って白化し目立った落ち葉があった。
茶色の葉身部分が白くなりもろくなって剥落して小さな穴が空いて透けたように葉脈のみになりつつあった。このようになるのは自然現象なのか何かの要因でこのようになったのであろうか。
呉市休山山系の先端部に位置する旧高烏砲台の兵舎跡で明治期呉軍港を防護するために設けられた砲台関連施設であった。花崗岩を加工して築造された兵舎の壁体が残されており開口部の迫持ち円弧アーチが特徴的である。
くさびの形状にしたせり石を両側のかなめ石の中央に組み合わせ上部の荷重を両側の石積み壁体に支持させる応圧に強い石材の特性を生かした組積構造である。
呉市の休山山頂から大仁王山(標高316.45m)、西鹿田手前の尾根筋を呉市の街造り草創期の標石である呉軍港築造物制限区域標石を確認するために縦走した。「休山を歩く」参照
休山山頂から南尾根の標石は以前に探訪しており、この標石は呉港家屋建築制限法による区域の境標石で、この呉港家屋建築制限法は村落から市街地形成の推進をするための家屋建築の規準とされたもので、現在の都市計画法や建築基準法などに相当するものであり、これらに基づいて順次市街地の建設が進んで呉浦は農漁村から軍港都市への変遷を辿っていったのである。
駅前地区を走るJR山陽本線と広電宮島線の鉄道用地内の通路を、道路を迂回するより近道となるために多くの人達が利用しているようである。
上画像のJR山陽本線沿いの通路は路面状態などから自転車やバイクなど相当に利用されているようである。下画像の広電宮島線沿いは人が通るのみのようである。
西広島バイパスの歩道脇に竹が繁茂しており何度もここを通っているが、通常見る竹と違って節の間隔が長いことに初めて気が付いた。
節の間隔は50~60cm位あり調べてみるとダイミョウチクのようである。当初は庭木で植えられたのであろうが現在手入れがされていないようで竹藪のようになっている。
原地区を通る国道433号線の橋脚に無数の亀裂がありそれらを補修するためであろうか調査計測したものとみられる線や記号、数値が記してあった。
画像で見にくいが巨大なジグソーパズルのようであり何ピースあるのだろか組み合わせて橋脚にするには相当時間がかかりそうだ。
大寒を過ぎた一番寒い時期であるが川末地区の休耕田の端に当ブログ主が子供の頃に使用していたような懐かしいコタツがあった。
家型の瓦製コタツが2個と丸型のコタツの蓋のみがみられる。これらのコタツの上に直接センベイ布団を掛けたり木製のヤグラの上から布団を掛けていたのを思い出した。
原川末地区にある市指定の天然記念物である「原のツバキ」巨樹の花が満開であった。民家に隣接した川末川沿いにあるが雑木が茂っているので近くでは全貌を見ることが出来ない。
川末川西側の山沿いの道から樹形は遠望できるが遠く過ぎて花がよく見えない。対岸は休耕田となった荒れ地であり農道跡を辿っていけばある程度は近づくことが出来るが・・・
小正月の先週は大雪で町内会の行事である「とんど」が延期となってやっと昨日行われ、歳神様を一週間遅れで炎と共に送ることが出来た。
男性はとんど組みをし女性はぜんざいを作るなど町内会で老若男女が一同に集う唯一の行事であり何時までも続けたいものである。
原川末地区の山沿いの道脇に見たことがない鮮やかな色で小さな粒状の果実を付けた蔓性の植物があった。調べてみるとサネカズラのようで果実は咳止めの薬用に、また若枝の粘る液は整髪料になるようである。
色見本をみるとこの鮮やかな色はフランボアーズ色というようで熟して落ちた果実の付け根も鮮やかな色をしていた。
原地区をウォーキングしていると2種類の枯れかかった蔓性の植物にあまり見かけない色づいた果実がなっていた。調べてみると上画像はキカラスウリ(黄烏瓜)で下画像はカラスウリ(烏瓜)のようである。
熟した果実から種を採ってみるとカラスウリの種はカマキリの頭のようで面白い形をしていた。成長過程をみたいので畑の隅にでも種を蒔いてみてうまく発芽したら紹介したいと思っていますが・・・
昨日の七曲峠から後畑峠に向かって尾根筋を進んでいくと最高所の通称茶臼岩山に幕末期砲台跡の石積みがみられる。通称茶臼岩山は先人から聞いたものであり正式山名は定かでない。資料によると芸藩の御台場で陣小屋場、篝焚小屋などがあったようで何と木炮が配備されていたようである。
この場所には先日紹介した通称汐見山の標石へと続く戦時中の陸軍輸送港域第二区標石第48号が残されている。
先日紹介した表平山の尾根筋を進んでいくと郡有模範林の山境標石の番号が若くなり標高594mの石州往還山県通りの七曲峠に至る。七曲峠は潮見峠ともいわれていたようで、昭和27年(1952)の国土地理院の地図にはこの道がみられるが現在の地図には記されていない。
峠から葛原方面に少し下った所にはかつて峠越えしていた人達の喉を潤していた峠清水(御水)跡が残されており、小祠が二ヶ所祀られ上部が折損した石仏が安置されている。
昨日、雪がある極楽寺山に登山したが途中3~40人位の中高年登山者と出会ったであろうか極楽寺山は人気のある山のようである。極楽寺には今年三度目の参詣をしてこの時期の蛇の池を見たいと足を延ばした。
蛇の池全面に氷が張っていたが厚い氷ではなかろう。かつては厚い氷が張っていたものとみられ明治末期頃まで天然氷を採取して広島市に供給していたようである。また昭和初年頃蛇の池に極楽寺山スケート場の設置が計画されていたようであるがその後は明らかでない。
通称汐見山にある標高635.35m(国土地理院地図には635.4m)の三等三角点で点の記情報によると点名は南峠で山字は南峠とあったので正式山名は南峠山のようである。
三角点に隣接して戦時中の陸軍輸送港域第二区標石第49号が残されている。この陸軍輸送港域内では色々な禁止事項や制限などが行なわれていた区域を表す標石である。