地御前小学校の校庭にある市天然記念物のイチョウの木については以前にも紹介したが、葉が落ちた状態を見ると、幹が伐採されたところから腐朽しており痛々しい姿である。
教育現場にある市天然記念物がこのような状態で・・・表示看板には「ふるさとの文化財を守りましょう」と記されている。
槙が峠付近での戦闘で長州軍は幕府軍に破れて浅原方面に退いた。幕府方の死傷者は引き取っていったが長州方の戦死者は残され、地元の人によって近くの諏訪谷に葬られた。
以前は野面石の墓であったが昭和12年(1937)にこの墓碑が建立されたようであり、墓碑には12名の法名が刻されている。諏訪谷入口には「史跡 長州戦争古戦場 津田槙が峠」と標木が立てられており、墓前にはしきびが供えてあるので地元の方がお参りされているものとみられる。
津田地区に入ると浜本工芸の工場がありバス停付近が槙が峠と呼ばれているが、現在では峠とは思えないような地形である。バス停留所の脇に「史跡 長州戦争古戦場 津田槙が峠」とある古びた標木が立てられている。
幕末の長州戦争の際この地に台場(砲台)を構築中の長州勢を幕府勢が急襲して主戦場となったところである。
上平良地区にある西蓮寺向拝屋根の雨水受け石桶で大正3年(1914)に移民で布哇国加哇嶋(現ハワイ州カウアイ島)に在留の本寺門徒であった人達が寄進している。
加哇嶋(カウアイ島)のケカハ、キャリー、ハナペペ、カパア、キャリヤ、ワイメヤ、リフエ、マカウエなどに移住した人達の名前がみられ、故郷平良の地を遠く離れて望郷の念にかられ旧門徒たちが寄進したものだろう。
上平良地区にある二重原八幡神社から大原地区の遠望で、県道廿日市循環線の予定地の住宅一軒がすでに立ち退かれた。
この画面でもう二軒が予定地内にあるので立ち退きをされるようであり、少しずつここからの景観が変わっていきそうだ。
速谷神社の神宝館に展示してある木造狛犬一対で木地にほご紙を貼って胡粉(ごふん)を塗り、漆で塗り固めた仕上げがされているようである。
良く見ると阿形と吽形ともに頭部を金色に塗り頭髪は緑色に塗ってあり、各所の彫り方から力強さが感じられる。室町時代中期ごろの作とみられており広島県の重要文化財に指定されている。
速谷神社の本殿東側に建立されている石造阿形(あぎょう)の狛犬で文政12年(1829)5月に寄進されたものである。
通常狛犬は一対で建立されているが昭和61年(1986)の火災で吽形(うんぎょう)の狛犬は破損して失われている。
昭和の終わりころまで平良地区では数多くのイチゴ栽培のビニールハウスがみられ「へら苺」ブランドで広島市場に出荷されていた。
現在上平良地区でイチゴ栽培をされているビニールハウスでは日照時間が少ないこの時期電気の光を利用した電照栽培が行われている。ハウス内では赤く熟したへら苺が甘い香りを漂わせている。
火燈窓は極楽寺本堂正面および両側面にある窓の様式で火頭、花燈、花頭、華燈、華頭、架燈、瓦燈などの字があてられている。
上部が花弁形をした窓でこの意匠の起源はイスラム建築などから中国に伝わり禅宗建築の一部として日本に伝わったもののようである。寺院建築によく用いられたが城郭建築、茶室などにも用いられている。
新宮一丁目の新宮神社境内にある徳山サトの碑で大正5年(1916)平良村によって建立されている。
徳山サト氏は当時500円という大金を平良村の基本金として寄贈され、また数多くの公共事業の援助費として寄付をされたという篤志家であったようで、同氏を顕彰するために建立されたようである。
県道30号線の津田・河津原地区境付近に見られる村境標石で大正6年(1917)に地元の個人が建立されたようである。道路拡幅に伴ってかつての位置から移転されている。
当時の津田村と友原村の境にあったもので「廿日市町へ約四里余 十王堂へ約十八丁」とあり、宮内村の里程標石には寸の単位まで刻されていたがこの標石ではおおよその距離が刻されている。
以前にチチヤスの創業時の建物かと紹介した建物であるが今や風前の灯状態である。
右下の写真は大正末期ごろのもので事務所前において牧場関係者一族が写っており、当時はモダンな建物であったようである。事務所左側の製造工場とみられる建物も現存している。(写真-大竹・廿日市の100年)
34丁碑手前の鞍部に屏風を立てたような巨石で通称「屏風岩」があり、その上に大日如来の石仏が安置されている。
かつては堂宇の中で石仏が祀られていたが堂宇は朽ちて吹きさらしとなっており、右側の屏風のような岩には刻字がみられるが判読できない。伝説では四万八千日(旧暦七月九日)の夜参拝するとその岩に名号が金色に現れるということである。
昨日は天候が良く久しぶりに宮島SA脇から廿日市参道を登って極楽寺山の極楽寺に参詣した。
廿日市参道に里程碑が建立されているのは以前に紹介しており、26丁碑手前から巨石が累々とし頭上にのしかかってくる。巨石前にある26丁碑脇には平成17年に新築された小堂があり中には地蔵菩薩が安置されている。ここにはかつて木造の手無し観音が祀られていたが観音像は盗難に遭って、後に地蔵菩薩が安置して祀られていたが堂宇は朽ちていた。
厳島神社の回廊など各所にはかつて奉納された数多くの絵馬がかつて掲額されていたが、現在はその一部が千畳閣に掲げてある。
この絵馬は退色剥離が激しいものであるが享保19年(1734)に描かれた「高砂の松の図」で、相生の松に老翁、老婆がみられ能の作品の一場面が描かれているようである。
左下には○○氏女、○○氏母と記されており、なんと9名の婦女子によって寄進されたものであることがわかる。しかし、苗字はわかるが名前が記されておらず誰の寄進かは定かではない。