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山口県美祢市大嶺町東分の国道435号線脇に祀られている厳島神社である。江戸期の防長寺社由来に当神社についての記述がみられないので由緒など定かでない。
下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。
安芸高田市八千代町佐々井に祀られている厳島神社で、看板表示によると正和2年(1312)にはすでに鎮座していたようである。昨日紹介したように毛利氏は厳島明神を崇敬しており毛利輝元は木材を寄進して社殿を造営させているようである。ずらりと並んだ石燈籠は新しい時代に寄進されたものであるが圧巻である。
安芸高田市吉田町長屋に祀られている嚴島神社で、元就卿御教訓状に「・・・厳島を皆々御信仰肝要本望たるへく・・・」とあり、毛利氏は厳島明神を崇敬していたようで看板表示によると天文10年(1541)9月に毛利元就が勧請した一社のようである。本殿内には江戸前期の面影を残した玉殿が安置されているようである。
一昨日の中国新聞に三つの「みよし」災害協定へとの記事があった。その一つである徳島県三好市池田町マチに祀られている厳島神社を紹介しよう。由緒などは不明であるが吉野川を利用していた船運関係者によって勧請祀られていたのではなかろうか。池田町の町並みには重厚な袖うだつを設けた町屋が多く見られる街である。
生口島瀬戸田町の鹿田原(江戸期鹿田原村)の俵崎城跡の麓にある厳島神社で、(絵図赤丸ケ所)江戸期の地誌には「建暦二年壬申、勧請すといふ」とある。中世、俵崎城を所守していた生口平左衛門と何らかの関りがあったのかも知れない。
山口市宮島町にある嚴島神社で、応永13年(1406)に大内盛見が安芸国嚴島神社を勧請して県庁がある地に祀った。(絵図赤丸ケ所)幕末期に社地が藩主の居館となったので現在地に移転したようである。社殿内の多宝塔上層部は室町時代中頃の建築手法のようであり山口市の有形文化財に指定されているようである。
浜田市の海上交通の要所である瀬戸ケ島に祀られている厳島神社で、看板表示によると正平9年(1354)11月に足利直冬が宗像大社の分霊を勧請したという。旧暦6月18日には海上管弦祭が催されるようである。
浜田市にある浜田城跡の北側松原浦の袂に祀られている厳島神社で、看板表示によると応保2年(1162)に安芸国厳島神社を勧請して祀られたようである。江戸期浜田城主の古田重治や松平家歴代藩主の信仰保護を受けてきたようである。
鳥取県日南町丸山に祀られている厳島神社であるが明治維新時の地誌伯耆志には当神社の記載はみられない。しかし狛犬には天保12年(1841)と、燈籠には文政5年(1822)の刻銘がみられるので江戸期には祀られていたが創建については定かでない。(2018.04.15撮影)
鳥取県日野町の下榎に祀られている厳島神社で、伯耆志によると祭神は田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命で、長谷部信連の子孫が安芸佐伯郡の厳島神社を勧請したとあり、応永9年(1402)、応仁元年(1467)、大永3年(1523)の棟札なども記されているので中世から祀られていたものとみられるのである。
今治市波方町養老にある厳島神社で江戸期の地誌「愛媛面影」にはみられず由緒などについては定かでない。看板表示によると厳島神社のある地は中世来島家の居館波方館の別館養老館があった地のようである。
高知市を流れる鏡川と国分川の合流付近にあった小嶋の弘化台に厳島神社が祀られていたようであるが、弘化台埋立地の築造に伴って小嶋の弘化台は掘削されたようである。現在は弘化台中央卸売市場の片隅に小さな厳島神社が祀られていた。(下画像-今昔マップより)