昨日、「かっぱえびせん」のカルビー工場が建築中であることを紹介した。かっぱに因み・・・ 玖島地区の大峰山登山口付近の吉末川にはエンコウ(河童)伝説があるようである。子供の頃、溜め池で遊びをしているとエンコウが尻の穴に入ると恐らされていたことがある。危険な渕に近づかないようエンコウに引きずり込まされると云われていたのであろう。
津田地区にある教覚寺の鐘楼門で珍しい草葺(茅葺)屋根の鐘楼門である。この鐘楼門は宝永3年(1706)に建立されたようである。
棟飾りで棟の上に馬乗り型にX型に乗っている部材は民家では「カラスオドシ」「ホテギ」「ウマノリ」「ウマキ」等々、その上の横木は「カラスオドリ」「ホテ」「オトシ」「マキワラ」等々と呼ばれていたようである。(中国地方の民家)
左側への脇道が山代街道の名残り道
江戸期、津田の町の中心地であった十王堂市は津和野街道筋で山代街道の分岐点でもあり、御制札所で高札が立てられていた。また、疫病や災害、悪戯者などが村に入らないようにと中心地に祀られた十王堂もあったが近代の県道拡幅のために西福寺脇に移設されている。
寒入りしている一昨日、田んぼの寒起こしをした。今年の田んぼの初仕事をしたので田の神に遭いに行った。当地方では田の神信仰はみられないが他地方から移された田の神が小瀬川沿いにみられる。田の神信仰は鹿児島県や宮崎県地方などでみられる習俗のようである。
田の神があるカフェテラス北山でスパイシーで味わい深いカシミールカレーを・・・
本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。友田地区にある龍王神社であるが由緒などは不明、祭神は龍神のようである。友田地区にはもう一カ所に龍王祠があったが石清水八幡社に合祀されているようである。
本年は辰年なので今迄に市域でみかけた龍文に関係するものを紹介しよう。津田八幡神社の向拝部分の虹梁の上部中央に繊細な龍の彫刻が施されている。
小瀬川沿いの国道186号から中道方面に分岐する県道119号佐伯錦線で小瀬川に架かる出合橋はあまり見たことが無いような橋の途中橋幅が変わっているものである。橋を渡った向う側は急カーブのためにこのような橋が作られたものとみられる。
佐伯地区の田んぼで早く刈り取りがされたものとみられ、稲の切り株からひこばえが生えており稲穂もみられた。これから寒さに向かっていくので稲茎が伸びることもなく稲穂も実ることはないであろう。
浅原地区のほぼ中心地にある大きな民家でかつては結婚式の披露宴や各種の宴会などに使用されていたようである。
この地にはかつて浅原村役場があった所で、昭和49年(1974)の戸別地図をみると公民館・小学校・駐在所・農協支所・郵便局・医院・広電バス車庫・自転車店・商店が数店みられ賑わっていたようである。しかし過疎化によってこれら多くの施設が無くなっており割烹料理店も廃業されたようである。
山口県境を流れる小瀬川に設けられている小瀬川ダムに数十年ぶりに訪れてみた。当ダムは2つの都道府県が共同管理している国内唯一のダムのようである。当ダムは洪水調節・工業用水の供給を目的に1964年に設けられたようで、放流されている水を利用した小瀬川発電所が堰堤の下に設けられている。ダムマニア・ダムカードマニアではないがダムカードを頂戴した。
佐伯町保曽原地区の県道293号沿いにある三興中学校跡で当時の門柱が残されているのみであり、現在はグランドゴルフ場として使用されている。昭和49年(1974)の戸別地図を見ると浜本工芸の工場があったようである。
昭和24年(1949)に四和村・津田町・浅原村組合立の中学校だったようであり、昭和44年(1969)に三興中学校は友和中学校・玖島中学校と統合して,新しく佐伯中学校が誕生したようである。中学校跡にユリが咲いていたが何んというユリであろうか。
佐伯町の県道30号線沿い津田口バス停付近の田んぼにマコモタケが栽培されている。水田の活用や保全のためにマコモタケを栽培し栽培面積を拡大して地域の特産品にと試験栽培されているようであるが、見た限り以前のように手がはいってないような気がするが・・・
佐伯区葛原の酷道433号線を走っていると茅葺屋根に葺き替えたばかりの民家がみられた。Google Earth画像には薄鉄板覆いの民家(下画像)が見られこの民家が葺き替えられたようである。隣接の骨組みなどから民家で使用されるのではないようにみられるのであるが・・・
一昨日紹介した新西広島変電所の入口にあったゴルフ練習場が太陽光発電所になっていた。下画像は平成20年(2008)の国土地理院の空中写真でありゴルフ練習場がみられる。広島県の資料などによると令和になってから設置されたようである。