先日宮参りの後に平良地区にある旬菜「蔵」に行った。打ち水のしてある石段を上がってゆくと徐々に懐かしい空間に入り込んでゆく。
日本庭園の中庭があって蔵が望める部屋で、地域の素材にこだわった懐石料理を落ち着いた雰囲気でゆっくりと味わうことができた。
先日宮参りの後に平良地区にある旬菜「蔵」に行った。打ち水のしてある石段を上がってゆくと徐々に懐かしい空間に入り込んでゆく。
日本庭園の中庭があって蔵が望める部屋で、地域の素材にこだわった懐石料理を落ち着いた雰囲気でゆっくりと味わうことができた。
石州往還の大沢越え道を登っていくと旧原村と玖島村との境で標高629mの大沢峠に到達する。
峠の両側には石積みの塚がみられ村境であったことがわかり、また平坦地もみられるので休憩所や小荷駄馬の休み場所などがあったのだろうか。峠から大沢方面へは林道が通じており往還道の跡は定かでない。
旧往還道が流されて石だらけの谷を少し登って行き山道に入ると勾配が少し急になってくる。
峠の少し手前には大きな岩があり、旅人はここまで来ると峠はもう近いと思っていたのであろう。現在岩の節理に樹木が根を張っているので次第に崩壊していくのではなかろうか。
田んぼと休耕田の籔化を過ぎるとしばらくの間林道として拡幅舗装がされているが、それを過ぎると旧往還道の名残りの山道が残っている。
山道の右下を谷川が流れているが峠に近づくにつれて山道と谷川が隣接して、山道は流されて石だらけの谷をしばらく登ることになる。
原川末地区の出合茶屋から石州往還である大沢越え道を進んで行き、人家を過ぎると田んぼと田んぼの石垣の間に往還道の名残りが見られるのである。
江戸期の地誌には出合より大沢越しまで13丁(1.42Km)と記されている。
原川末地区の最奥部付近の分かれ道で左側が広島県道294号線、かつて石州往還の楢原越え(泉水峠)道であった。右側は石州往還の大沢越え道と葛原越え道があった。
ここ出合には茶屋があったものとみられ小名(地名)茶屋が江戸期の地誌絵図にみられる。楢原越え道を進むと楢原(玖島)には宿屋など集落があり、平谷の出合で大沢越え道と合流していた。
原川末地区の最奥部付近の杉林の中にある安芸のひとつ火跡碑で昭和62年(1987)に原老人クラブ連合会によって建立された。
江戸期の地誌に大嶽垰ミヨノ火「闇夜ニ者必火見へ、依而海上通船此火を目印ニ船を寄せ候故ミヨノ火与申来リ」とある。当地では安芸のひとつ火伝説が伝えられており、これに基づいて碑が建立されたようである。(安芸のひとつ火伝説は廿日市の民話伝説参照)
島根県吉賀町樋口地区にある厳島神社で古い時代に安芸国厳島神社を勧請して祀られたものである。安芸国厳島神社の管弦祭に併せて十七夜神事が行なわれているようである。
樋口厳島神社には近くにあった速田神社、大元神社なども合祀されており、いずれの神社も石州津和野街道を経て当地との交流があったことが窺われるのである。
速谷神社では元の社務所で現在斎館の改修工事が行なわれており、多くの利用ができるように改修されているようである。
旧社務所は昭和2年(1927)に新築されており客間、宿直室兼更衣室、事務室、宮司室、付属室などとして使用されていたようであるが、現在の社務所が新築されてから斎館として使用されていた。
原地区にある立善寺の本堂脇に西本願寺23世大谷嬉子裏方の歌碑があり、昭和33年(1958)3月15日立善寺仏教婦人会記念と刻されている。
歌碑には「うけつきし み法の火奈り とこしへニ 世をてら須へく 万もり行かなむ」とあり、裏方が当地方の仏教婦人大会に出席の際に揮毫された歌のようである。
宮内地区の佐原田集会所裏に懐かしい唐箕が置かれていた。(上)子供の頃親の手伝いで腕木を回していたことを思い出す。
唐箕は中国の唐時代に開発され日本に伝来したもののようであり、本家本元である中国吐魯番(トルファン)の高河故城管理事務所裏に唐箕があった。(中)(下)は当ブログ主が持て余している高田郡吉田町で作られていた立川式小型唐箕である。
原地区にある立善寺には広島県重要文化財の不動明王像と天部像を蔵して御経堂に安置されている。
江戸期の地誌によると当寺の前身は円光寺と称する禅宗寺あったが、慶長5年(1600)に真宗に改宗して寺号を立善寺と改めたと記されている。
小瀬川ダムの周辺地区に一石五輪塔が2基みられた。五輪塔は空輪、風輪、火輪、水輪、地輪の5つの部分からなり各部材を積み上げたものであるが、一石五輪塔は全体を一つの石材から作り出している。
一石五輪塔の風化状態から古い時代にこの地域で五輪塔に似た一石五輪塔を建立できるような経済力のあった住民がいたことがわかるのである。