南水門跡
米倉跡
東北門跡
北帝門跡
丸尾礎石群
イモノガンギ
佐賀県基山町にある古代山城の基肄城跡を雨にもかかわらず強行探訪した。基肄城は天智4年(665)に築城された古代山城であり、今回の探訪目的の一つとしていたので雨具も準備していた。南水門跡から米倉跡、鐘楼跡、土塁跡、東北門跡、北帝門跡、丸尾礎石群などの遺構とイモノガンギといわれる中世のもの思われる遺構など史跡めぐりコースを探訪した。山中には40棟以上の礎石建物が確認されているようであるが旅の身ではその一部しか見ることが出来なかった。
南水門跡
米倉跡
東北門跡
北帝門跡
丸尾礎石群
イモノガンギ
佐賀県基山町にある古代山城の基肄城跡を雨にもかかわらず強行探訪した。基肄城は天智4年(665)に築城された古代山城であり、今回の探訪目的の一つとしていたので雨具も準備していた。南水門跡から米倉跡、鐘楼跡、土塁跡、東北門跡、北帝門跡、丸尾礎石群などの遺構とイモノガンギといわれる中世のもの思われる遺構など史跡めぐりコースを探訪した。山中には40棟以上の礎石建物が確認されているようであるが旅の身ではその一部しか見ることが出来なかった。
山鹿市まで来たのでと雨が降る中、隣接町の和水町にある面白いネーミングのトンカラリンを探訪した。石組み暗渠や石組み暗渠内に石段、石組み暗渠が直角に折れ曲がった部分、自然の地隙部分、地隙部分に石蓋を被せたトンネルなどが続いた不思議な遺構であり、排水路説、信仰遺跡説などの諸説がある謎の遺跡のようである。
山鹿市では大正期130戸で和傘が製作されていたようで一時途絶えたが、現在は1軒で伝統工芸の製作技術を継承して番傘、日傘、蛇の目傘、舞踊傘の4種類の「山鹿傘」が製作されているようである。傘の柄に取り付けられている開閉する仕掛けは轆轤といい上轆轤と下轆轤がある。江戸期広島藩の重要な産物で広島城下で生産されていた「広島傘」の轆轤は廿日市の木地屋が製作していたのである。
旧豊前街道の街並みから少し入った所にある明治末期に建築された芝居小屋の八千代座(国重文)を見学した。丁度山鹿灯籠踊りが公演されており当地の小学生が現地学習で訪れていた。公演後、1階座席の枡席、桟敷席や舞台装置の廻り舞台やセリ、花道のスッポンなど古き良き時代の芝居小屋内部を案内してもらった。
裏付けは出来ていないが我が町出身の女剣劇不二洋子一座もかつて公演していたのかも知れない。
山鹿灯籠は当地に行く前からチラッと知っていたので山鹿灯籠民芸館に行ってみた。豊前街道沿いにある山鹿灯籠民芸館は大正14年(1925)に安田銀行山鹿支店として建てられた建物のようである。金灯籠は真鍮製の物かと思っていたがすべて和紙で精巧に製作されており軽いものであった。製作は金灯籠だけでなく寺院、神社、城、五重塔などのミニチュアも山鹿灯籠と称すようである。
当市は灯籠をシンボルとしているようで橋の高欄親柱上の灯籠飾りや車止めに灯籠様車止め、マンホール蓋には灯籠が鋳出されたものもあった。
山鹿市の旧豊前街道沿いを散策すると平入りや妻入りの町屋がみられ画像のような平入りと妻入りの折衷のような町屋もみられた。街並みの中ほどには山鹿温泉元湯の「さくら湯」があり、江戸期は熊本藩主の御茶屋として明治期には市民温泉として利用されていた施設であったが取り壊され、当時の面影を残した大規模の「さくら湯」が復元されている。
昨日紹介した鞠智城跡の隣接地にある墓地の脇に小さな堂がみられ、ここの鞠智城跡に至る道中でも墓地の脇に小堂を見かけた。小堂は古い時代の物ではなくどのような祀り方がされているのであろうか。当地域では見かけないものであり当ブログ主は初めて見るものである。
古代山城の鞠智城跡は広大な山地に築かれて各所で遺構が確認されており遊歩道が巡らせてある。しかし、地形を生かした城づくりなどはマニアでないとなかなか理解しづらい。昨日紹介した八角形鼓楼や米倉、兵舎、板倉などは発掘調査の結果で復元されており、当時を偲ぶことができる。
昨日は熊本県山鹿市と菊地市にまたがって分布する古代山城の鞠智城跡を探訪した。以前にも紹介した屋島城、御所ヶ谷城、石城山城、鬼ノ城などと同じように広大な山に遺構が分布していた。鞠智城では八角形鼓楼などが復元されていた。
今日はどこに行こうか。
一昨日、法事のために下関市豊田町浮石にある舜青寺を参詣した。当寺の本堂は近年に新築されたようであり白木の部分があちらこちらにみられ、虹梁と天井梁の間(正式名称不明のため欄間と称す)に数多くの龍の彫刻がはめ込まれていた。これらの龍彫刻は先代住職さんが自ら製作されたもののようである。
昨日紹介した旧平良村の忠魂碑(慰霊碑)脇にある大砲の砲身でかつての忠魂碑の上部に設置されていたが、再建整備の際に危険を伴うため慰霊碑脇におろされた。この砲身は筒口径15.2cm、砲身長さ6.34mで「四十口径安式十五糎砲身」と呼ばれる英国アームストロング社製のものである。大正13年(1924)7月に平良村在郷軍人分会が呉海軍軍需部に保管されていた廃兵器を譲り受け、速谷神社に奉納したものである。
その後速谷橋東詰付近に戦没者忠魂碑を建立してこの砲身が設置され、のち現在地に再建立されて忠魂碑の上部に設置されていた。
可愛川に架かる平良大橋西詰め下流の可愛公園内にある忠魂碑で、昭和44年(1969)9月に慰霊碑として再建整備されており戦没者が刻された銘板が設置されている。以前は忠魂碑と言っており昭和9年(1934)に建設の際、忠魂碑の外柵用に十五珊加鋳鉄弾丸、三十珊弾丸8個を陸軍大臣に下付申請しているが、安式十二吋加農榴弾弾丸4個が陸軍省から下付されたようである。
新宮神社境内に建立されている徳山サト氏の顕彰碑で大正5年(1916)12月に平良村によって建立されている。徳山サト氏は大正4年(1915)に500円という大金を平良村の基本財産として寄贈、また数々の公共事業援助費などの寄附をされており、篤志家を称えるためにこの顕彰碑が建立されたようである。ちなみに明治43年(1910)の平良村基本財産は金582円69銭とある。
新宮神社境内に建立されている旧平良村戦役記念碑で明治45年(1912)7月に建立されたもので、明治33年北清事変戦死者・従軍者、明治37・38年戦役戦死者・戦後病没者・戦役従軍者、明治27・28年戦役・明治33年北清事変・明治37・38年戦役従軍者の名が刻されている。この記念碑はもと可愛橋西詰め脇に建立されていたのは記憶しているが、それ以前は速谷橋の袂にあったということである。
昨日、下平良地区にある新宮神社に参詣すると境内のイチョウの葉が黄色く綺麗に色づいていた。当神社は地誌によると古くは下平良村と廿日市の氏神であったようであるが天神山の天満宮に新宮社の神幣を勧請して廿日市の氏神としたために新宮社は下平良村の氏神となったようである。本殿には神仏習合の信仰が行われていた遺物で永禄元年(1558)の墨書銘がある懸仏が祀られている。