廿日市での6代目桜島大根が発芽したことは先日紹介したが、伸びてきた苗を何度か間引いて4株がすくすくと育っている。
当ブログ開始の前年、平成17年に鹿児島旅行した際に桜島大根の種を購入し蒔いて毎年種を取り育てたもので、今シーズンはどのような性質を受け継いだ桜島大根が出来るか楽しみである。
平良地区を走る広電バスの停留所でマルショク上平良店前が昔から中平良停留所で、一つ海寄りの停留所が上平良停留所となっている。
上平良停留所は元平良小学校前停留所であったが小学校移転に伴って上平良停留所となったものとみられる。おおよそバイパスから上は上平良であるので間違っているのではないが、中平良停留所の海寄りに上平良停留所があるのは根っからの上平良人には違和感を覚えるのである。
原地区の国道433号線の改良工事で元JA原支店のところから山陽自動車道方面に向かっての工事については何度か紹介したが、現在原地区、平良地区境の長野川までの工事中で路盤や歩道、周辺整備などが行われている。
山陽自動車道下から長野川までの平良地区内で道路予定地内の一軒が最近立ち退きされており、来年度くらいから延伸工事が始まるのだろうか。
天満神社境内の柔術家河内先生碑で大正12年(1923)1月1日に門人達によって建立されたものである。
通称河内次郎で滴斎河内範実と称していた。天保3年(1832)に生まれ幼いころから柔術を学んでおり、徹底的に奥儀を極め其の業を受けた子弟は数百人という。明治24年(1891)に神戸にて没している。
廿日市バス停留所内に掲示されている古い2枚の廿日市町商工案内図で当ブログ来訪者に情報提供して頂いた。
案内図をみると今は無くなった懐かしい商店などがみられ何時ごろのものだろうか。昭和47年(1972)に開設された中央公民館がみられ、昭和49年(1974)の戸別地図に第一産業とあるのがダイイチとなっているので、第一産業の社名変更をした昭和52年(1977)から昭和63年(1988)に廿日市市になる間に作成掲示されたもののようである。
廿日市の町並みをみていくと町屋の敷地と建物がノコギリの刃のようにギザギザになっているところがある。俗に防衛のため身を隠すためと言われているが・・・
町並みの初めは道なりに掘立ての店が並んでいたものが、次第に建築手法が高度化して矩手(直角)の工法で建てられるようになり、奥行きに対して正面を直角にするために曲がった道路や斜めの道路などではノコギリの刃のような形状となるのである。
地御前大歳神社の境内で釈迦堂の道路向かいに建立されている日清戦役の戦功碑である。刻字が浅く風化しているために読みにくい。
地御前村出身の陸軍歩兵一等卒が日清戦争で明治28年(1895)2月26日戦死しその戦功が刻されている。
当ブログを開設した頃に紹介した、廿日市街中の小路に面した銭湯「藤の湯」は現在も営業をされているようである。
大正3年(1914)の廿日市絵地図に「ふろや」と記されているので、100年前後もこの地で営業をされているのである。
現在の後小路で手前に廿日市鋳物師の墓地がある常国寺と向う側に光明寺が見え、かつて江戸時代にはもう少し西側に西念寺があり寺町通りであった。
大永3年(1523)頃、桜尾城にいた厳島神主家の継承争いで後小路で合戦していることが記されており、この頃すでに町の通りが出来ていたことがわかるのである。
西中国山地真っただ中の匹見町道川にある壮大な屋敷構えの旧美濃地屋敷で、現在は歴史民俗施設として無料開放されている。
旧美濃地家は中国山地の鉱山事業に関わっていたようで、道川村の庄屋や割元庄屋などを務めていたということである。
蓮教寺前の廿日市駅通線の道路改良工事に伴った廿日市町屋の発掘調査が行われていた。
2か所発掘されており海岸寄りの発掘場所では焼土がみられ炭や鉄滓、鞴の羽口などをみることができるので柵外から見る限り鍛冶屋遺構と思われるのである。
正徳年間(1711~15)の廿日市町絵図ではこの付近に「かちや庄右エ門抱」と記されているので、これらに関連する鍛冶屋遺構だろうか。
国道2号線の廿日市港からJR廿日市駅に向かっての廿日市駅通線道路改良工事の看板が後小路入口付近に掲げられていた。
工事看板には県道廿日市停車場線とあり、今でも都道府県・市町村道などの法定路線名には「停車場」という明治・大正レトロな言葉が使われているようである。
佐方小学校付近の高台から見た洞雲寺門前で行われている廿日市駅北土地区画整理事業の現在の進捗状況である。ここには山や田んぼがあったのだが・・・
洞雲寺門前では以前紹介した配水管ブロックのようなものが真っ直ぐに設置されていたのは道路に関連する施設のようで、擁壁ブロックのところは宅地であろうか。画面左上付近の住宅は順次立ち退きをされているようで着々と整備が進められているようだ。
先日出雲地方のハゼ架けと当ブログ主のハゼ架けを紹介したが、匹見町下道川地区でみたハゼは5段架けであった。
当地でもハゼと言っているようでここでは雨除けのため頂部に笹をかぶせてあり、この方法が一番良く乾燥すると言っておられた。
飯山地区にあるかつての広電バスの停留所跡で、当地は積雪が多かったので待合の小屋が設けられていた。中にある椅子には廿日市の銘酒であった家納喜の字がかすかに見える。
飯山地区は限界集落で新聞は各家には配達されていないようである。停留所跡の内部には各家の仕分け箱が設けてありそこに入れて置くようで、新聞の残り具合で安否がわかるのである。
※うっかり間違っていました中道ではなく飯山でした。老化現象が始まったか!!