所山地区にある所山河内神社境内のふるさと民俗資料館でガラス窓越しに数多くの民具が拝観出来るようになっている。
かつて繁栄していた所山地区は過疎化が進んでおり民具などの文化的遺産が失われていくのを憂い、先人の苦労を忍びこれらを後世に残していくために地区民によって平成9年(1996)に開館したようである。
昨日紹介した旧酒蔵(民俗資料館)内にかつて酒を搾っていた太い丸太のはね棒とそれを巻き上げる巻き上げ機が小屋裏に残されていた。
搾り槽に太い丸太で荷重をかけて酒を絞り出したようである。以前どこかで見たことがある醤油の搾りに丸太に数多くの重しの石をぶら下げていたとのことであるが、早田酒造では丸太の重量だけで搾っていたのであろうか。
もみのき森林公園内の家族旅行村スペースにある民俗資料館(看板表示は民族資料館)で、旧吉和村内において酒造業をされていた早田酒造から移築されたものである。以前都合で開館できないとのことであったが先日開館されていたので見学した。
1階は休憩所として使用されており2階にかつて早田酒造で醸造に使用されていた道具類や商品レッテルなどのほか民具など展示されていた。
原後畑地区で親ヤギ2匹と子ヤギ3匹が紐につながれて雑草を食んでいた。ヤギを見るのは久しぶりでありこれらは近くの方が飼育しているものとみられる。
当ブログ主が子供のころに1度だけヤギを飼っていたが近所でもヤギを飼っていたのだろうか記憶がない。
♪ ~ 白やぎさんからお手紙着いた 黒やぎさんたら読まずに食べた 仕方がないのでお手紙書いた さっきの手紙のご用事なあに ~ ♪
最近の稲作では除草剤を用いるためにタグルマを使用することがなくなったが、原地区の田んぼの脇に現役のタグルマが置かれていた。タグルマの2台を繋ぎ合わせて2連としてあり田の中を押すのに力がいるであろう。
当ブログ主の農業倉庫内をみると親が使用していた草取り用のタグルマが2台とハッタンズリが2台あった。片方は柄が短く切ってあるのでかがんで草を取りながら使用していたものだろうか。
国道433号線から自動車道路を通って極楽寺山に登っていると各所にマタタビの葉が白くなって遠くから見ると白い花が咲いているように見える。
近づいてみると茎には花が咲いておりこれが実るころには白い葉がなくなるのでどこにマタタビの蔓木があったのか分からなくなる。今年は是非とも実を採取してマタタビ酒を・・・ 「また旅」徘徊するために!
極楽寺本堂西側下にある極楽寺の水場(井戸)脇に小さな池がありその周辺の樹木の枝にモリアオガエルの卵塊が5ケ所みられた。
当ブログ主が子供の頃当寺には電気が通じておらず庫裏にポンプアップ出来ないので井戸近くに風呂場があったのをかすかに覚えている。
梅雨の中休みの昨日極楽寺山にある蛇の池を探訪、池全面にピンクや白など色とりどりの睡蓮が咲きはじめていた。睡蓮まつりの垂れ幕があちらこちらに立てられ期間中に絵画、写真、俳句などの作品募集がされているようである。
睡蓮は今頃から夏にかけてが見頃のようで、池の周辺では多くのカメラマンが傑作をと思い思いにシャッターを切っていた。
昨日紹介した教龍寺にはもう一口梵鐘があり本堂脇の廊下に置かれている。この梵鐘は明徳5年(1394)に鋳造されたもので元筑前州遠賀庄(福岡県岡垣町)黒山千手寺(廃寺)の梵鐘であったが、江戸後期この梵鐘は京都西本願寺から広隆寺に移ったようでその後どのようにして当寺へ移ったのかは定かではない。
以前紹介した宮島千畳閣に架けられている梵鐘(元筑前州宗像郡赤間庄の八所神社梵鐘)の撞座や乳の作風が教龍寺の梵鐘と類似していることなどから筑前芦屋鋳物師の鋳造作品ではないかとみられている。
吉和地区にある教龍寺の鐘楼に架かる梵鐘で寛政11年(1799)8月に海田鋳物師(安芸郡船越村住)植木源兵衛直昌が鋳造したもので、元広島の妙慶院のものであったが当寺に移った経緯は不明である。
鋳物師の植木直昌は芸備両国鋳物師筆頭を称し23ケ所の鋳造が判明しておりこれらのうち7ケ所の鋳造作品が残されている。鋳物師の植木氏については「安芸国鋳物師の鋳造活動」に詳述している。
あちらこちらを徘徊していると蔓性の植物で緑化しているものが2ケ所あった。上画像は串戸地区でみられたもので建物のコンクリート壁面が緑化されたもので、下画像は下平良地区でみられたコンクリートブロック塀が緑化されたものである。
これらはオオイタビという蔓性の植物のようで茎から出る気根で固着しながら壁面を這い登るようである。
廿日市駅北区画整理事業が進んでいる歩道に植えてある街路樹の根元を保護するため「たまちゃん」のデザインされた樹木保護蓋が設置されていた。
鋳鉄製マンホール蓋のデザインは各地の名所や産物などが鋳造されているのを見てきたがが樹木保護蓋は今まで見落としていたようだ。
昨日、毎年紹介している玖島大町地区のモリアオガエル卵塊を見に行ったが時期が少し遅かったようで卵塊が黄色くなって池に垂れ落ちる寸前のようであった。
谷筋(谷名は不明)を入ったここの場所では梅雨時期のこの頃になると毎年見ることができるのであるが、池の周辺には草や雑木が茂っておりハミも出そうで簡単に近づくことができないところである。
毎年、原川末地区にある民家裏の田んぼ脇樹木の枝にモリアオガエルの卵塊が数多くみられるが今年は2個しか見られなかった。
田んぼ周辺の樹木が剪定されたためであろうか高い竹の枝に1個のみで、反対側の背の低い茶の木の枝に1個の卵塊が見られた。
昨日紹介した旧宮内村旌忠碑の道路向かいに建立されている西国街道一里塚跡碑で、広島元安橋袂の里程元標より4里(約16km)の塚であった。
江戸期の地誌絵図(下画像)では専念寺より少し下流寄りに記されているが正確な場所は不明であり用地提供の関係でこの場所に建立されたようである。