現在安芸太田町の筒賀支所で昭和11年(1936)に筒賀村役場庁舎として新築されたようである。洋風建築でアーチ形状が多用され玄関ポーチの屋根には凸凹型の軒蛇腹、ポーチの上部2階のアーチ型ペディメントには植物様の文様と窓両側には幾何学文様が施されている。中国山地の山間村落に登場した時には目を見張るような近代建築であったものであろう。
現在安芸太田町の筒賀支所で昭和11年(1936)に筒賀村役場庁舎として新築されたようである。洋風建築でアーチ形状が多用され玄関ポーチの屋根には凸凹型の軒蛇腹、ポーチの上部2階のアーチ型ペディメントには植物様の文様と窓両側には幾何学文様が施されている。中国山地の山間村落に登場した時には目を見張るような近代建築であったものであろう。
串戸沖の新開は江戸期の嘉永年間に築調され嘉永新開と称されたが、江戸期には串戸沖新開と言われていたようである。堤防沖は埋め立てられて廿日市浄化センターやパークゴルフ場の用地となっている。新開東側の堤防内側には幅広の潮廻しがみられる。
桜尾本町の旧西国街道沿いに残っている唯一の街道松で、昭和30年代には下画像のように4~5本残っていた。江戸期の文化6年(1809)には岩戸土橋から津和野藩御船屋敷の間に三間間隔で40本の往還松が街道の両側に植えられていたようである。
今年もあと1か月少しとなり速谷神社に奉納する注連縄づくりの準備作業である稲藁そぐりが始まった。稲藁の芯を使うためにアクタを取り除いて準備をする作業で、地方によるとアクタを藁すぼといい藁の芯を藁しべというそうである。今年の稲作はウンカ被害でさんざんであったので良質の稲藁が少ないようであるが例年どおりの注連縄づくりをしていきたいものである。
速谷神社参道のモミジが綺麗に紅葉しており、モミジのトンネル、モミジの絨毯様であった。楼門横のイチョウの紅葉は少し遅かったようである。境内では創祀千八百祭に向けて老朽化の施設などの改修工事が始まっているようである。
先日、橋梁の架橋工事が18日から行われるとの情報を頂いていたが訪れることが出来なかった。昨日訪れてみるとPC橋梁がずらりと並んで架けられていた。看板表示によると工期は3月末となっていたがどの程度まで工事が行われるのであろうか。県のHPによると令和4年(2022)3月末まで通行止めの予定とあり、通行できるのはまだまだ先のようであるが・・・
ウォーキング途中で青、青紫、薄緑、白色などのひと際色鮮やかな実を付けた蔓性の植物がみられた。何の実かネットで調べるとノブドウのようでありイヌブドウ、カラスブドウともいうようである。白い実が本来の実で青色や紫色の実は虫が寄生している寄生果のようである。
郷地区にある西教寺で旧西国街道沿いにあり大野村見聞日記写によると第二次長州戦争の際には紀伊藩の家老水野大炊頭が止宿しており、周辺には幕府軍の御台場、見張小屋、篝火、焚出兵粮場などが設けられたようである。絵図(山口県立文書館-芸州四十八坂ヨリ宮内辺戦争図)
江戸期の原村絵図をみると舞台石(赤丸)が記されており、地誌には「河久保、石面凡拾坪、厚サ3尺余、川成高峰ニ平舞台之如ク出張有」とある。川久保付近を探訪したが舞台石とみられる巨石は見当たらなかった。少し気になる長く幅広の切り石が近くの民家庭先にあったが舞台石が切り出されたのであろうか?
ちゅーピーパーク南側駐車場ゲートの東側JR山陽本線沿いにかつてのチチヤス牧場名残りの門柱片側が残されている。かつて国道から山陽本線の踏切を渡っていたが現在は陸橋を迂回するようになっている。(中画像は大野町誌より)平成21年(2009)頃には創業時ころの事務所建物が残されていたが現在は無くなっている。(下画像)
大頭神社の手前道路脇にある長州戦争での戦死者を葬ったところで千人塚と称されている。大野村見聞日記写によると慶応2年(1866)6月12日から8月9日に幕府軍が敗れ退却するまでの2ケ月間大野村の四十八坂から滝の下付近にかけて激戦地となり多くの戦死者があったようである。下画像(山口県立文書館-芸州四十八坂ヨリ宮内辺戦争図)
大頭神社の赤鳥居がある付近の道路脇に壁面に数多くの突起を設けて瓦葺とした変わった家があった。切妻屋根の総3階建であり大きな壁面に窓だけでは殺風景なためにアクセントとして数多くの突起小屋根を設けたものであろうか。
大頭神社を参詣して妹背の滝の紅葉はどのようなものかと訪れたが雄滝、雌滝も画像のような状態であった。途中にある朱色の幾千代橋周辺の紅葉は綺麗であったが、全体的に紅葉が少ないのは訪れ時期が早すぎたのか、落葉樹が少ないのだろうか。
今年の稲作はウンカ被害でさんざんであったが何んとか秋の収穫が終わったので例年の如く米俵を作った。稲藁の芯を使うためにアクタを取り除いて準備をし俵の胴体部のコモを編む機具で、ヒモの上に藁をのせて紐を法則的に交差させ、藁の向きを交互にして必要目数まで順次編み上げていく。
編みあがったコモを筒状に編み紐で結び、コモの端部分を折り曲げて紐で亀の甲状に編み上げていく。片端部を編み上げて袋状になったコモの中に米袋を入れて新米を詰める。米を詰めてコモの上端を折り曲げて他端と同じように紐で亀の甲状に編み上げていく。胴部分の両端ケ所に横縄を二周回して男結びとする。
2本の縦縄を飾り十の字として横縄部分で一回りして他端中央で縄束の突起にして紐で結び、横縄を中央部に回して男結びとする。突起の縄部分に飾りをして完成である。新米の米俵は今年も元気であった証として・・・
足立美術館鑑賞後の寸暇を惜しんで周辺を散策していると県道45号安来木次線沿いに巨樹がありその前に石祠が祀られていた。その脇に以前紹介した広原集落の関札(道切り)のようなものが立てられていた。江戸期の寛延元年(1748)に広瀬で疫病が流行したので、疫病を鎮めるため京都の須賀神社を勧請した。須賀神社の祇園祭(7月21日)で疫病を祓う祈祷して集落境に立てられるようになったようで、現在まで連綿と継承されているようである。(安来市歴史資料館館長平原金造氏御教示)