広電廿日市駅の下り線ホームで手前は現在使用されている低床ホームと向こう側は駅舎から通路として使用されている高床ホームである。
高床ホームは大正13年(1924)に廿日市町停車場が完成したときの鉄道ホームであるが、現在は低床電車となっているので使用されることはない。県道廿日市駅通り線の整備に伴って広電廿日市駅も整備されるものとみられる。
広電廿日市駅の下り線ホームで手前は現在使用されている低床ホームと向こう側は駅舎から通路として使用されている高床ホームである。
高床ホームは大正13年(1924)に廿日市町停車場が完成したときの鉄道ホームであるが、現在は低床電車となっているので使用されることはない。県道廿日市駅通り線の整備に伴って広電廿日市駅も整備されるものとみられる。
龍文寺は陶氏一族の菩提寺であり本堂裏手の山中に陶氏累代の墓碑が50~60基ずらりと並んでいる。
厳島合戦で陶氏の当主隆房(晴賢)は毛利元就に滅ぼされて陶氏は滅んだ。陶晴賢は桜尾城で首実検の後洞雲寺に葬られ墓碑が現在でも残されている。
周南市長穂地区にある龍文寺は洞雲寺と関わりの深い寺である。洞雲寺を開いた金岡用兼はここ龍文寺4世大庵須益に師事、後に5世為宗仲心に師事して永平寺の復興などに尽力している。
金岡用兼は師である龍文寺5世の為宗仲心を洞雲寺の勧請開山とし自らは中興2世となっている。
廿日市駅北土地区画整理事業の進捗状況について時々紹介しているが、部分的には完成したものとみられ換地が済んで住宅が新築されてたり完成しているものもみられる。
現在駅裏に残っていた山部分の掘削が行なわれており、もうすぐ駅ホームから洞雲寺が見られるのではなかろうか。
佐賀県鹿島市を通る旧長崎街道多良往還沿いの肥前浜宿は宿場町及び有明海に望む港町として町並みが成立したようである。
上画像は南舟津の町並み下画像は庄金の町並みで、佐賀長崎を結ぶ陸路と海路の拠点に茅葺き屋根の町屋が数軒残されている。ここの町並みから浜川を越えるとかつて十数軒の造り酒屋や醤油屋があったようで多くの土蔵が残されて酒蔵通りと呼ばれているようである。
島原城下にある下級武士の屋敷跡で道の中央には水路が流れており、両側には石積みの塀を設けた屋敷に茅葺き屋根の武家屋敷が残されている。
3軒の武家屋敷が公開されてその他は一般住居で使用されているようである。ずっと続いている石積みの塀のある屋敷跡は見所である。
平戸市はフランシスコ・ザビエルの伝道に始まった平戸キリシタンの多くの遺跡や記念碑、教会などがみられる。
国の重文に指定されている田平天主堂は松浦半島にある赤レンガ造りの教会で、大正4年(1915)から3年かけて教会堂棟梁の元で信者の手によって建設されたようである。
当ブログ休止中に長崎方面を放浪したのでネタ切れを補うために紹介します。
長崎市でカステラ老舗の福砂屋を探しながら思案橋から歓楽街を入っていくとレトロな丸山町交番があった。平成の建築のようであるが異国情緒の漂う長崎に似合った計らいがされているようである。
速谷神社で行なわれていた斎館の改修工事が終わったものとみられ工事用の仮囲いが取り除けられていた。
シートで覆われた部分は新たに神楽殿が設けられており、来月8日の秋祭りヨゴロにはこけら落としとして北広島町の有田神楽団の神楽が奉納されるようである。
毎年桜島大根の生育状況を時折紹介しているが、今年で廿日市7代目の桜島大根の芽が出てきた。少しずつ間引いて4・5株くらいにするつもりである。
当ブログ開始の前年、平成17年に鹿児島旅行をした際に桜島大根の種を購入して蒔いて毎年種を取り育てているもので、今シーズンの生育はどのようになるのだろうか楽しみである。
当ブログ休止中に四国方面の食品や飲料工場などの視察旅行をして、余り時間に宿泊地近くの金刀比羅宮を参詣した。
参詣が目的でなく遅かったのですでに参道の土産店は店を閉めており、本宮から有士が石段総数1,368段の奥社(標高約430m)まで足を伸ばした。汗びっしゃになり暗くなった参道を降りて迷惑かけないで宿に帰り着いた。
犬山城下の町並みを歩いていると荵苳酒を醸造している和泉屋小島醸造の大きな屋敷があった。これらは江戸後期に建築されたようで国の登録文化財に指定されているようである。
荵苳酒は慶長年ころから醸造されている薬用酒で、犬山藩主から保護されて将軍家や各大名に献上されていた銘酒のようである。