大頭神社境内にある報国神社前に建立されている清国事変凱旋碑で、北清事変に従軍した人達の名前が刻されている。
石碑の礎石をみると古い鳥居柱が使用されており、元の大頭神社参道付近にあったようなので移転に際して古鳥居が利用されたものであろうか。
御手洗川に架かる御手洗橋西詰めの少し上手にある広田神社御旅所跡の石碑で昭和49年(1974)に建立されている。
江戸期初頃まで広田神社の鎮座地で遷座後にはこの地を御旅所として氏神の祭礼には神輿の渡御が行われていた。
串戸3丁目のJR山陽本線踏切り近くにある天王址石碑であるが、現在は周囲を建物に囲まれているので分かりづらい場所にある。
厳島社との関わりの深かった天王社は古い時代にはこの地に祀られていたが、高潮にて破損したために現在の宮内天王社の地に移転祀られたようである。
明治期廿日市名物の一つに大新の桶ずしがあったが、資料も記憶する人も今はなくどのようなものであったのかは定かでない。
昭和60年頃に大新当主の記憶に基づいて桶ずしの再現をされた方によって、昨日再現桶ずしなど盛り合わせた膳でおいしく頂きながらオフ会を・・・
大きな桶で再現されたが資料によると「桶ノマヽ売レルヲ・・・」と土産として買っていたようなので、桶は小さなもので白木の安価なものであったものとみられる。
「廿日市名物桶すし」資料は明治34年発行山陽鉄道案内(復刻版)の広告より。
原橋本地区にある辻地蔵の基礎石の前に小さな可愛い石仏が安置されていた。前掛けが色あせているので以前から安置されていたのであろうが今まで気付かなかった。
基礎石には「是ヨリ 右山縣道 左石州道」とあり、ここ橋本から石州道と山縣道が分岐して、かつては賑わっていたところである。
天満神社境内社の琴毘羅神社で拝殿西側に祀られており、海の守護神を祀ったもので船乗りの人達の信仰が厚かった。
讃岐の金比羅神社分祀とみられ基礎石には船乗り関係の刻銘がみられる。昔は10月9日が祭り日であったが現在は10月第一日曜日のようである。
洞雲寺周辺の廿日市駅北土地区画整理事業区域内になつかしい川本式の手押しポンプが残されていた。
この付近には家はなかったので畑に散水するためのものだったようであるが、ロット棒がなくなっているので使用はされていなかったようである。ネットで調べると現在でも数社で手押しポンプは製造されているようである。
廿日市駅北土地区画整理事業に伴い洞雲寺より少し東側の部分が深く掘り下げられており、ヘドロの中に貝殻がみられたので古い時代はこの付近まで入り江であったものとみられる。
佐方川の河口は江戸時代以前から新開が開発されていたようで、それ以前の時代には葦などが生い茂った湿地で海水の出入りもあったものと思われる。
廿日市駅北土地区画整理事業に伴う洞雲寺周辺の移り変わりについて何度か紹介しているが、一昨日訪れてみると門前向側の山が低くなっていた。
門前には田畑が広がっていたがすべて埋め立てられて、新しい土砂の原っぱとなっており、佐方保育所付近も建物撤去や埋め立てなどが行われていた。
廿日市港そばの住吉神社社殿に掲げてある神額で、神額には「・・・七十七翁 三石澤喬書」とあり、広島藩の元要職を務めていた沢三石が弘化5年(1848)77歳の時に揮毫したものである。
沢三石の名は喬ではじめ左仲のちに讃岐と称しており、広島藩の年寄職を務め致仕後は書画風流を好んだ文人武士であったようである。
廿日市港の近くにある住吉神社で海の守護神を祀ったもので、船乗りの人達の信仰が厚かった。
文政2年(1819)頃には潮音寺境内に祀ってあったが、安政6年(1859)頃には廿日市港の波戸の根に移っている。昭和58年(1983)には廿日市港周辺の整備で現在の位置に移転した。
祭り日は昔、旧暦の6月17日(管弦祭)から11日の日に行われていたが、現在はその日に近い土日曜日に行われているようである。
車で通行する時はJR踏切りで停止していても気がつかなかったが、徒歩で散策中踏切りの遮断機前で待っていると遮断棒の付け根は意外と複雑な仕組みであった。
遮断棒が降りているときに自動車が無理やり強行突破すると遮断棒が折れたり、付け根のロックが外れるようになっているようである。
地御前の町並みには小路が沢山あって迷路のようであり、田舎育ちの当ブログ主は小路を散策するとワクワクする。
小路を歩いていると石積みで塀が設けられていた。現在であったらコンクリートブロックの塀を設けるのであろうが、それ以前の古い時代に造られたもののようである。
昨日はバレンタインデーとやらで手作りチョコレートをもらった。仏教徒の昔人間であるがもらえることは有り難いことである。
昔はこのような行事はなかったものであるが、チョコレートをプレゼントするという「日本型バレンタインデー」はいつごろから始まったものであろうか。