以前紹介した国道433号線の改良道路が原公民館前で全く使用されていないうちに掘り返されてこのような工事が行なわれている。
新聞報道によると景観が損なわれるほかで整備の必要性がないと住民反対運動がなされているようである。
以前紹介した国道433号線の改良道路が原公民館前で全く使用されていないうちに掘り返されてこのような工事が行なわれている。
新聞報道によると景観が損なわれるほかで整備の必要性がないと住民反対運動がなされているようである。
洞雲寺本堂前に設置されている手洗鉢で、漱水とあり手を清めるところで龍の口から水が出るようになっている。
この手洗鉢は安政4年(1857)に奉納されたようで、近年に洞雲寺の山号応龍山に因んで龍頭の漱水口とされたもののようである。
辰(龍)年に因んで龍に関する蔵飾りを再掲します。空に上って雲をおこして雨を降らすという龍を表して火除けの祈願をしている。
左上の蔵飾りは吉和地区にあったが現在は消滅している。(昭和63年頃撮影)右上と左下の蔵飾りは上平良地区にあり、龍の字を表したものは各地でみられる。
昨日紹介した620m峰(通称茶臼岩山)の陸軍標石(48号)が建立されているところは幕末期、長州戦争の際芸藩の後畑御台場跡である。
ここには石積みが残っており御台場(砲台)や陣小屋、篝焚小屋などが一帯に設けられていたようである。
七曲り峠(潮見峠)の掘割りを過ぎて後畑峠方面に尾根筋を進むと620m峰(通称茶臼岩山)に陸軍輸送港域第二区標石(48号)が建立されている。
以前に紹介した汐見山(49号)、野貝原山(53号)折敷畑山(54号)とこの陸軍輸送港域内においては戦時中様々な禁止事項や制限が定められていたのである。
七曲り道を登り七曲り峠(潮見峠)を過ぎると峠の清水があり、かつて往還の人々がのどを潤していたものであろう。
古い石積みの上2箇所に小祠が祀られており、近年水汲み場が整備されたようであるが流水はみられなかった。江戸期の地誌によると旧神祠があるので御水と呼ばれていたようである。
国道433号線後畑分岐付近から以前紹介した七曲り峠(潮見峠)に向かって七曲り道を登ってみた。
急斜面を登る峠越えの道であるのでつづら折れの道で、途中までは中電管理道で整備されているがそれ以外は道跡の痕跡をたどることになる。古い地図には七曲り峠の標高594mとあった。
天神山から廿日市駅方面を遠望すると駅裏にあった山はもう少し残っているが、洞雲寺や佐方小学校が良く見えるようになった。
手前にみえる緑の屋根の廿日市保育所左側の空地は廿日市駅通り線の予定地で廿日市駅に通じるのであろうが、先には建物があり全通するにはまだ当分かかりそうである。
廿日市町並みの間からみられる天神山の正覚院裏手にある大クスノキで幹周りは8m前後の巨樹である。
崖地に生育しているので近づくことが出来ず幹周りは計測できないが、大正7年(1918)の地誌に樹周約二丈四尺とある。
以前広電廿日市駅上り線プラットホーム裏手に建設省と刻されたコンクリート杭がずらりと並んで設置されていることを紹介したが、少し東側の線路脇にもずらりと並んでいた。
広電の用地と市道の境杭のようにみられるがどのような経緯で建設省とあるコンクリート杭が設置されたものであろうか。
速谷神社は大正12年(1923)から造営工事が進められて翌年には国幣中社に昇格している。境内地の拡張に伴って樹木の献納を受けていたようで、境内には大正13年(1924)10月と刻された献木石碑がみられる。
佐伯郡長新居善太郎(以前に紹介)、侯爵浅野長勲、広島県知事山縣治郎と刻された3基の石碑がみられるが、隣接樹木との関係はなさそうである。
昨日は散歩を兼ねて原地区の立善寺、伊勢神社と上平良地区にある河野原大歳神社へ初参りをした。
伊勢神社では無人で御札やお守りなど10種類くらいが置かれており、代価は賽銭箱に入れて下さいとあった。神様の前で罰当たりのことをする人はいないであろう。
元日には例年の如く近所の西蓮寺、速谷神社、二重原八幡神社、都地蔵へ初参りをした。速谷神社では多くの参詣者で行列が大鳥居付近まで延びており、寒い中順番を待って初参りを済ませた。
速谷神社の神様はたいそう多忙のようなので八幡神社の神様にお願いを。このブログがいつまでも続けられますようにと・・・