善光寺では明治初期までは「善光寺七名物」という商品があったようで、昨日紹介した八幡屋磯五郎の七味唐辛子、また眼界堂笠原十兵衛薬房の雲切眼薬などがあったようである。雲切目薬は現在も笠原十兵衛薬局で販売されており薬局内には家伝薬であった当時の調合器具や資料、看板などが展示されていた。
善光寺では明治初期までは「善光寺七名物」という商品があったようで、昨日紹介した八幡屋磯五郎の七味唐辛子、また眼界堂笠原十兵衛薬房の雲切眼薬などがあったようである。雲切目薬は現在も笠原十兵衛薬局で販売されており薬局内には家伝薬であった当時の調合器具や資料、看板などが展示されていた。
ミステリーツアーの最終日に善光寺を参詣した。以前に娘が長野市に居たことがあったことと以前のミステリーツアーで参詣したことがあり三度目の参詣となった。善光寺本堂の外陣に入ると以前に盗難報道のあったびんずる尊者が安置されており、御本尊参拝後に善光寺名物である仲見世通りの八幡屋磯五郎の七味唐辛子を求めた。
安曇野にある大王わさび農場を久しぶりに訪れた。以前訪れた時の記憶は広いわさび畑と水車小屋だけだったが、農場内には数多くの道祖神や石仏があった。これらの道祖神は各所に祀られていたものが集められたものではなかろうか。広島地方ではみられないような道祖神文化が栄えていたようである。
大町温泉郷の宿泊ホテルの玄関先に上画像の道祖神が設置されており、宴会場前のホールには中画像と下画像のような最近築造された道祖神が設置されていた。広島地方ではみられないような道祖神文化が栄えていたようである。
今回のミステリーツアーで大町温泉に宿泊した。当温泉地には積雪が多くあったが、寸暇を惜しみ温泉郷内を散策して広島地方ではみられないような道祖神を訪ねてみた。道祖神はどのような信仰が行われていたのであろうか。
昨日は天龍峡大橋下歩道 そらさんぽ天龍峡 を散策してから養命酒駒ケ根工場を見学した。続いて大王わさび農場を散策し国宝の仁科明神宮を参詣した。今日はどこにいくのだろうか。
馴れないタブレットから***
体調不良であるが無理してミステリーツアーに参加した。fdaチャ-タ-便で極楽寺山と同じ位いの標高の松本空港についた。雪の降る中山道の宿場町であった奈良井宿では震えながら散策した。
今日はどこにいくのだろうか。
一昨日の中国新聞に三つの「みよし」災害協定へとの記事があった。その一つである徳島県三好市池田町マチに祀られている厳島神社を紹介しよう。由緒などは不明であるが吉野川を利用していた船運関係者によって勧請祀られていたのではなかろうか。池田町の町並みには重厚な袖うだつを設けた町屋が多く見られる街である。
昨日紹介した堂垣内付近にあった中世の平楽寺はいつの時代かに衰退してその跡地に平楽地蔵が祀られていたようである。昭和初期に平楽地蔵堂が荒廃していたので、上平良住民の浄財金を集めて新しい平楽地蔵堂を権現山の麓に新築し地蔵供養が行われたようである。
上平良を通っている国道433号線で堂垣内と表示されているバス停留所標識がある。堂垣内地名は中世速田大明神(現速谷神社)との深い関りのあった平楽寺の名残りを伝えている地名である。江戸期の地誌には平楽寺跡(赤丸ケ所)がみられるのみであるが、明治5年(1872)の地券申受帖には堂垣内、寺ノ前、平楽寺の字名がみられる。
当ブログ主は若い頃には城に興味を持っており、各地の城跡や山城を巡っていたものである。古くからの城友達から城郭移築建造物大全「西日本編」という大著をこのほど頂戴した。当方が若い頃作図していた安芸高田市の法円寺三菱窟を掲載して頂いたのである。
椎茸の栽培で年数が経つとホダ木が腐朽していくので毎年少しずつ補充をしている。昨年暮れに切り置いていた椎茸のホダ木に植菌をした。「にく丸」という品種と「もりの金太郎」という品種を植菌してみた。遊びの菜園の続きでありうまく出来ればよいのであるが・・・
昨日、「かっぱえびせん」のカルビー工場が建築中であることを紹介した。かっぱに因み・・・ 玖島地区の大峰山登山口付近の吉末川にはエンコウ(河童)伝説があるようである。子供の頃、溜め池で遊びをしているとエンコウが尻の穴に入ると恐らされていたことがある。危険な渕に近づかないようエンコウに引きずり込まされると云われていたのであろう。
佐伯区五日市港の広大な埋め立て地に「かっぱえびせん」のカルビー新広島工場が建築中であった。大規模の工場であり完成後には当市木材港にある広島工場や広島西工場も順次移転され稼働開始となるようである。
国道2号線(宮島街道)の廿日市小学校入口交差点付近の中電電柱に観光道路支と表示された銘板が取り付けられていた。今時観光道路がわかる人は少ないのではなかろうか。昭和6年(1931)から在来の道路(旧国道)とは別に、昭和恐慌の失業者救済の事業として現在の国道2号線が建設された。この道路を宮島観光道路と称されていたのである。