hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

Villa D'est Gardenfarm and Winery~長野ランチグルメ

2015-09-10 05:00:50 | グルメ

Villa D'est Gardenfarm and Wineryは文筆家の玉村豊男氏が2003年に開設したワイナリー。ワイナリーや庭園の散策ができ、カフェではランチやディナーを楽しむことができる。場所は長野県東御市(旧 東部町)の小高い丘の上にあり、町を一望でき、また、周りはブドウ畑と庭園に囲まれている。

以前から訪れてみたい場所であったが、念願叶い、8月某日1時半にランチを予約した。店はそれほど広くないが、中に入ると玉村氏がデザインをした食器やポストカード、ワインを販売しており、その奥にカフェがある。

席に通されて右側を見ると遠くに上田の街並みが広がり、サンセットが素晴らしいと聞いたが、そのロケーションに納得。予約したコースに飲み物とメインを決めてランチスタート。

アミューズに信州サーモンのマリネに生食用のカボチャを刺したピンチョス。サーモンは脂が乗っている。

前菜は夏野菜づくし、『夏のヴィラデスト』。夏野菜入りのガスパチョ、レタスサラダ、焼いたナスにモッツァレラとミニトマトを乗せたもの。サラダのドレッシングもトマトも美味く、信州の夏野菜に感動。

次に別料金で追加した小さなスープ、トウモロコシの冷製スープ。自然の甘さが際立つ。

メインは小生は『信州牛と丸ナスのムサカ』、簡単にいうとナスと牛肉のつなぎなしハンバーグにトマトとチーズ入りホワイトソースをかけたもの。敷いてある焼いた玉ねぎと共に食べるとその味のバランスが良く、ボリュームもある。

相方は『信州ハーブ鶏と自家製ソーセージ、じゃがいものローズマリー風味』鶏のムネ肉をローズマリーとともにローストし、塩レモンのソースをかけたもの。

デサートはヨーグルトのアイスクリームとペパーミントのムース。特にムースの控えめなペパーミントの香りが素晴らしい。

全てを通し、器やランチョンマットなどの調和も良く、特に最後のコーヒーカップなど欲しくなるほど。残念ながら、車のため、ワインは相方のみであったが、十分堪能した。味もいいが、雰囲気が良く、ご婦人を招待すると必ず株が上がることはうけあいである。(因みに某氏がノンアルコールシャンパンを飲んだらサイダーと変わらないくせにしっかりした値段だったとの話もあり、やめた方が賢明らしい。)


ヴィラデスト ガーデンファーム アンド ワイナリー
長野県東御市和6027
0268637373

錦糸町駅(東京メトロ半蔵門線)

2015-09-09 05:00:48 | 日記

『metroに乗って』その26。今回は東京メトロ半蔵門線錦糸町駅を歩く。錦糸町に半蔵門線の駅が出来たのは2003年3月とまだ12年程度しか経っていないが、錦糸町駅自体は旧国鉄が買収した総武鉄道(現在の総武本線)の本所駅として開業したのが1894年と120年を超える歴史を持つ。


そう言えば『錦糸町』の『錦糸』は江戸時代にあった錦糸堀に由来する。しかし、その錦糸堀の起源は『岸堀が訛った』『琴糸を作っていた』などまことしやかな説があるが、はっきりしていない。



錦糸町はJR総武線で街が分断されており、南側はJRAの場外馬券売り場、楽天地ビルの天然温泉など古くから開けた風俗街で京葉道路沿いに広がっている。他にも西友(LIVIN)や丸井などもあり、賑わっている。


駅から少し行くと錦糸堀公園、錦糸堀の名残は今はあまり見られない小さな公園ではあるが、河童の像がある。これは本所七不思議の1つ『おいてけ堀』のことで『錦糸堀で釣りをしている内にます日が暮れて帰ろうとすると「おいてけおいてけ」という声が何処からともなく聞こえる。そして、釣り人が魚籠を見ると魚は一尾もいない。怖くなった釣り人は一目散に家に帰った』という話が残っている。因みに他の7不思議は『送り提灯』『消えずの行灯』『足洗屋敷』『片葉の葦』などと言われている。



一方、北口はバブル頃から開発が進み、元錦糸町そごうのアルカキット錦糸町や東武ホテル、精工舎跡に開発されたolinas、ロッテホテルなど新しい建物が多い。


さらに北口駅前には大規模避難地にも指定されている錦糸公園には体育館もある。


アルカキット錦糸町の11階は開放されており
、登ってみたが、正面に東京スカイツリーが見えてその迫力には驚いた。

また、北口のバスロータリーには大きな輪が左右からつられているようなオブジェがあるが、これは音楽の歴史を表すECHOであり、楽譜のヘ音記号を二つ重ねたものだが、どう見てもドーナツがワイヤーにつながれているとしか見えない。


このオブジェは1987年に音楽都市を宣言した墨田区がローレン・マドソンの作品を採用、設置したものらしい。
それにしても、錦糸町駅付近の発展は目覚しいものがあり、特に北口が大きく変貌しているのには正直驚いた。

勝負の綾~9月6日阪神中日戦

2015-09-08 05:00:39 | 日記

『勝負の綾』という言葉をご存知だろうか。辞書を引くと『勝負を決する微妙な作戦や駆け引き』と出てくる。プロ野球の試合を見ていても何回も勝負の綾が出てくる試合もあれば、1回しかない、1回もない試合もある。
9月6日の中日阪神戦は7回の攻防に勝負の綾があった。先発は阪神・岩崎、中日・若松の投げ合いで1回の1死満塁をゴメス三振・今成内野ゴロで潰した以外は両軍チャンスはあまりなかった。
迎えた7回表、阪神は先頭の今成がクリーンヒット、7番伊藤だが、ベンチはあまり考えた様子もなく犠牲バントで1死2塁のチャンス。しかし、ここで8番藤井に期待するのはそもそも無理があった。というのは前打席で変化球を気にし過ぎて簡単に三球三振していたのだ。やはりこの打席も前の打席を引きづり初球変化球をショートゴロ、ランナーは3塁にも進められない。ここで9番岩崎は簡単に打ち取られる。
解説者も話していたが、打撃を期待する伊藤に簡単にバントさせるなら、9番は代打。藤井に代打もありうる。そうしないなら伊藤に打たせるはずでは、小生もそう思う。しかし、和田監督は好投の岩崎に賭けるのかなあ、とも感じた。

しかし、チャンスの後にはピンチありで、7回裏は岩崎が先頭のルナに死球、平田に2塁打を打たれ、無死2.3塁。しかし、中日の和田には0ー3からフルカウントに持ち込み、絶妙な投球で3塁ゴロで1死を取る。続くエルナンデスは勝負避け気味に四球。1死満塁となった。
ここが勝負の綾となる。次の打者は右打者の赤坂、当日は2打席三振であまり岩崎には相性が良くない、しかも、中日には右の代打がいない。一方、右投手が出てくれば代打は森野や藤井がいる。

ここで阪神ベンチは岩崎を諦めて右の安藤を送るが、やはり中日は左の森野が代打で出てくる。そして、安藤は四球を気にして初球の落ちないフォークをライト前にヒット、先取点を取られる。
さらに、続く9番の若松にはまた左の藤井、これもセンター前に2ー3から打たれ、2対0。これでほぼ試合は決まってしまった。
6回までは好投していた岩崎に賭けるのならば赤坂との勝負をさせても良かったのではないか。逆に諦めるのならば攻撃の際に代打を送る選択肢もあったのではないのか。とりあえず、7回は岩崎で行ってみてと何にも考えないベンチ、翌日は試合がないので頭から継投もありうるのだ。

何れにしても中途半端な采配で落とした星は大きい。1敗は1敗だが、金曜日は上位3チームが勝利、土曜日は阪神のみ勝利でヤクルトと巨人が負けて、せっかく引き離すチャンスである勝負の日曜日だっただけに残念な采配になってしまった。

こんな感じで毎年やっていては中々簡単には優勝はできない。腹をくくる時はくくる、スパッと諦める時は諦める、何れにしても手なりで勝てるほどペナントレースは甘くない。

野猿公苑~渋温泉

2015-09-07 05:00:00 | 旅行
長野県の渋温泉は野生の猿が川に涌いた温泉につかるというシーンが有名だが、実際にどのように入っているのかを見に行ってみた。実は渋温泉には2年前の夏に宿泊したのだが、宿泊の翌日は車軸を流すような大雨で野猿公苑は滑りやすい山の中と聞いて断念した経緯がある。今回は周到に調べたが、公苑のHPを見ると上林温泉に無料駐車場が有り、そこから徒歩30分かかると書いてある。しかしよく調べると有料だがもっと近い駐車場が渋温泉から行く道にあることを発見。ただほぼ一車線の山道を約15分くらい走らねばならないため、反対から車が来ると離合に苦労しそうな道路ではあった。幸いほとんど対向車もなく、500円を支払い駐車場に車を入れ、川沿いの道を歩く。すると、山に上がる1本道が出てくるので登ると後楽館という温泉施設が出てくる。もともと温泉に猿が初めて入ったのは子ザルがいたずらに後楽館の人用の温泉に入ったのが最初である。

その温泉の屋根を見ると2匹の猿が毛づくろいをしている真っ最中。人を恐れないやつと感心する。少し行くと階段になっており、その先には噴水のように温泉が吹き出ているところに出る。まさに、この噴水が地獄谷温泉の象徴のようである。

その先を5分くらい行き、階段を登ると野猿公苑の入口。写真はとってもいいらしいがあまり近づきてスマホを猿に奪われたカメラマンもいたようである。(その様子が大伸ばしで張ってある。)また、入園しようとする中に飼い犬を連れた人が結構いたが、流石に猿と犬は仲が良くないようでこれはNGであった。
入園すると入口の建物には既に猿が陣取っていて屋根からご挨拶。

公苑の中に入るとお猿がいっぱい、全部で160頭いるらしいが、人のことはあまり目もくれない。大阪の箕面や別府の高崎山の猿と違い、人にはあまり興味が無いようで猿同士が蚤を取り合ったり、餌を食べたり。人に向かってくることも全くなく、カメラを向けても特に反応しない。春に生まれたばかりの子猿をお母さんが気にしながら仲良く餌を取っている姿は愛らしい。


その先には川原が広がり、お猿専用の温泉が用意されている。夏だから入っていないかとも思ったが、餌が蒔かれているのか何匹かは温泉に入り、一生懸命餌を食べていた。このお湯の温度は夏は30℃と低め。また、中には温泉の水をずっと飲んでいるのもいて、ダチョウ倶楽部の上島竜兵氏のように後ろから押したくなる格好のやつもいる。


ただ、猿同士も人間と猿もほとんど揉め事を起こさず、我々がいてもその横を擦りぬける猿たちの行儀の良さには感心した。


鶴ヶ城と飯盛山

2015-09-06 05:00:00 | 旅行
会津若松市のシンボルといえば若松城、地元では鶴ヶ城の名前で知られているが、今の形に近い若松城となったのは1592年に蒲生氏郷が入城して以降のことである。さらに1593年に天守を竣工して名を鶴ヶ城と改めた。その後、藩主は蒲生氏⇒上杉氏⇒加藤氏と変わり、加藤氏が改易されると1643年に3代将軍家光の弟に当たる保科正之が入城、それ以降保科を松平に改め、藩主として居城した。しかし、戊辰戦争で新政府軍と戦い、籠城することとなる。1ヶ月あまりも城は落城することはなかったが、砲撃を受け建造物の傷みも激しく、明治になり、城は取り壊された。その後再建されることになり、1960年に鉄筋コンクリート造りの今の姿となった。

4階建ての城の天守からは飯盛山もはっきり見える。大河ドラマブームであった2年前に来た際には大変な混雑であったが、いまはゆっくり見れる状況にある。

城に登りながら、ふと会津戦争の際に飯盛山から鶴ヶ城が燃えて落城したと錯覚し、白虎隊の少年たちが自刃したと伝えられているが、飯盛山からは鶴ヶ城がどのように見えるのかが気になり、翌朝、早速、鶴ヶ城に向かった。

飯盛山は会津若松市の東端にあり、高さは314Mの飯を盛ったような形をした小山である。階段が嫌いな人にはエスカレーター(有料)で上がれる仕組みで、その上には自刃した白虎隊のお墓がある。

その墓から5分くらいのところに先ほどの鶴ヶ城を見て落城したと勘違いした自刃した場所があるので行ってみた。その場所には城の方向を見ている少年像がある。

像の指差す方向を臨むとかなり時間をかければ城があることは確認できるが、大変小さく正直言って鮮明には見えない。当時、城の近くにあった武家屋敷が燃えるのを見て鶴ヶ城が落城したと思ったのはやむを得ないなあと実感した。(次の写真がそのまま撮った写真、次は拡大したもの。ちなみに鶴ヶ城は写真の真ん中やや左側に有る)


その後、栄螺堂という変わった仏堂を見学した。これは正式には『旧正宗寺三匝堂』で二重らせん構造の斜路を持つ建物。簡単に言うと3階建ての建物だが、上りの通路と下りの通路が別に有り、下から頂上まで行き下まで降りる間に他者とすれ違わない構造になっている。こんな複雑な構造江戸時代の大工が作ったこと自体に驚いた。現在は重要文化財となっているが、拝観料を払えば登ることができる。しかし、傷みもひどく、登れなくなりそうでもあり、ぜひ会津に行かれたら登ってみるといい。








水道橋周辺の坂道(2)

2015-09-05 05:00:40 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その53。水道橋周辺の坂道の後編。もう一度水道橋駅までもどり、白山通りを巣鴨方向に向かい、少し行って右に曲がる。すると桜蔭学園に沿ってジグザグに上がる坂道があるが、これは『忠弥坂』と呼ばれている。



その由来は丸橋忠弥の槍の道場が坂の上にあり、慶安事件で捕らえられた場所が近いことによる。下から見るとジグザグがはっきりしている坂道である。



坂を登り切り左手に曲がり、突き当りを右に行くと広い道に出る。これが『新壱岐坂』である。

これは元の壱岐坂と東洋学園大のあたりでX字に交差しているが、関東大震災の復興計画に従い新たに作られた坂である。このため、元の壱岐坂は上下で分断されたようになっている。



その壱岐坂は彦坂壱岐守下屋敷があったため、その名前が付けられたものである。上半分ははっきりわかるが、下半分はやや分かりにくい。


坂を下りると目の前に後楽園遊園地が見えてくるが、大通りの1本手前の道を左に曲がると金毘羅宮東京分社が見えてくる。やはり、水産業や水運業からの奉納が多いが、狛犬が中々変わっていて面白い。また、その隣には水道橋稲荷もある。



水道橋は御茶ノ水に向かっても、春日方面に向かっても坂道が広がっているが、元は本郷元町と言った一角で、学校が多い。ただ、小学校は廃校になり、住んでいる人はへってきているのかも知れない。

阪神タイガースの分析と展望(私見)

2015-09-04 05:00:34 | 日記

たまには野球、それも阪神タイガースの話。スワローズにゲーム差なしまで迫られてはいるが、今のところ(9月2日現在)首位である。
ではその強みを探ろうと数字を見てみると、リーグでは打率5位(.249)、防御率5位(3.68)、ホームラン5位(70本)、得失点差6位(△80点)、盗塁6位(41個)とどれを見ても引け目ばかり。しかも打率はあまり差がない(トップのヤクルトが.260)が、防御率などは大きく差がある(トップの巨人が2.77)。

一方、ライバルのヤクルトは総得点1位(490点)、得失点差が1位(+46点)、打率1位と打撃では秀でているし、巨人は防御率1位、盗塁1位(84個)と守りや小細工で秀でている。それならば阪神は何が頭抜けているのか、これだけではよくわからない。

他のチームと比較して今年の阪神の特色はレギュラーメンバーがキャッチャー以外はほぼ固定されていること、先発ローテーションは最初からほぼ中5日で守られ、さらにセットアップ(安藤、福原)、クローザー(呉)も安定感があることは確かである。

次に月別に見てみると、勝敗差は3・4月△1、5月△1、6月+4、7月+2、8~9月0で現在+4と意外に安定している。さらに、連敗が4月に1回6連敗がある他は最悪4連敗で止めており、勝ちも6連勝が2回あるだけ。なんとなく掴みづらい。

つまり、データからは殆ど明確な事実は浮かんで来ないとしかいいようがない。
しかし、今のままではセリーグのペナント争いにいつ決着が付くのかすら全くわからない状態であることは間違いない。
それではあと約1ヶ月の戦い方だが、対戦成績の悪い広島と今月だけで9回も対戦があり、この対策、特にジョンソンと前田をどう打つのかが課題だろう。一方、相手打線にも丸、松山、菊池に特に打たれていることは周知の事実であり、その対策が絶対に必要である、
さらに他球団もヤクルトの山中、巨人のマイコラスといった苦手が故障している間に勝ちをつみあげるのかもポイント。
また、今までの話とは逆になるもしれないが、今回の広島戦のように前回の対戦で連敗した投手に同じ投手を当てる(1日は能見・ジョンソン、2日は岩田・前田)には一工夫欲しいところだ。

カンフル剤として昨年の福留のような存在がない中、西岡でも帰ってきたり、スーパーサブが1人出てくるとか、二神のような生きの良い投球ができる投手に先発させるとか工夫なしでは中々優勝は難しいかも知れない。少し弱気すぎるかな?

脱稿.2015.9.3 18時

旅先で見た面白看板

2015-09-03 05:00:07 | 旅行

旅を続けていると名所や旧跡もいいが、少しウィットに富んだ看板やゆったり過ごす動物、ほのぼのとしたポスターなどに心癒やされる事がある。
今回の旅行はまず東北道で白河ICまで走り、そこから国道289号線に乗り、大内宿を目指したが、途中の甲子高原の『座頭転ばし』展望台(福島県西白河郡西郷村)で見た看板。(冒頭の写真)『西郷は空気もいい。水がいい。住むには最高、熊の俺もそう思う。』と書かれているが、実は反対には「熊注意」の看板もある。ただ、熊の表情がなかなかいい。

次は大内宿に着いた後、茅葺の家を撮ろうとカメラを抱えたら、なぜか目の前の猫がグデグデ。そばに寄っても平気らしい。実は前日にマタタビをこの辺りに置いてその香りを楽しんでいる図らしい。


因みに見学を終え、戻ると件の猫くんは座布団の上で気持ちよさそう。


次は大内宿で見た看板。消火施設の上の木の蓋に貼られていたが、大内宿は江戸情緒を残しているからか、『消火施設が埋設されています。この上にあがってはなりませぬ!』。これが最後が『いけません』なら面白くないが、こう書いてあれば誰もこの上には乗らないだろう。

その後、寺社や城を回り、会津若松で飲みに行ったのだが、そこで見た『あかべー』のポスター。中身は写真のとおりだが、お店の人の旅人への暖かさがよく伝わる。

最後はおまけで、居酒屋の隣の小さな神社にいた猫くん。こいつも逃げないどころか、ポーズを決めてくれる。大内宿や会津若松はのんびりしていて楽しい街である。

本郷三丁目駅(丸の内線・大江戸線)

2015-09-02 05:00:00 | 日記

『metroに乗って』その25。今回は東京メトロ丸の内線と都営大江戸線本郷三丁目駅の周辺をめぐる。

本郷三丁目駅は丸の内線開業の1954年に開設、その後2000年に大江戸線が開通して乗換駅となった。ただ、乗換とはいえ地下で繋がっておらず、実は隣の後楽園・春日で乗り換える方が便利である。

また、駅の名前は本郷三丁目で確かに開業時には『本郷三丁目』にあったが、その後1965年の住居表示実施により現在では『本郷二丁目』に駅がある。


出口を出て本郷通りと春日通りの交差点には『かねやす』という江戸時代から続く小間物屋がある。この店は元禄年間に兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)という口中医(現在の歯科医)が歯磨き粉である乳香散を販売したところ評判となり、この地に店を出した。


その後、享保15年に大火事があり、本郷のかねやすより南側は防火建築である塗屋・土蔵造りを奨励したため、かねやすが江戸の北限と認識され、『本郷も かねやすまでは 江戸の内』との川柳が生まれた。今はビルとなってはいるが、今もかねやすの看板はかけられており、当時を偲ばせている。

本郷通りをしばらく行くと右側一帯が東京大学になる。最初の信号が有名な赤門であるが、赤門自体は加賀藩前田斉泰が徳川家斉の息女を正室に迎えた際に建立された御守殿門で現在では国指定の重要文化財である。

それから2つ目の信号に正門があり、ここから構内に入るが、この辺りには法学部の校舎が立ち並ぶ。

入り口すぐを左折し、しばらく行くとテラスというか四阿があり、そのあたりに梅謙次郎追慕植樹碑が建っている。梅謙次郎は日本の民商法の父であり、切手の世界では最初の文化人シリーズに名を連ねている。


戻ってまっすぐ歩くと安田講堂、安田講堂事件以降長く封鎖されていたが、1989年に改修、地下には大食堂も作られた。その威風堂々とした姿は中々素晴らしい。


また、その周囲の建物も時代を重ねたものが多く、銀杏並木とともに日本最高学府としての権威を感じさせられ、夏休みということもあり、地方から来たのか制服を着た高校生たちが記念写真を撮っていた。


野沢温泉外湯めぐり

2015-09-01 05:00:14 | 旅行

今回の旅行では温泉には、魚沼から尾瀬に向かう途中にある大湯温泉と飯山市からほど近い野沢温泉に宿泊したが、その中で温泉街の風情を残す野沢温泉についてレポートしたい。

小生は野沢温泉というと野沢菜とスキーアルペン複合の萩原兄弟を思い出すため冬のイメージが強いが、夏も中々いい。今回は野沢グランドホテルに宿泊、折角なので外湯13湯の一部を巡ってみた。

野沢グランドホテルは野沢温泉の中では小高いところにあり、どこに行くにも最初は下り坂、帰りは上り坂になり、宿の雪駄が足の指の股に食い込んで痛い。我慢しながらまずは『大湯』を目指す。

ホテルから一旦下って、さらに細い温泉街の坂を登りきると大湯、薬師三尊仏が祀られるという。名前は大湯だが、中はあまり広くない。透明な湯はあつ湯とぬる湯の2つに分かれ、ぬる湯には『熱い時にはうめてよい』と書いてある。これはぬるくて楽勝と足をつけるととにかく湯舟が深い。何とか底を探るが、湯は結構熱い。それでも1分近く入り体を慣らす。そして一旦上がり、『決してうめてはいけない』と書いてあるあつ湯に足をつける。最初はぬる湯とあまり変わらないと感じつつ、体を付けるが、いやこれが熱い。一旦は何とか肩までは入ったが、10秒と持たず出る。しかし、周りの面々は誰も湯舟には入れておらず、かなりの猛者でないと浸かれないらしい。まあ、まだ1湯目だからと大湯は終了する。

次に坂を少し降りた所にある『河原湯』に行く。大湯で火照った身体には河原湯はそれほどでもなく、すんなり入る。おっかない感じのおじさんが顔を真っ赤に入っていたので先に出ることも叶わず(湯から出る際に波が立ち熱いと言われかねないため)おじさんが上がるのを待つ。少し長湯したからか、温泉の効果はてきめんでこの辺りから汗が止まらなくなる。

次の『麻釜の湯』。すぐ近くに麻釜温泉公園もあり、我が宿野沢グランドホテルの温泉もここが源泉。ここはどうしても熱くて入れない40代のお父さんと小学生の息子が水をかけながら、粘っていたが、全体で6人の男が所在なさげに周りにいて、実際に湯舟に浸かったのは小生ともう一人の青年だけ。まあ、最近は公衆浴場にも行かないから熱い湯に入れないのはやむをえないかもなどと勝手に考える。

4湯目は宿に近い『真湯』、ここは今までと違い白濁した湯で少しぬる目。それでも相撲取りのような青年と2人入ったが、急に青年が耐えられなくなり、出ると水流が起こり、熱いたらありゃしない。ここは湯舟も新しく、気分良く入る。すると後から来た地元のおじいさんが話しかけてきたので少し話をする。
本来、13の外湯があり、渋温泉は完全制覇というか、完入したが、今回はさすがに4つ入っただけで湯あたりしそうになり、断念。渋温泉も熱かったが、やはり熱さでは野沢温泉に軍配が上がりそうである。次はどの温泉を巡るかな。