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田舎暮らし雑感2018(6) 水害後の田舎で生活再開

2018-07-17 20:49:37 | 日記
昨日12時過ぎの松山空港は東京と変わらず暑かった。何時も利用する直行便バスに乗らず一旦松山市の中心部に行き、当座必要な水などの最低限の食料を仕入れ昼食をとる積りだった。ところが市駅周辺にはスーパーが無くうろうろ歩き回っているうちに時間切れ、コンビニで弁当を買いバスに乗った。

宇和島に行くという老カップルの女性から肱川の氾濫で被害を受けた旧野村町の状況を聞いた。私も報道や知人から得た大洲市の状況を伝えた。被災地の実家に向かうという同年配の私に共感を持ってくれたようで、下車する時に「頑張って」と大声をかけてくれた。私は逆にこれは大変だと思った。

バスで高速道路を移動中は何時もと変わった景色はなかったが、いざ下車すると周りはセピア色で広い駐車場は土埃をあげてトラックが走り回っていた。二つのショッピングモールとも全く同じ、映画「マッドマックス」の荒れた風景を思い出した。幹線道路の交通量は寧ろ多めだったが、黒いアスファルトが土色になっていた。

通りかかった作業員に声をかけると2mの高さのシミを指さして洪水がここまで来たと教えてくれた。別の作業員は「東大洲一帯はみなこんなものです」と諦め顔で言った。この日も大洲市は約35度の猛暑で、質問には答えてくれたが(多分誰も聞いてくれないので)、気のせいか疲れた顔だった。

実家の近くの表通りに床上浸水した3つ年上の独居老人宅では、業者に加え子供家族の応援を得て片付けで大わらわだった。様子伺いを兼ね挨拶に立ち寄ると彼女は意外にも元気だった。大事にしていた家具やピアノなど全て駄目になり、冠水した部分の壁が落ちていたが、集落の多くの人が助けてくれたという。彼女は自宅だけだと言ったが、他にも2軒が床上冠水し家の前に畳を干していた。

実家に着いた頃には汗でびっしょりだったが、鍵を開けて中に入ると以外にヒンヤリしていた。台風7号の直前に閉め切って帰京したのだが、その方が気温上昇を防いだようだ。部分的に若干カビが生えていた位で、豪雨に拘わらず家の内外はどこにも異常はなかった。それどころか、私がどうにもならなかった西側を流れる小川が完璧に掃除されていた。水の力はホント凄い。

水道の蛇口をひねると凄い音でガスが出、続いて濁った水が、そのうち透明な水が出て来た。丁度有線放送が流れ、水道水は口には入れられないが、シャワーを浴び洗濯が出来るという。全ての蛇口を調べたが同じだった。2階の水道は圧力が低く蛇口をひねるとガスは勢い良かったが、後はちょぼちょぼ流れ出る程度だった。

取り敢えず冷凍庫の食材と弁当のペットボトルの残り水で味噌汁を作り、焼酎はオンザロックで朝食用シリアルをツマミにして飲んだ。初日の夜としてはマズマズの出足だった。その後はテレビを見ながら新聞をチェック、W杯の結果を確認し、疲れを覚えいつもより早く10時過ぎには寝た。

夜になると気温が下がりよく眠れた。昼間の気温は東京より高いが三方森に囲まれた実家の夜の方が凌ぎ易い。昨夜のうちに洗濯したシャツやタオルはもう半乾きだった。朝食はパンとリンゴにインスタントスープ、これで水が無くなった。居間の絨毯や座椅子、各部屋のマット、ベッドのゴザや枕など全て干した。覚悟はしていたが猛暑の中で総てを自分でやるのは中々大変だがやるっきゃない。

車は一発で動いてほっとした。これで自由に動ける。東京に戻る前から約束だった海外出張帰りの友人と昼食をとった後、隣町の内子のスーパーで食料を仕入れた。丁度高齢者5%割引デーでレジの女性が親切に登録してくれた。皆、優しい。それでも馴染みのスーパーよりやや割高だった。

その後、地元の公民館に向かい給水サービスを受けた。予想通り自衛隊の支援で、聞くと善通寺部隊と旭川部隊から夫々数人が派遣されてきた。午後2時頃は私の他に誰も給水に来ていなかった。若い隊員が車を降りたところからペットボトル3本に給水して戻るまで全部面倒を見てくれて助かった。

ということで今日の夜からほぼ普通の食事をとり普通の田舎生活が出来るようになった。結果的には娘達が勧めてくれたように田舎行きを延期して良かった。これから秋まで田舎生活を再開する。■
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