私にとって米国でのバドミントンは現地の生活に慣れる為のサバイバル・ツールだった。95年にワシントン州に単身赴任したとき、普段の私をよく知る上司は趣味のバドミントンが米国でやれるか真剣に心配してくれたようだ。他国での一人暮らしには何か気晴らしが絶対必要だと思ってくれたからだ。日本にいた時仕事漬の私の気晴らしはバイクとバトミントンだった。ゴルフや酒の付き合いは私にとって仕事の延長線上にあり気晴らしにはならなかった。
米国に行ったらバイクは止めようと思っていた。もう年だし、何度も危険な目にあって潮時だった。40代になっていたが地域の年齢別バドミントン大会で、そこそこ勝てる程度の力があった。愛車のカタナは出発前に廃車手続きしたが、ラケットは米国行きの荷物の中に入れた。
赴任して生活が落ち着いた9月のある日、職場のグレッグ係長が気を利かして地域のバドミントン・クラブを紹介したフライヤーを持ってきてくれた。仕事が終わり、住所を調べて地図を頼りにタコマ市郊外のコミュニティセンターに行くと老若男女約20人、上手いのから下手なのまでてんでにやっていた。一見アジア系など移民が多い感じを受けた。
まとめ役のジョーに会うと即入会をが認めてくれた。飛び入り(ビジター)4ドル、会費月15ドル、シャトル持参、水曜の夜7時から10時まで、初回はトライアルで無料にしてくれた。日本にいた時と違いジムの掃除・整理整頓などはジャニターの仕事、やっちゃいけないということのようだった。
誰も準備運動無しで直ぐゲームを始めた。それはいいとして、バドミントンするために最低限必要な言葉が分からなくて最初戸惑った。もう殆ど忘れたが印象的な言葉を少し紹介する。シャトル・コックを鳥(私にはBirdieと聞こえた)、ダブルスの最初のサービスをカミングイン、2度目はワンダウンといった。得点の数え方は変わらないが、タイ・スコアの時例えばツー・オールの変わりにツー・イン・ピースとコールしていた。
練習はドリル、ハイクリアはlift、ストレート・ショットはdown-the-line、クロス・ショットはhit-cross-courtといった。慣れてくるとダブルスのパートナーが日本で言うtop-and-backをup-and-backというのに気が付いた。side-by-sideは同じ。何度か聞けば、感じはつかめた。
後に知り合った日系アメリカ人のユージンは日本に行って大学生と合宿したことがあり、その時彼らがゲーム中聞いた「シャー」と叫ぶのはどういう意味か聞かれたことがある。それは「ヨッシャー」といっているのであり、goodやgood shot!とかwell done!という意味だと説明した。
今なら卓球の愛ちゃんの「サー」だ。その後ゲーム中に私が時折発する掛け声も「シャー」としか聞こえないと彼はチョット疑わしい目で言った。米国人は「ヨッシャー」のような決まった掛け声は聞かなかった記憶がする。
暫くしてジョーがくれた州のバドミントン協会報に紹介されているシアトル西部のハイランド高校(日本の学校開放みたいなもの)に顔を出すようになった。そこで州バドミントン協会長のスティーブと知り合い、彼の紹介で更に他のクラブにも顔を出し、トーナメントにも参加するようになった。
州レベル大会は会員のみ(closed)とオープン、市・地域のクラブレベルは通常オープンのトーナメントがあり、私は何事も経験と積極的に参加した。出場の要領は紙情報があるので辞書を引いたり聞いたりで何とかなった。州のオープン大会だとカナダのバンクーバーあたりからも沢山参加があった。
参加費用は例えば1種目だけなら13ドル、2種目は5ドル、先払いは3ドル割引の特典と、さすがマーケティングの国と感心したものだ。会員でない場合はそれ以外に10ドル払うので、大抵はシーズンの最初の大会で入会手続きした。
スティーブとは同年齢で気が合いダブルスを組んで試合に出たり、シングルスで当たった事もある。州大会クローズド・ベテラン・クラス・カテゴリー(つまり州の協会会員のみ参加できる)シングルスで運良く準優勝し(その時スティーブに負けた)、驚いたことに賞金$10の小切手を貰ったことがある。この後マッサージで120ドル払ったという小話は職場の仲間に受けた。
米国ではバドミントンは日本よりマイナー、競技人口が少なくオリンピッククラスから初心者まで一つのジムで練習することは珍しくなかった。何度か相手をしてくれたアトランタ五輪出場の女子選手はさすがに強く全く勝負にならなかった。ジュニアの強化選手の身体能力に驚いたこともある。
バドミントンのシーズンは9―3月のところが多く、その後バスケやバレーボールに体育館を明け渡す。シアトル近辺では1年中活動しているクラブは限られており私もその間お休みした。9月に再開した時、以前勝てた相手に勝てなくなっていた。最初の冬はクラブのトップクラスも一目置いてくれたのだが。
気が付けばたった1年で体重が増え運動能力が低下した。更に1年経った2度目の冬はもうワンランク下げないとゲームにならなくなり、自然とバドミントンから足が遠のき、週末といえばバックパッキングに専念した。カリフォルニアに転居後は近くにクラブが見つからなかった。体調も優れず、最早バドミントンのようなタフな運動は出来なくなった。
その後日本に戻って3―4年後偶然会った友人に勧められバドミントンを再会したが、もう昔のようにバドミントンを楽しむ体力は取り戻せなくなった。私にとって米国でのバドミントンの経験はスポーツというより異文化コミュニティに溶け込み生き残る為のサバイバル・ゲームの道具であった。体力維持には貢献しなかったが、多様な交際相手ができ楽しい経験が出来た。■
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