かぶれの世界(新)

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アグリー1%

2012-03-15 21:01:48 | 社会・経済

月14日「アグリージャパニーズ」で、東日本大震災で発生した膨大な量のがれき処理が遅れて、復興の障害になっていると投稿した。環境省が全国の自治体にがれきの受入を要請したが、東北2県と東京都以外の自治体から相次いで受入を拒否され難航、一旦受入を表明した自治体も住民の反対を受けて腰砕けになっていた。

それから1ヵ月、大震災1周年を迎え依然がれき処理は停滞したままだ。事態を憂慮した野田首相はがれき処理は「被災地」と「それ以外」、「国」「自治体」と「国民」という区分けをして考えるべき事柄ではなく、すべての国民が「当事者」と考えてくれと要請した。(総理のブログから)

前後して、幾つかの自治体は受入れを表明しだしたようだが、一部住民からの反対の声も強い。数日前に北九州市議会ががれき受け入れ提案を全会一致で可決した時、傍聴席から反対の怒号が中継された。民社・自民から共産党まで全議員が賛成するという珍しい状況で絶対反対を唱える住民、この怒れる少数派を私は「アグリー1%」だと名づけた。

上記ブログで野田総理は「助け合い、支え合った日本人の気高き精神を世界が賞賛しました。今こそ再び、日本人の国民性が問われています。」と受入を促した。要は恥を知れと言った訳だ。(時間は前後するが)北九州市議会は意を受けて満場一致で応え、怒声を浴びせる傍聴席の住民は私には醜く感じた。これが彼らを「アグリー1%」と命名した理由だ。

状すると何が何でも反対という彼等の気持ちが全く分からない訳ではない。というのは3.11後乳飲み子を抱える長男の嫁が水道の放射能汚染に不安を持ったと聞き、私は田舎のスーパーを駆け巡り手に入れたペットボトルの水を東京に送った。

その時彼女は合理的な説明だけでは説得出来なかった。同じ乳飲み子を抱えるママ友達は皆ペットボトルの水しか使わないと聞き、彼女だけ自分の子供に水道水を使えと言えなかった。なるほど、風評被害もこういうプロセスで広がるのかと思った。長男は彼女の気持ちの問題を解決してやる必要があると言い、私も全くその通りと思った。

しかし、現在は野田首相の言うようにがれきの汚染濃度は通常のゴミと変わらない、自然界から発生する放射能線量の方が100倍以上も大きい。不安があれば汚染濃度の測定確認を厳重にするよう要求すべきで、これでは絶対反対の言いがかりとしか思えない。

危機発生時の一時的な不安じゃない、根拠は無いが先の見えない不安からの反対は扱いが難しい。例えばがれき処理施設の近くにあるというだけで作物が売れなくなる風評被害が立たないとは保証がない。この無意味な不安の悪循環はどう断ち切れるのか。マクロで見れば誰の為にもならないのだが。残りの99%が物を言うしかないと考える。

---この辺から脱線して想像を膨らませたい。

年この手の「アグリー1%」が強い力を得たと私は感じる。民主主義の意思決定プロセスの原則は「最大多数の主張を通し、同時に少数派への配慮する」もののはずだ。しかし、1%にも満たない国民の支持しかない主張が意図しなくとも大多数の国民の問題解決を停滞させたり、それに優先して決定されたりする。

物事を単純化していうと、国の安全保障・社会保障や財政がアグリー1%のために歪められ、残りの物言わぬ99%が知らぬ間に不利益を被っている構図があるとの危機感が私にはある。過去に少数派が無視されてきた歴史の見直しは必要だし、振り子が逆に振れ過ぎることも理解できる。だが、今の状況はそれとは少し違うと感じる。

それが大阪維新を生んだというのは飛躍だろうか。橋下氏は民主主義は多数決で決めることだと言い、少数派をばっさり切る姿勢が支持を受けていると感じる。彼の下では10%-20%に配慮はあっても「アグリー1%」はバンバン切り捨てられるだろう。

少数派といえども逆の場合もある。米国で始まり世界に広まった「ウォール街占拠(OWS)」運動の合言葉はWe are the 99%.だった。国の大半の富を保有するたった1%の強欲な(greed)富裕層に対する抗議のデモだった。そのシンボルがウォール街だった。大声を出したのは物言わぬ中流階級だった人達で、失業して脱落しかかり立ち上がった。これまでの経過を見ると、今後彼らが力を発揮できるかどうか難しいかもしれないが。■

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天邪鬼 大震災1周年考

2012-03-11 23:39:55 | ニュース

恐怖の距離感

あの時私は近くの遊歩道を散歩中で、地面が揺れて一瞬脳梗塞になったのかと恐怖を覚えた。自宅に戻り東北地方に大地震が起こったことを知り、テレビ画面に釘付けになっていた。二度目の地震に見舞われた時、経験の無い長周期の揺れにただ事ではない恐ろしさを感じた。

翌日、ズタズタになった交通網を乗継ぎ羽田から東京を脱出した。自宅を出る前に見た福島第一原発から舞い上がった白煙に不吉を感じて、自宅の息子と何度かメール交換して水素爆発と知った。家族を東京に残して田舎の松山に着くと、被災地からの距離に比例してこの大災害も9.11の高層ビル崩壊を見るように現実感が薄れていった。

それから1年を振り返ってこのところ新聞・テレビから政府・民間事故調査まで、大震災とその後の復興を検証しその結果を報じている。東電・官僚の隠蔽体質と無能さで対応できない政府と、足の引っ張りあいで何も決められず前に進まない政治が、報じられていることの大筋である。これらの指摘はこの1年間毎日のように聞かされたが、私はいつもの天邪鬼精神を発揮して違った見方を3つの点で指摘したい。

2万416の命の重みをどう考えるか

第一に、最大の被害者が軽んじられていることだ。東日本大震災の被害状況は死者1万5854人、関連死1407人、行方不明3155人である(日本経済新聞3/11)。原発事故は悲惨で長期的な取り組みが必要だ。だが、誰も死んでいない。人命も経済も被害は圧倒的に津波に襲われた地域だ。何故、こんなに死者が出たのかもっと必死に考え復興を考える必要がある。

これが次の問題指摘に繋がる。実は、場所によって失われた人命が大きく異なる。夫々の地域と自治体でどんな防災・リスク管理があり責任者と住民はどう備えていたのか。それによって何百人という命が救われたり失われたりしたはずだ。性質の違う問題だと分かっているが、原発事故は一人も死人が出ず、津波で2万人以上の命が失われたのだ。

何か不具合があると、「国が、国が」という声が出てくる。だが、これは先ずは自治体の長の責任であり、更には普段から住民が先人の教えをどれだけ真剣に受け取り、家族を守ろうとしていたか真摯な反省が求められるのである。誰も指摘しないからといって、自らを被災者の殻に篭っているのではいけないと思う。

マスコミは原発事故が1000年に一度の大震災といって想定外という言訳を責任逃れと非難した。だが、そういうことなら自治体の長が2万人以上の命が失われたことに対して謝る姿を見たことが無いのはどうだろう。津波で亡くなった人達の人格はどう考えているのかといいたい。実際は専門家によって詳しく調査されているようだが、等しく2万416人の命の重みを感じて欲しい。

専門家が役目を果たさなかった

大震災で専門家がこれ程無力だとは予想もしなかった。初期の政府の混乱の責任の大半は官僚化した専門家が役に立たなかったことだが、後から続々と判明する原子力専門家が如何に安全神話の呪縛に囚われていたか驚くばかりだ。専門家には官僚も含む。テクノクラットとかビューロクラットとか、なんたれクラットが妙に役に立たなかった。チョット考えれば分かることでも、分野が違うとまるで考えが及ばないという縦割り意識が生む合成の誤謬が原因だと思う。

一番酷かったのはどの程度の放射能が人体に有害か、許容可能な基準はどうあるべきかについて諸説入り乱れ、これがマスコミやネットを経由して全国に流れ国中が混乱したことだ。エキセントリックな意見の持ち主が出演して不安を煽った。昨年末の朝日新聞の記事「リスク社会に生きる」のような視野の広い報道が最初の段階からあれば国民はもっと合理的な判断が出来たと思う。

問題は直接の関係者だけではない。あらゆる領域の専門家が国難に直面して有効に機能しなかった。例えば、原発事故で自称世界に冠たるロボット国であるはずの国産ロボットが役に立たなかった。全く関係の無い私がこのニュースを聞いた時恥ずかしい思いをした。しかし、日本経済新聞によると科者は問題を認識している、研究者が領域を超えて交流し社会に貢献できるよう動き出している。

混乱を助長したマスコミ

最後に誰も批判せず治外法権的に言いたい放題だったのはマスコミだったと思う。私は、これ程政治が混乱し復興の歩みが遅い原因の一端をマスコミも負うべきと考える。だが、マスコミだけは何をしても批判されない。批判するのはネットや一部週刊誌だけで声の大きさが限られている。マスコミが批判を気にするとしたら視聴率と広告収入だけだ。

冒頭に述べた政治の混乱を助長した最大の立役者はマスコミ報道だと私は思う。政府の足を引っ張ったとしか印象のない小沢一派と、党利党略でしか判断できない自公両党の解散連呼を無批判に報じやりたい方題させたのはマスコミに責任の一端がある。何故なら、ネジレ国会では国民の支持がない限り政府は動けず、国民はマスコミを通じて理解し意思表示するからだ。

それを政府の無策とか決められない政治とだけ報じるマスコミは天に唾するものだ。特にテレビがそういう状況を助長させた。私の見る限り、TBSが最も政局原理主義だがNHKですら語尾に「かもしれない」とつけて根拠の怪しい政府批判を再三やった。このところテレビ局によって微妙にスタンスを変えつつあるのは、国民はやっとオカシイと気付き主張を始めたからと思う。

NYタイムズやBBCなど海外メディアの記事が日本と著しく違うのは、例えば政策とか意思決定について彼らの考え方を示すことで、重要事項が良いのか悪いのか分かることだ。先の原発事故の民間調査委の報告書の報道では、日本のメディアは政府の対応の問題点だけを恣意的に大きく報じた。それより「何が重要な意思決定で、それがキチンとされたか」が最も重要なはずだ。

国難にあって最優先事項を超党派で迅速に意思決定せよと政治に迫り、メディアの状況認識とその元でどの政策が国民のためになるか、その後で誰が足を引っ張っているのか報じることだ。いつも威勢良く正義感一杯に報じるニュース・キャスター諸君は最低その程度の勉強をして欲しい。日本でのテレビの影響力を考えれば決して言い過ぎではない。

最後に

被災者も批判されることがないから天邪鬼から一言。政府の支援は税金で賄われることを忘れないで欲しい。まるで当たり前に金をよこせとインタビューに答える人達を見ると余り良い気分はしない。復興事業の判定は難しく官僚が人気のない仕分けをやっている。それが仕事だ。納税者から見ると経済的合理性のない復興にお金が使われるのを見るのはつらい。是非有効に使って頂きたい。基本的な生活を維持する為に必要なのは、それはそれで別に考えるべきです。■

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タブレット・リテラシーが無い!

2012-03-09 22:08:01 | デジタル・インターネット

16日から世界規模で発売されるアップルの第3世代タブレットiPad3が話題になっている。iPad3は新機能よりも高精細ディスプレーと高い動画処理能力、高速携帯電話通信が売りだという。昨年は世界で7000万台出荷、来年は2億2000万台出荷され、パソコンの半分に迫るという。

今年米国でのタブレット出荷はノートパソコンを上回ると予測されており驚くべき速度で普及している。だが、イマイチよく分からない。私はパソコンでITリテラシーの進歩が止まっている。iと名前がつく携帯機器といえば、息子がくれた初期のiPodで音楽を聴くだけだ。iPhoneもiPadも持っていない。どの「i」製品発表時にも大ヒットになると予想せず、全て外れた。

先月、田舎に来る途中の電車や空港の風景が変わったのに気がついた。周りに座った人達が携帯の代わりに手帳サイズのiPhoneを操作している。タブレット操作と従来の携帯電話では手の動きが違うので直ぐ分かる。携帯は明らかに少数派だった。

田舎に滞在する時間が長くなって、家族に勧められ緊急連絡用に携帯電話を購入した。それから3年やっと携帯メールに慣れたところなのだが、時代はもう変わってしまったようだ。携帯が少数派になり受けられるサービスに明らかな差がつけば考え直さなければいけないと感じ始めた。

パソコンのヘビーユーザーの息子に聞くと、タブレットは基本的にコンテンツ・ビューアーだという。クリエーターでもある彼はタブレットではパソコンの代替にはならないという。その通りだと思う。私も一般のユーザーに比べて何倍ものデータ入力・処理・検索をする。従って数字文字情報入力の操作性が悪い機器は使う気になれない。

今まで、そう思ってきた。だがタブレットがパソコンより普及すると、タブレットをターゲットにしてアプリが開発されるようになる時代がすぐ来る、その後に何が来るかゲーム機の歴史を見れば明らかだ。専門誌のネット情報によれば、タブレットをビジネスに活用する動きが広がっているという。

私にはタブレット・リテラシーが全く無いようだ。ビジネスの重要な部分にどう使うのか想像力が全く働かない。今日の日本経済新聞のWeb版によれば操縦士のマニュアル、校の電子教科書、病院の患者個人情報の映像化などが考えられているという。

その程度なら分かるけど、そこから先どのように展開するのだろうか。分からなくても流行遅れにならないよう付いていくべきか。高価じゃないから取り合えず買おうか、という気にもなれない。携帯が爆発的に普及した時、「今駅に着いた」と電話する人達を見て馬鹿にした。だが、量は質を変えるという。タブレットもそういう変化をもたらすのかも知れない。私は全く予想できないが。■

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吝嗇の系譜

2012-03-07 22:15:30 | 日記・エッセイ・コラム

は自分でもケチだと認めている、それもかなりの。倹約家では上品過ぎる、やはりケチだ。身近なところでは私は退職後、カジュアル衣類を着るようになり、ビジネススーツより安価なユニクロを着、それも高いからとシマムラとかサンキに行くようになった。最近は子供の着古しで十分と何も買わなくなった。よれよれのフリースで外を出歩くのはみっともないから止めてくれと家内に厳命された。退職後の消費が意外に盛り上がらないと失望された団塊世代の一人が私だ。

家内に頼まれて食料を買いに行くと、同じものなら最も安いものを買って来た。賞味期限ギリギリの生鮮とはいえない食品とか古米とかを買った。材料にうるさい家内はあきれて選択の余地が無いもの以外私に買い物を頼まなくなった。ショボイとかミジメッタラシイと馬鹿にされた。

私がケチなのは母の性格を引き継いだと思う。子供の頃同級生とお年玉の話題になると額が一桁違い恥ずかしくなって、自分がいくら貰ったか言えなかった。しかし、他人から見ると私の家はまあまあ裕福だったと思う。あだ名は近所ではボクちゃん、小学校ではボンボンと呼ばれた。だが、子供の頃自分の家が裕福だと思った事は一度も無かった。そう躾けられたが、幼心に混乱した。

私から見ると妹は更に上手、1クラス上の倹約の達人だ。彼女は趣味のピアノを弾きパリやNYなど海外旅行を楽しんでいる。だが裏ではあらゆる支出を徹底的に節約して私も驚くほど少ない生活費で済ませている。それでも、少なくとも見かけは全く貧乏臭くなく寧ろ優雅に見える。やっぱり血は争えないと思う。

供の頃祖母と母が交わす世間話が鮮明に記憶に残っている。だれ某に大金が入って有頂天になったのか派手に使って無くしてしまった。成金はお金の使い方を知らないと言外に軽蔑しているのが子供心にも分かる話し方だった。中でも母はお金の無駄使いに厳しく、彼女には我が子に対しお小遣いという言葉が無いのかと思うほどケチだった。

小学高学年になってようやく貰ったのが、僅かなお年玉と農繁期の手伝いの駄賃だけのお小遣いで、それも全て貯金箱に入れ殆ど使わなかった。学校の帰りに駄菓子屋で煎餅や飴を買う同級生を見て羨ましかったが、私にとってお金は貴重過ぎて使えなかった。青春時代が過ぎやがて会社勤めとなり自分で給料を稼ぐようになっても考えは変わらなかった。

その血は息子にも脈々と流れているようだ。少し前に長男の嫁さんが無駄使いするなときつく言われたと何度かぼやく場面に行き当たった。それを聞いて、息子とは別の世界に生きていると思っていたのに、ああやはり私の息子だと思った。三代続いていると。しかし、娘は違うと思った。衣類をやたらと買う彼女を嗜める亭主を見ると、やはり私の血が影響して夫を選んだのかと思う。

だが、近年私が思っていたより母がケチではないことが分かった。妹や家内は母が高価な化粧品や凄く高いブランド物のコートを持っているのを知っていた。昨冬近所のオバサンが母に誘われて買い物に行った思い出話をしてくれた時、母は松山の百貨店で高価な壺を買ったと知った。良く考えれば築100年以上の実家の改築は母がやったことだ。相当の金額だが、使うものには使った。

それに比べれば私は小さくて依然セコイが、それでも只のケチではない。田舎での買い物は食料を除けば100円ショップだけといってよい。しかし、東京で家族が集まって食事をする時にスポンサーになるのはいつも私だ。その時ばかりはケチな事は言わない。その他にもこれだけはということに躊躇無くお金を使う。只のケチではないということを結論にしたい。

蛇足

最後に、ケチだといわれて悩まなくて良いように、世界をリードする米国の大統領や大富豪が実はどんな風にして育てられたか今はどうなのか、私が読んだ本から紹介したい。このような逸話を読み聞きすると少しホッとする。同時に、極貧の下級武士が明治維新の大業の原動力になったのは、母親の武士として質素倹約とか整理整頓の仕付けが精神形成に影響したと想像する。

* ゴールドマン・サックスのCEOで大富豪のポールソン氏はブッシュ政権の財務長官就任にあたり、よれよれになったコートを新調したのを奥さんが目ざとく見つけ、まだ着れると咎められ返品したという逸話。リーマン・ショックによれよれのコートで取り組んだかと思うと少し笑える。

* ローズFケネディ(ケネディ大統領の母)が自分らの子供に対しては愛情ではなく尊敬を基礎にしていた。・・・上流階級の子育てに共通するのは、質素倹約の刷り込みである。これは成長の過程での金銭の有効利用を刷り込む前提となる。・・・同時に子供の乱費を矯められないことは、親自身が成り上がり者と見なされる、――この意識がよけい上流の親達に質素倹約を子供らに刷り込む動機となった。
・・・この点はプレスコット・ブッシュ(ブッシュ父大統領の兄)も同じで、彼は冨を見せびらかす成り上がり者に一片の同情も持たず、「彼らは高雅さが無い」と決め付けた。(「ブッシュ家とケネディ家」越智道雄 朝日新聞)

* 幼児期にウォーレンは貧しいことの厳しさを体験し、さらに道徳心の強い父の影響を受けたことで、生涯派手な生活には一切興味を持たなくなったようだ。(「バフェット」牧野洋 日本経済新聞)

* 私は子供の時から、家が古いのは(貧乏なのは)恥ずかしいことではなく、家の中を乱雑にしておくことや、破れたままの障子や洗ってないカーテンやテーブル・クロスを放置してあることが恥ずかしいのだと、教えられて育った。・・・(「弱者が強者を駆逐する時代」曽野綾子 WAC出版)■

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介護録12春(2)

2012-03-05 21:41:29 | 健康・病気

前回記事を投稿後今日までの1週間にいろんなことが起こった。直後に発熱の症状を示した入居者がいたので念のための処置として当分面会禁止との連絡を受けた。そういう時に限って何か起こる。翌日母がベッドの横に座り込んでいた、熱を測ると37.9度あったという。週末なので医者に診てもらうのは月曜日にするとのこと。

何も連絡が無かったので多分大丈夫なのだろうと思ったが、昨日気になって電話をかけると体温は6.4度に下がりインフルエンザ反応は陰性だったと聞き安心した。これで一安心だと思ったら、今日母が額から血を流してベッド横に倒れており救急車で病院に運ばれたと午後連絡が入った。額の傷は2針縫う程度で、検査では骨には異常が無く打撲と診察されたという。

車椅子からベッドへの移動がうまくいかず転落し頭を打ったのだろう、という説明に私もそう思うと応えた。又、医者の問診で胸の音が少し変なので明日主治医に診せるという。甲状腺に異常があるかもしれないという。担当の介護士によると母が食事中にむせていたのを見たので肺に水が入ったかもしれない、食事を見直すという。

面会禁止のきっかけとなった入居者の熱が下がったので、明日から面会禁止を解除するというので早速施設に行き担当の看護婦や介護員の話を聞かせて貰おうと思う。車椅子の移動に工夫が必要かもしれない、介護プランの見直しがあるか確認しようと思う。短期間にバタバタと色んな事が起こると心配だがしょうがない、母は今年日本女性の平均寿命に達する。■

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