かぶれの世界(新)

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首都圏大雪が高齢者にインパクト

2018-01-23 18:44:14 | 日記
昨日午後から降り始めた雪は夕方から激しくなり、夜が更けて行くに連れて4年ぶりの大雪となった。珍しく安全サイドに偏りがちの天気予報より厳しい降雪になった。交通量が殆ど無い自宅前の路地道が午後3時頃から薄白くなり始め、5時には完璧な雪景色に変わった。夜8時頃には10-15cmの積雪になった。

たまたまご近所の若奥さんが家の前の雪かきをしているのを見て、私も朝勤めに出る息子や家内のことを考えて自宅前の道の雪かきをして細い道を作ったが、たった2時間後にはもう道が真っ白になっていた。今朝のニュースでは都心は23cmの降雪と報じていたが、我が家の周りも25cm程度になったと思われる。

昨日は朝のラジオ体操以外にいつものウォーキングも含め運動らしい運動をせず、やたらコーヒーや紅茶を飲みクッキーやケーキなどを食べた。こういう生活だけは止めようと思っていたことが復活した。そのせいだと思うが今朝の血圧は130弱まで上昇、体重は0.5kg増えて67.4kgになっていた。マズイ!

なので、今日は出来るだけ体を動かそうと決意し、まず家族が出勤する7時前にもう一度雪かきをした。玄関や物置の周りに積もった雪や、自転車の上に盛り上がり積もった雪を取り除くと見かけがスッキリした。部屋に戻り携帯を見ると今日のバドミントン練習は中止するというメールが回って来た。積極的に参加意志を表明したメンバーが4人に満たなかったという。こうなれば出来るだけ体を動かさなければ更に血圧が上がるかもと思った。

昨日の曇り空から一転して空は真っ青に晴れていた。家内が出勤前に風呂内に干した洗濯物を2階のベランダに移して干すことにした。ベランダの半分は屋根付きなのでちょっと工夫すれば雪を避けて洗濯物を干すことが出来た。少しでも暖房代が節約できることだし。その後、昼食の為の食材を調べると保管庫が整理されておらず手間取ったので家内には断ってないが勝手に整理した。今日は何でもやるのだ。

それが終わると小一時間かけてメールやマーケットをチェック、米国の政府閉鎖は取り敢えず回避したらしい。少し円安が進み投資残高が若干増えた。他に大したニュースは無し、テレビは大雪のニュースばかり。11時過ぎに散歩を兼ねて昼食用の惣菜を買いに出た。本格的な登山靴を履いて速足で何時もの散歩道を歩くことにした。遊歩道は生活道でもあり踏み固められ半分凍った雪で滑りやすかった。

途中雪かきをしている中年婦人を手伝ったりしながら歩き、馴染みのショッピングモールについた時は登山靴効果もあって何時もより身体が温まり全体に薄っすらと汗をかいた。そこで買った特売のおかずで昼食を済ませた後、急に思いつきダイニング・キチンのカーテンの高さを調整した。床に10cm届かないカーテンを入居した時から気付いていたが放置していた。電動ドリルなしでは大仕事で結構疲れた。でも、今日は何でもやる日だ。

でも、もう止めた。いささか疲れた。その後は茶を飲みながらテレビ映画を見て、ノロノロと洗濯物を取り入れたり読み残しの新聞記事をチェックした。高齢者としては結構頑張ったのだけど、家族は気付いてくれるだろうか。秘かに期待するのは血圧が日常値に戻ってくれることだ。今、グッド・ニュースが入って来た。駄々をこねていたカナダがTPP11に合意したそうだ。どういう心境になったのだろう?■
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私が身の危険を感じた時

2018-01-21 15:07:35 | 日記・エッセイ・コラム
最近私の経験に基づく懐古的な記事の投稿が増えていると自認している。記憶がしっかりしている間に子供達に私の経験を言い残しておきたいという気持ちからだ。今回もその一つ。

電通の新人女子社員がわずか入社8か月目に異常な労働環境で上司に追い込まれ投身自殺した事件の余波は未だに尾を引いている。それに比べれば40-50年前に技術者として働いた職場の環境は悪くなかった。同じ会社内でも別の職場では、大型機の開発プロジェクトが終わるまでに誰か一人は亡くなるという噂を聞いた。それを不吉にも「人柱」と呼ぶ人がいて、他社でも状況はそれほど変わらないと驚かされた。私のは違っていた。

最初の危機
私が20代後半頃に日本初と称した3チップ構成の8ビット・マイクロコンピューターの開発を終わらせ、一人前のコンピューター技術者としての評価を得て忙しく働いていた。そんな時に草加で不動産屋をやっていた父の友人の助けを得て郊外に自宅を新築することになった。殆どお任せだったが、それでも住宅ローンの手続きをしたり、市の農業委員会に行き地目変更の手続きとか、棟上げとか慣れないことをやり一杯一杯になっていた。

ある日気分転換の積りで職場の端にある自動販売機の前に立った時、意識が薄れ立っていられなくなり床に寝転がった。どこも痛いと感じた訳でなく、ただぼんやりと天井を見ていた。そのうち担架に乗せられ救急車で多摩川沿いの大きな病院に連れて行かれたが良く記憶していない。東京でただ一人の身内で当時新橋で働いていた妹が翌日見舞いに来てくれた。医者の診断は急性十二指腸潰瘍で1週間安静して退院した。

多分、最先端の仕事と自宅新築の両方を一人でこなして神経が参り、そのしわ寄せが十二指腸に来たのだろうと思う。特にどこかが痛いとか、命の危険を感じたりすることはなかった。仕事も自宅新築も嫌なことではなかった、ただ両方進めるには経験不足で私の手に余る事態になったのだと思う。しかし、結果的には仕事のやり過ぎによる「過労」の結果だったと思う。電通の彼女は自殺する前に身体に異常を感じなかったのだろうか。

最悪の危機
次に身の危険を感じたのは40代前半に海外向け製品計画の責任者になった時だ。主要市場は米国で当時ボストンの子会社に現地の商品計画と営業部門があった。日本で新製品計画を作り、現地の商品計画部門と擦り合わせ、日本の工場で合意した商品を製造し米国を始め世界で販売した。日本側スタッフとボストンの商品計画部門との擦り合わせは通常深夜TV会議で実施した。毎回意見が合わず激論となり、しかも英語なので凄いストレスがかかった。怒鳴り合いで終わった会議の後、血圧が180に上昇し命の危険を感じたこともあった。

この頃に産業医にかかり24時間血圧を監視する機械を携帯し、降圧剤を服用するきっかけになった。このまま続けたら命を縮めるかもと思い、心筋梗塞で死んだ父のことを思い出していたりした。しかし、一旦製品計画を決定すると3ヵ月位は比較的楽な日が続き体調を取り戻すことが出来た。当時は毎月一度位のペースで西海岸にも出張し取引先と交渉したが、物を売買する関係の場合は身体は大変だがストレスは溜まらなかった。

悪夢の危機
そして私の人生で最も厳しい最悪の時が来た。TV会議で議論した計画を最終的に決定し開発に‘GO’をかける前にボストンに出張して顔を突き合わせて決めた。当時は直行便が無く通常は西海岸で乗り換え、国内線でボストンに向かうと夜到着した。ホテルで夕食をとり別件で先乗りしていた担当役員の部屋に出向き、スタッフを交えて方針を報告した。その時は理由は覚えてないが報告が気に入らないと役員から長々と説教された。

しかし散々時間をかけて纏めた計画なので私も簡単に引き下がらずいつまでも報告が終わらなかった。終わりそうになると私が「お言葉ですが」と言って反論した。すると彼が怒りを爆発させて更に長い説教をした。そうすると又も私は「お言葉ですが」とやったものだからいつまで経っても報告が終わらず深夜12時を過ぎた。彼は私を評価して昇進させたトップで公私にわたり色々気を使ってくれた。最初で最後の激突だった。

計算すると2日間くらい寝てなかったはずだ。寝不足と緊張感と怒りで殆ど意識を失いそうで、最後は精も根も果ててどう自分の部屋に戻ったか記憶がない。同行して来たスタッフや部下の睡眠時間を奪い申し訳なかった。翌朝寝不足の顔をして1階のレストランに行くと、彼は食事中でニヤニヤ笑いながら「良く眠れたのか」と聞いた。私は苦笑いして黙って朝食をとったが気分が悪かった。その日の会議がうまく行ったかどうか覚えていない。もしかしたら血管が破裂しそうなくらい血圧が上がっていたのじゃないかと思う。

私の記憶ではこの時が人生最悪の危機だったと思っている。だが「もう止めた」という気分にはならなかった。その後も最高の機会を与えられたと思い仕事をした。それ以外の危機はいわばその場限りの危機で終わった。振り返れば、他の大事な仕事で失敗したこともあるし、バイク事故を起こしたり米国の高速道路で二度もスピン、リーマンショックで資産の半分を失い、前立腺がんと診察された時も、「ヤバかったなー」と一言で終わり。

私は家に仕事の悩みを持ち帰り愚痴を言うタイプではなかったので、多分家族は聞いたことが無い話だと思う。家族の誰もが知っているのは、会社の若い女の子達を自宅に連れ帰り朝まで酒を飲んで大騒ぎしたこと位だろう。その病気だけは今も続いているかも。■
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千駄木美人

2018-01-19 17:34:40 | まち歩き
昨日、千駄木にある日医大病院に行き娘が診察を受ける間の子守を引き受けた。末の息子が学生だった頃に何度か通った記憶があるが、娘が以前不妊治療を受けた大学病院がこの近くにあるとは知らなかった。東大正門前のお店に飛び込んで道を聞き、聞いた通りに道順を辿らず最近人気の下町「谷根千」を歩くと迷路のような路地道に迷い込み約束の時間に遅れた。何度か道を聞いてやっと辿り着くと娘と孫が受付で待っていた。

もうすぐ二歳になる孫はおっとりした性格で私の顔を覚えていてくれ、院内を駆けまわったりむずがり大騒ぎして他人に迷惑をかけたりしないので楽な子守だった。暫く待っていると娘が広いロビーに戻って来て、待ち時間が長くなりそうだと言い、娘の勧めで孫をベビーカーに乗せて近くの神社に行った。

病院の斜め向かいに神社があった。歩き始めた時は小さな無名の神社かと思いきや、ここがあの有名な根津神社でかつて漱石が近所に住み今は重文に指定されているという。ゴツゴツした石畳の上をベビーカーで歩くのは手間取ったが、前方に車椅子の老婆につきそう老夫人が意外に無理なく進んでいた。

気を取り直して車椅子の軌跡を追って歩いて行くと、本堂に通じる門には高い段差がありそこに車椅子を待たせて老婦人だけ本堂に向かって行った。私はベビーカーを車椅子の真横に停め老婆に声をかけた。彼女は私の母と同じくらいの年恰好で、喜んで話をしてくれた。意外にしっかりした声だった。

いいお日和だとか月並みな会話を交わしたが、孫は恥ずかしがって押し黙っていた。そのうち老婦人が返ってきて挨拶の後、「お手伝いするから、お婆ちゃんを本堂まで連れて行きますか」と聞くと、「今日はここまでにしておきます」とちゃきちゃきの若々しい声で返事が返ってきた。きっと昔は下町美人だったに違いないと思った。

病院に戻るにはまだ時間が十分余っていた。小さな池の淵に行き鯉を見せて孫と大騒ぎした後、近くのベンチに赤ちゃんと座っている親子を見かけた。今度は現役の美人だ。ベビーカーをベンチの横につけ声をかけた。9ヶ月だという女の子は睫毛が長く白い肌の可愛い子だった。

「お母さんに似て睫毛が長いね、絶対美人になるよ」と言われて、嬉しくない母親などいない。加えて、彼女自身が中々の美人だった。尤も、最近私は齢をとったせいか若い女性は誰でも美人に見える。彼女は流行りの抱っこ紐をしていたので、台所仕事等をする時は背中の方が楽だとか無難な質問から始めて打ち解けた。後から娘に話すと、驚いた様子もなく又かという感じで「もう、お父さんはーッ」と一言。

残念ながらここでタイムアップ、急ぎ病院に戻るとまだ娘は診察を待っていた。それから小一時間でやっと診察が終わり別フロアで採血し、受付に戻り支払を済ませてやっと全ての予定を終えた。病院を出て千駄木の路地道を行ったり来たりしてベビーカーの孫を眠らせた後、遅い昼食を済ませ自宅に戻っると2時を過ぎていた。孫と楽しい時間を過し、新旧の下町美人と話せたのでまず良い一日だった。■ 
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ツールドフランスの亡霊

2018-01-17 18:21:30 | 映画
午後アマゾンのプライム映画を見て、ツールドフランスの亡霊を見た気分になった。映画「疑惑のチャンピオン」は米国自転車界の英雄だったランス・アームストロングがドーピングにはまり、やがてチャンピオンになり7連覇を飾ったが、引退後にドーピングが発覚しタイトルを全て剥奪されるまでを描いたものだった。

私はNHKが力を入れて報道を始めた頃からツールドフランスをよく見るようになり、伝説の名選手イノーが引退して当時としては珍しかった米国出身のレモンが活躍する姿を見てツール・ファンになった。そして2000年代にアームストロングが圧倒的な強さで勝ち続けた。彼が引退後にそれまで忠実なサポート役だった米国出身のランディスが勝った時は珍しく感傷的になったものだ。

ところが、その後に栄光は全てドーピングで得た勝利だと発覚した。毎年夏になるとツールを楽しみにしていた私は酷く失望し、それ以降ツールに関わる全てのニュースに耳をふさぎ、実際に何が起こっていたのか知らなかった。映画を見て初めてドーピングを始めたきっかけや、チーム全体を巻き込んだ不正だったことを知った。ツールドフランスのニュースをシャットアウトしたほんの5年間が凄く昔に感じ亡霊を見ているようだった。

その代りといったら何だが、2003年に早期退職し実家に一人住む母をケアするようになった数年後、母が中国製のマウンテンバイクを買ってくれた。田舎に戻った時はその自転車でツールをイメージしながら往復100km程度の近郊の町や、標高850mの出石寺とか瀬戸内海沿いの山腹にある家内の実家までサイクリングした。この数年は脚力が衰えもう山登りをやり切る自信はない。クロスバイクでしまなみ海道を通って今治尾道間往復に何度か挑戦したがやり切れなかった。昨秋やっと今治尾道往復を走り切ったが、多分これで最後になると思ったものだ。

映画では自転車の競技としては丁寧に描かれていなかったので、リアル自転車ファンにはつまらないかも知れない。ツールドフランスに7連覇する前に深刻なガン闘病生活に打ち勝ったことまで評価されなくなったのは寂しい。全盛期(そう言って良いものか分からないが)だった頃に離婚し後に歌手シェリル・クロウや女優ケイト・ハドソンとの結婚が噂され浮名を流した。私には亡霊みたいだけど、結構人生を楽しんだのではないだろうか。■
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多摩川上流だけじゃない、荒れる我が家の山林

2018-01-16 22:01:59 | ニュース
昨日の日本経済新聞は「荒れる人工林、水源地ピンチ」と題して、多摩川上流域の民有林が放置され保水力が弱まり首都の「水がめ」が水質悪化の危機に直面していると報じた。かなりヤバい話だ。実は四国愛媛県南部の小さな山林を相続した私も、東京多摩川上流域と同じ悩みを抱えている。記事によると同様の問題が全国で起きているのだという。全国レベルで同じ原因で同じ問題が起こっている。

簡単に言うと、森林業の世代変わりが進まず高齢化と、輸入材に押され国産材の価格低落の二つの原因に問題が集約されるようだ。併せて戦後復興の為に政府が奨励し全国各地に自然林伐採とスギ・ヒノキの造林をしたのが、今になって山林の荒廃に拍車をかけたようだ。奥多摩町のある個人所有林は「30年前に手入れ(間伐)したきり」との例を記事は紹介しているが、我家の山林も似たような状況だ。

先日、林野庁に委託を受けて昨年6月に「森林生態系多様性基礎調査」を実施した大阪市の民間会社「緑化技研」から、我家の山林の調査結果が届いた。調査内容は私にとって専門的過ぎて殆ど理解できなかった。だが、添付された写真を見ると木(ヒノキ)と木の間隔が狭く、日当たりが悪いせいか枝が細く良く育っていない。見上げるとヒノキの枝葉が、一方地面には雑木が密集していた。いかにも手入れがされてない状況だと思った。

記事に戻ると、山が手入れされないで荒廃すると保水力が弱まり、多摩川上流に降った雨が土砂になってすぐに川に流れ出し小河内ダムの水質が悪化するのだという。私の田舎では保水力の低下は降雨時に時間をおかず雨が支流から一気に本流に流れ込み氾濫する、それを避けるため本流へ合流する所の水門を閉じる、そうすると今度はあちこちの水門の周りに行き場を失った水の小氾濫が起こる。最近起こる水害のパターンだ。

実は数年前に(多分、国の指導で)放置された山林の間伐をやる対策が考えられた。細切れに分割され保有される山林を森林組合が取り纏め、まとめて間伐する計画が作られた。私も組合に出向いて書面にサインして間伐を依頼した。だが、その後組合に聞くと間伐材が更に値下がりして経済的に成り立たなくなり沙汰止みになったという。想像するに、多摩川上流でも同じような状況になったのではないだろか。そして我が家の山林も依然としてそのまま放置されている。■
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