人間は長くもあり短くもある人生を生きぬき、玄米のごとき己を磨けば磨くほど、道を説く者、法を説く者の悩みと苦しみに直面する
己だけが常人の世にあって卓越した才能を身につけたとき、常民との隔たりにジレンマを感じ、常民の愚かさに怒りさえ思う
ところが怒りや蔑みを感じた時点で聖人である己は常人以下に成り下がっていることに気づく
そこで、常人に対する考えを改め、情と慈しみで向かい迎合したかのごとく優しく言い聞かせれば、常人の常でたちまち己が認められたと勘違いして、歩みは停滞し道を悟ったかの誤解をしてしまう、常人は己の欲望を解放し好き放題に振る舞う、小さな欲望の世界の中で、そして小さな欲望が全ての他人に多くの害をまき散らすのだ
かといって常人に強く人の道や法の心を延々と言い聞かせても、耳の右から左へ「我関せず」と抜けていくだけで時間を無駄にすること甚だしい
ならば簡潔に説けばどうか?
気短で己を守ることだけに必死の常人は、たちまち顔色を変え、唇を震わせて聖人に負けじと対立してくる、その対立は聖人を常人と同じ世界までひきづり下ろそうとするから始末が悪い
いずれにしても常人に法や道を説くのは至難の業といえる、道をなした者と、常人の差が大きければ大きいほどその苦悩もまた大きくなる、ましてやそれが肉親の関係であればなおさら苦悩は大きいものとなる
いかにして道を悟らせ常人を一歩上の世界にひきずりあげるか、それが師の悩み苦しみである、あきらめ切り捨てるのがもっとも容易であるが、それは仏の道に反する
常人を救うために聖人は地獄に落ちる覚悟が無ければ到底、常人を救うことは不可能だ
道のなから半分に達した時点で、全てを悟ったと思い込むエセ聖人の説法は常人の愚かさより始末が悪い、およそ人の世は己を己の尺度で測るから、器が小さかろうと大きかろうと満足は互いに100点なのだ、そこに勘違いの食い違いが生ずる
人が学ぶには謙虚さと師を選ぶ肥えた願力が必要だ、それが無ければ何でもかんでも選ばずむさぼり学んで良いものだけを残していけば道を歩むことは出来るようになるだろう
道を悟るのに近道も遠回りも無い、学ぶ今が道にあるのだ。