神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

死は生の始まり 生は死への始まり

2022年01月31日 21時01分07秒 | 宗教
今日は曇りから大雪の予報だった、だが予報に反して昼からずっと快晴になり暖かな日中となった
義父の人柄が天気まで変えたのだと身内は語った

人間が神になれぬのは無常の壁を越えられないからだ
無常の壁を超えるには全ての煩悩を捨て去り無の境地に達するしか無い
そのためには極限まで厳しい修行をするしかないが大多数の凡人にはそれはできない
そんな凡人を救うのが宗教である
浄土真宗は罪人も愚人も凡人も「南無阿弥陀佛」の6字を唱えるだけで阿弥陀様の救いを得ることが出来ると説いたもっともベーシックな宗教である

人は死の安楽を得るまで安らぎはない、それなのに死後の世界にも地獄極楽があると簡単にいう、それこそが無常というものだ
封建時代以前ならともかく高学歴社会の現代人は地獄極楽など信じるものか
まことの宗教であれば「無限に思える無も一瞬にして次の生に移るのだよ、その一瞬が極楽なのだ、誰であっても極楽を体験する、
されどあまりにも一瞬で記憶すら残らないまま転生してしまう」と
それでは悪の限りを尽くして人生を楽しんだ者勝ちでは無いかと思うだろう
だが神のシステムはそれを許すまい
善行を積むことでのみゴールである極楽、永遠の安らぎを得る
そこには体などの俗物は無く、心地よい安らぎの感覚だけが存在する
それはまさに母の胎内の安らぎなのだと思う
生体を得ない永遠の胎内の安らぎこそ極楽浄土
悪行の者も救われるが、それの繰り返し、永遠に永遠の安らぎ(極楽往生)を得ることは出来ない
人間界は魂を磨く場だと宗教は言う、故に悪を繰り返す者は永遠に安らぎを得られず無常の世界に繰り返し送り込まれる
現世こそが地獄なのか?、それはあるまい、この世に生を受けて幸せな人生だったと逝く人は多い
それならば尚更この世に未練が残るのでは、それこそが悲しい
ゆえに飛鳥、大和、平安の時代の宗教は貴族宗教で現世で栄華を極めた者たち(藤原氏、北条氏)が死後の世界でも変わらぬ栄華を継続できる祈りであった
だから王族貴族、地方地頭など有力者の子弟が平安貴族や鎌倉幕府などの後援で貴族宗教の住持となった
そして大衆宗教の日蓮宗や浄土宗、真宗などが出てくると既存宗教は権力者に訴えて迫害し遠島などの処罰を与えたのだが、それが越後などで広まることになった
貧しき者どもまで救われるなら貴族階級の特権が失われるという独占欲が既存宗教の保護、新興宗教への迫害となったのだ
だがもとより全ての人を救うことこそ宗教の重大な役目なのだ、ところが現代では大衆宗教の一部には金銭欲にかられた寺も出てきた
そういった傲慢さが寺離れをおこし、弱きものは現代の新興宗教になびいていく者も多い
無宗教、無信心の者も多くなったいま既存宗教界も襟を正すときがやってきた

針地獄だ、灼熱地獄だと地獄絵図を言うけれど、本当の地獄は心を襲う地獄だ
だがそれも死と共に消え去る、だから自殺が絶えない

地球だとか宇宙だとか時間だとか、それは短い時間の中で人間が勝手に見ている幻だ、死と共に魂はたちまち転生するが、それがどこなのかは神のみぞ知る
永遠の世界に時間など存在しない、人類の歴史も存在しない

誰が私に語らせているのだろうか?

義父が暮らしていた集落 女房殿の故郷(1月30日撮影)


朝鮮の歴史

2022年01月28日 18時55分29秒 | 韓国.北朝鮮.台湾.中国
国家間には様々な問題が生ずる、対立も多い
けれどなんであれ隣国とは何者かを知っておいても邪魔にはなるまい

10年か15年前か韓国の王朝ドラマにハマって「チャングム」とか「イ.サン」イ.サン(正祖)の祖父(英祖)の母のドラマとかを見た
長編のチャングムは、もう4回見た
同時に朝鮮半島の2000年の歴史も興味持って覚えたので朝鮮半島の三国時代(高句麗、百済、新羅)のドラマもいろいろ見た
それで漢字のハングル読みも覚えたし、ハングル文字も学び、韓国語も少しかじってみた、それで旅行にも何度かいってきたし
ところが突然熱が冷めた。些細なことで熱は冷めるものだ

今は中国王宮歴史ドラマにハマっている


日本の歴史とか中国の歴史と言う、ところが韓国の歴史というと一般的には朝鮮の歴史という場合が多い
それは多分この国の歴史の中でもっとも長い間の王朝が朝鮮だからだろう、約520年という、この国の最後の王朝だ
始まりは神話の時代でパクヒョッコセ、とかタンクンとかの神様的国祖である
そして子孫が造ったのが高句麗(コクリョ)、新羅(シラ)などでやがて百済(ペクチェ)と三国時代と呼ばれる
この中で最強だったのが高句麗でかっての満州と北朝鮮を併せた領土を持って漢民族の隋の滅亡の一因となり、その後の唐とも戦った
隋、唐 遣隋使、遣唐使で古代日本とも馴染み深い

新羅は唐に従って高句麗や百済を攻め、日本は百済を応援して兵を送った
高句麗は最強だったが王朝の内紛でいとも簡単に滅ぼされてしまった
こうしてこの半島は新羅が統一した(日本では大和政権)
この時、友好国の倭(わ=やまと=日本)に百済の仏師や陶磁器の職人やおそらく王家の人々も逃れてきて大和地方に住み着いた
法隆寺にも百済観音などが遺されている

新羅はやがて唐に反発する、そして現在の北朝鮮、韓国を完全に領土とした
それから年月が過ぎ新羅が弱まってくると、国内各地に新羅に対する反乱軍が興ってきた、後高句麗、後百済がその中の最強勢力だった
後高句麗では内紛が起きて王建(ワンゴン)が権力を握った
後百済も手強く新羅を圧迫した、新羅は王建に救いを求めた、新羅は王建の庇護下に入り後百済と後高句麗の一騎打ちになった
しかし後百済では父子の対立が起きて、怒った後百済王はなんと王建を頼って後高句麗にやってきた
王建は力を得て後百済を滅ぼして半島を統一して高麗(コリョ)を建国、頼ってきた後百済王を岳父として敬った

高麗はやがて北方の異民族「遼」に侵略され圧政下に置かれた、その後には「蒙古=元」に占領されて日本侵略戦の先鋒に使われるなど酷い目に遭った
(日本では鎌倉時代)
元は中国も占領してイスラム国家からヨーロッパの東までも占領したが、少数民族が歴史上最大の国家を得たために間もなく瓦解した
漢民族の中華には明が独立を果たして、力が衰えた元を圧迫した
高麗は明か元のどちらに味方するか岐路に立たされた、高麗王は元に味方して明を攻めるために軍を派遣した
しかし高麗の将軍李成佳(イ.ソンゲ)が反乱を起こして都に攻め込み占領、中国の明国をバックにして1392年「朝鮮王朝」を興した
(日本では足利家の室町時代)
この時、イソンゲは高麗王朝の人々を根絶やしにしようと大殺戮を行った
王という名では危険なので国とか王が入った別姓に変えて隠れた者が多かったという、日本にも逃れてきた人もあったようで、高麗川という地名があるが
その辺りにも来たのかもしれない

朝鮮はこの半島で最長の国家であり1890年代後半まで約500年以上続いたので、この半島国の歴史を語るとき「朝鮮の**」という言い方が一般的になった
1895年には朝鮮の宗主国清国を大日本帝国が破ったことで(日清戦争)朝鮮は清国の影響下から逃れた、朝鮮王朝は終末をむかえて日本の庇護下で大韓帝国となった
1910年に大韓帝国は日本の領土に編入され朝鮮民族国家は世界の地図から消えた
独立を果たしたのは日本がアメリカに負けた1945年だったが共産国に占拠された北朝鮮とアメリカの保護下に置かれた韓国の分断国家となり1950年には朝鮮戦争が勃発し現在に至っている分断国家だ

日本は日本の歴史と言えば天皇の歴史で一本化できている、韓国の歴史とか朝鮮の歴史、高句麗の歴史などというのは
日本で言えば徳川の歴史、豊臣の歴史というのに等しい、徳川という国家も豊臣という国家も無かったのだ、あくまでも日本の中の一時期の政権でしか無い
だから困った私は朝鮮半島の歴史と書くことが多い、専門書でも朝鮮の歴史というのが多い
だが今の時代、朝鮮というと北朝鮮をさし、南は韓国という、今でも朝鮮民族と韓民族が半島に二つの国家(当然彼らは一つの国と互いに言うが)
しかし南北がオリンピックで統一チームで出たことがある、あのときコリアという国旗で出たと思う、コリアは英語表記で、日本風だと高麗となる
高麗の国名は三国時代最大の国家「高句麗」から出たらしい

日本が1910年に統合した時は朝鮮国だったから日本人は朝鮮人と呼ぶが、韓国ではこの呼び方は好ましくないようだ。
北朝鮮は朝鮮(チョソン)と自ら名乗っている、北朝鮮は韓国を南朝鮮と呼び、韓国(大韓民国=テハミングゥ)は北朝鮮を北韓と呼ぶ
統一の民族国家名が欲しい


富山市写真シリーズ  最終回 富山城

2022年01月10日 16時22分08秒 | 旅行 北陸





前回まではタブレット撮影、今回はガラケーでした


越中では戦国時代中期までは越後の上杉謙信に味方する勢力と敵対勢力があり、謙信はしばしば越中へ攻め込んだ
越中を平定して魚津城に駐屯、やがて織田信長が北陸まで勢力を伸ばすと能登の七尾城攻めのついでに越前手取川で織田信長、柴田勝家の軍を散々に懲らしめた
しかし謙信亡き後、信長の勢力は拡大して富山城に佐々成政を大将として上杉に睨みを利かせた
本能寺の変のあと柴田勝家と羽柴秀吉の勢力争いがおきて秀吉が柴田を滅ぼす
柴田の与力大名だった佐々を秀吉は許し、熊本に領土を与えたが失政して切腹させられる
佐々と同じく柴田の与力大名だった前田利家は中立を守ったため秀吉が有利になって柴田に勝つことができた、よって能登一円を利家に与えた
秀吉、利家が相次いで亡くなり徳川家康が天下を取ると家康は前田利長に加賀、越中100万石の領土を与えた
利長は弟、利常に越中を与えた、そのため越中は本家加賀に頭が上がらない
北陸の小京都、雅な金箔の金沢に対して、足で稼ぐ地道な薬売りの富山は、その二つの町の相違を露骨に表している

富山駅北から寒風の中をずっと歩いて富山城に着いた、むか~し一度か二度門をくぐった記憶があるが記憶以上に広かった
夕暮れ時で寒いけど茜色に染まった低層ビル群のシルエットが美しい
ここからしばらく行くと秋水美術館がある、刀剣の展示館で所蔵刀も多いという、一時期刀剣の美しさに憧れたことがあった
それは今でも心にあるから誘われるように行ってみた、約1時間じっくり見たが見学者は最後まで私一人だった
二階が刀剣、三階は特別展会場で宋から清までの中国の陶磁器の展示を行っていた、以前はさらりと通過した中国陶磁器だが
中国の歴史にはまっている今は時代背景を思いながら陶磁器を見るので作品ごとに数分ずつ足を止めてしまう
ごくありふれた大量生産の陶磁器であるが、いかにも庶民的な絵柄が見ていて楽しかった
二階では刀剣と同じ数で印籠の展示があった、水戸黄門の「ずがたか~~い」のあれである、黄門さまのは葵の御紋だから面白くもなんともないが
ここの展示品は印籠と根付けの絵柄と細工が実に面白い、例えば根付けは雷神で印籠は稲妻と景色と言った具合
狐の嫁入りとか、キツネだかタヌキだかに化かされた漁師だとか、なかなか見ていて面白いのだ、久々の美術館はなかなか良かった

市内電車


第一日はちょっと食べ過ぎてしまった
香辛料のきいた海鮮パスタは強烈な刺激で私好みだった
あさりが大好き

富山産豚とソーセージのソティ 熱々!






富山市写真シリーズ 環水公園②

2022年01月09日 16時04分54秒 | 旅行 北陸

 






6日頃だろうか東京は大雪警報、びっくりしたが10cmで警報なのだそうだ。
だが東京では、その10cmで事故や交通渋滞、転倒、交通機関停止とパニック状態になったらしい
一方北陸は晴れ間が広がり出歩くにも快適な日だった(道行く人はけっこう寒いを連発していたが)
雪国の富山市でも道路に積雪はなく乾燥していた、そんな中を歩く私ときたら田舎者丸出しの半ながブーツ、カッコ悪すぎる
でも公園の所々には雪があり、あるいは凍っているので半ながはけっこう重宝したのだ
備えあれば憂い無し、カッコばかり言っていられないのが雪国の冬だ
僅かな雪でも大騒ぎになる東京は雪が降らないのが前提で備えがないからだとテレビ解説者が言っていた
一泊目はレストランで散財したので、2日目は昼、夜を富山名物のます寿司を部屋で食べた、こうした1人用があるのを知ったのも町歩きの賜物だ


昆布弁当 海藻は大好物

名物 ます寿司


富山市 写真シリーズ 環水公園/富岩運河①

2022年01月08日 12時56分42秒 | 旅行 北陸

軍艦の艦橋を連想するレトロ調の複雑な建物






塔に入り階段で上って見た





富山市は日本海側の地方都市としては新潟市と同じように港と飛行場のアクセスが抜群に良い
特に富山市には中国人留学生が多い、それも大連など東北部の人が多いから大連経由北京空路がある日本海側では特異な町だ
中心市街地のインターチェンジから10分で飛行場というのも珍しい
神通川の河川敷に一本だけの滑走路、橋にぶっかるかのように離陸していく

環水公園は市民の憩いの場である双子の塔楼「天門橋」を中心にした湖水の公園で、そこから富山と岩瀬浜をつなぐ富岩運河が水をたたえて春から秋、観光船が往来する
双子の塔は赤い糸電話で繋がり「愛の告白」のメッカなのだそうだ、今は
コロナのせいなのか知らないが中止になっている

富山市 写真シリーズ 岩瀬浜②

2022年01月07日 20時34分34秒 | 旅行 北陸
富山市 写真シリーズ②運河の町














当然ながら私の写真は見せる写真ではない、自分の思い出のための記録である
だいたいガラケーかタブレットでアングルしか気にしない
だから毎回枚数だけは多くなり容量のための消去作業がたいへんになる

レイルトレインで富山駅から終点岩瀬浜まで乗った
もともと座席数が少ないからほぼ満席だ、相向の席が一つ空いていた
周りを見たら、おっさんが多い
なるほど競輪場前という乗降場に着いた、一斉におっさんたちが降りた
気づいたら2両の車両に私一人取り残されていた