今日は曇りから大雪の予報だった、だが予報に反して昼からずっと快晴になり暖かな日中となった
義父の人柄が天気まで変えたのだと身内は語った
人間が神になれぬのは無常の壁を越えられないからだ
無常の壁を超えるには全ての煩悩を捨て去り無の境地に達するしか無い
そのためには極限まで厳しい修行をするしかないが大多数の凡人にはそれはできない
そんな凡人を救うのが宗教である
浄土真宗は罪人も愚人も凡人も「南無阿弥陀佛」の6字を唱えるだけで阿弥陀様の救いを得ることが出来ると説いたもっともベーシックな宗教である
人は死の安楽を得るまで安らぎはない、それなのに死後の世界にも地獄極楽があると簡単にいう、それこそが無常というものだ
封建時代以前ならともかく高学歴社会の現代人は地獄極楽など信じるものか
まことの宗教であれば「無限に思える無も一瞬にして次の生に移るのだよ、その一瞬が極楽なのだ、誰であっても極楽を体験する、
されどあまりにも一瞬で記憶すら残らないまま転生してしまう」と
それでは悪の限りを尽くして人生を楽しんだ者勝ちでは無いかと思うだろう
だが神のシステムはそれを許すまい
善行を積むことでのみゴールである極楽、永遠の安らぎを得る
そこには体などの俗物は無く、心地よい安らぎの感覚だけが存在する
それはまさに母の胎内の安らぎなのだと思う
生体を得ない永遠の胎内の安らぎこそ極楽浄土
悪行の者も救われるが、それの繰り返し、永遠に永遠の安らぎ(極楽往生)を得ることは出来ない
人間界は魂を磨く場だと宗教は言う、故に悪を繰り返す者は永遠に安らぎを得られず無常の世界に繰り返し送り込まれる
現世こそが地獄なのか?、それはあるまい、この世に生を受けて幸せな人生だったと逝く人は多い
それならば尚更この世に未練が残るのでは、それこそが悲しい
ゆえに飛鳥、大和、平安の時代の宗教は貴族宗教で現世で栄華を極めた者たち(藤原氏、北条氏)が死後の世界でも変わらぬ栄華を継続できる祈りであった
だから王族貴族、地方地頭など有力者の子弟が平安貴族や鎌倉幕府などの後援で貴族宗教の住持となった
そして大衆宗教の日蓮宗や浄土宗、真宗などが出てくると既存宗教は権力者に訴えて迫害し遠島などの処罰を与えたのだが、それが越後などで広まることになった
貧しき者どもまで救われるなら貴族階級の特権が失われるという独占欲が既存宗教の保護、新興宗教への迫害となったのだ
だがもとより全ての人を救うことこそ宗教の重大な役目なのだ、ところが現代では大衆宗教の一部には金銭欲にかられた寺も出てきた
そういった傲慢さが寺離れをおこし、弱きものは現代の新興宗教になびいていく者も多い
無宗教、無信心の者も多くなったいま既存宗教界も襟を正すときがやってきた
針地獄だ、灼熱地獄だと地獄絵図を言うけれど、本当の地獄は心を襲う地獄だ
だがそれも死と共に消え去る、だから自殺が絶えない
地球だとか宇宙だとか時間だとか、それは短い時間の中で人間が勝手に見ている幻だ、死と共に魂はたちまち転生するが、それがどこなのかは神のみぞ知る
永遠の世界に時間など存在しない、人類の歴史も存在しない
誰が私に語らせているのだろうか?
義父が暮らしていた集落 女房殿の故郷(1月30日撮影)