神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

ごちゃまぜ交流 ちょっといい話

2021年12月18日 20時13分16秒 | 病気と健康
早朝のテレビで見た、どこぞかの(忘れてしまった)施設で(障碍者施設なのか老人養護施設かも忘れた)
「ごちゃまぜ施設」というところがミソで、ここに集まってくるのは健康器具の施設利用者、レストラン利用者、要介護高齢者、知的等障碍者
一般利用者と高齢者、要介護者が一堂に会する施設なのだ
一般利用者と障碍者がコミュニケーションをとりながら同じ運動をする
認知症が入り始めた高齢者と身体障害の青年が一緒に食事をする、高齢者は認知度が軽減した、身障者は体の一部が動くようになった
こうした正の相互作用もこの施設では起こりうる、全国から研修のために集まってくる話題の施設なのだ
ほんとうに素晴らしいことだ、施設管理者のアイデアと勇気に敬服する
とかく障碍者に上から目線で接してしまう一般人、同じ目線で運動したり食事をすることで対等である事を知る

私も先日の集会で外見からの同情ではなく、経験者や本人の中に飛び込むことで本当の姿を知ることを促した

話は変わるが性差別が解消される方向に進みつつある、男らしさを売る人には我慢出来ないことでも男と女の性の違いはほんとうに僅かなズレでしか無いのだ
子宮で暮らしているときは全て女性だとか聞いた、そして幼年時代までも微妙で体と心が一致しないことは珍しい事では無いと看護師さんから聞いた

体が男なのに心が女という人も少なからず居るのだ、それを差別用語で呼び差別することはついこの間まであった、私もその一人だ
でも考え方が変わった、いろいろな個性があるのだ、わたしとて全て社会の企画にハマっているわけでは無い
それを私は「煩悩多き人間なのだ」と表現している

障害にも様々なパターンがある事を知っている人は少ない、差別を差別とも思わない時代はひとことで片付けた
人間は自分や自分に近い所にそんな人が現れるまで優位に立っている優越感を感じている
だが家族や親戚にそんな障害をもった人が現れると、ようやく気がつく
大概の人はそんな彼らを「可哀想」と同情するが本人たちは自分を不幸だなんて思って居ない、同じなんだ
遠くから見ていても何もわからない、機会があったら飛び込むことだ、そうすれば理解できるだろう