神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

年末年始

2019年12月28日 08時03分03秒 | ライフスタイル

みなさま、今年一年おつきあいいただきありがとうございました

年末は、仕事が忙しくなりますのでブログの更新は、おやすみします

令和2年は1月1日から再開しますので、よろしくお願いします

                                                 yottin

 


荒波人生 昭和33年~36年 対決!

2019年12月27日 22時08分01秒 | 小説/詩

かずが33年の人生で身につけたことがいくつかある

「人は信じられない、無防備に信じれば悪人の餌食になってしまう」

そのくせ、お人好し

 

「今すべきことは今すぐにやってしまう、後回しは、しないのと同じ」

「間違えれば重大な損失や責任を招く事柄は、時間を掛けて深慮して

何度も精査してからとりかかる」

余裕が出た時、かずはそれを忘れて即断して晩年を苦しむことになった

 

人生は思いどおりに行くことが少ないが、正しい判断で素早く行動すれば

成功の確率は格段に上昇する

とにかくかずの行動は早い、悩みや苦しみはうじうじ考えているより、すぐに

動いて解決すれば早く楽になる

今の最大の問題は、鬼平の攻撃からどうにかして逃れることであった

魚を思いどおりに買えないのでは生活に関わってくるのだ

しかし年齢も財力でも到底かなわない大きな相手なのだ

「う~ん」知恵を絞る、どんな強者にも弱点はあるはずだ、大男だって

見えない水虫菌に苦しめられる、どうやって俺は水虫菌になるか?

鬼平も大陸坊主も個人的には強い精神力を持っている、これをやっつける

のは無理だ、他の角度から攻めるしかない

 

そういえば・・・ラジオで聴いた 山岡荘八という小説家が「徳川家康」を

新聞に何年も延々と書き続けているらしい

(「徳川家康」も「豊臣秀吉」天下をとった男だが、織田信長の家来であった

カリスマ信長の怖さにひれ伏し、言われるがままに従うしかなかった

それが、信長が死ぬと秀吉は水を得た魚のように急速に頭角を現し

信長の息子達を殺し、配下にして天下を取った。

家康は秀吉の死を待って、その息子を殺して天下を取った・・・そうか!)

かずの頭の中、ひらめいた!

 

朝のセリ場で、またいつものように大陸坊主が、かずとやり合っている

というか一方的だ

今朝は久しぶりに鬼平も顔を見せて、セリの後から睨みをきかせていたが

(この小僧か)と、かずの顔をじっと見ていた

その時、かずは誰にもわからぬように鬼平に近づいた、他の者はセリに

熱中していて気づかない

「鬼平社長さん!」と声をかけた、鬼平は平然と「なんだ!」と言った

「いつも番頭さんに、ひどいめにあっている井川です」

「それがなんだ!」と一喝する

「魚が思うように買えなくて困っています」と、かず

「おまえが噛みついてくるから、仕方ないだろう」

「これからも続けますか」

「おまえさんに遠慮する筋合いはない、セリは勝負だからな」

「そうですか、力関係ということですか」かずの表情がふてぶてしくなった

背水の陣の状態になると目の光が変わる、これがかずの気味悪さなのだ

鬼平も表情の変化に気づいた、お構いなしに、かずは続けた

「そうですか、いつまでもやるという事ですか、それなら3年後も5年後も

虐め続ければいい!、だが! 10年後にはあんたは歳をとって伜の

代になる、それから後は、おれがゆっくり、あんたの伜を10年も20年も

可愛がってあげますから、どうぞやってください!」

この鬼のような鬼平がぞっとした、この餓鬼は、俺に敵わないから伜で

仇をとる気なのだ、そしてそれは本気なのだと感じる。

世間には厳しい鬼平も、どうみてもひ弱な20歳の一人息子の将来に

不安を感じていたのだ、しかもその息子が可愛くて仕方ない、

そこに堂々と伜を攻撃するという向こう見ずな若者が表れて宣戦布告をしてきた。

さすがの鬼平も、この向こう見ずで怖いもの知らずの貧しい若者の素手の

戦法にたじろいだのだ。

「おまえには負けた、若いのにたいした奴だ、だがおまえにも非はある

無鉄砲に榊原に対抗して食いつくのでは可愛げが無い、榊原も頭にくる

それだけのプライドを持った男だからな、だからおまえさんも少しは人に

妥協する可愛さをもたんきゃならん」

かずは素直に聴いている

「もっと、うまくやれよ、俺たちだってほんとの鬼じゃない、筋を通してくれば

失礼だが、おまえさんが買うくらいの魚は痛くも何ともないんだ、だが

噛みつかれれば、おれたちも潰しにかかる、それが俺のやりかただからな

実を言えば竹丸常務も、俺たちがこんな風だから気にしているんだ、

これからは、ほしい物があったら、それとなく榊原に言って波風がたたんように

すっればいい、俺たちが買ったものの中から、ほしいものを分けてやることも

出来るんだ、仲良くやるのがお互いとくというもんだろ」

「わかりました、よろしくお願いします」

かずも珍しく、ニコリとしたのだった、これで心のわだかまりも、不安要素も

消えたのだった、10年後には、かずの予感なのか鬼平が死んだ、だが鬼平の

息子を、かずは可愛がって盛り立てたのだった

 

それからまもなく、もう一方のボス、池波吉太郎とも一悶着が起きたのだが..

池波は若いながらも、市場の小島専務派の旗頭であった

だから社長派の(正確には常務派だ)かずを気にくわなかった

鬼平ほど露骨ではないが、かずのやることにあれこれと文句をつける

そして、それは意外な形で終止符をうった

セリの些細なことで池波が、かずに声を張り上げた

「兵隊にもいかない餓鬼が生意気な口をきくな!」

かずも負けては居なかった

「ばかをいうな、おれも兵隊くらい行ってるぞ」と、かずが言うと

「なにを・・・いったいどこの部隊でふるえていた?」と池波がからかう

「東京の調布の高射砲隊だ、言ってもわかるまい」

「なに?調布だって?、あの244戦隊のところか?」池波のトーンが下がった

「・・・?」意外な反応に、かずもぽかーんとした

「ははは!、そうか調布か、ははは」池波はその大きな角張った顔そのままに

豪傑笑いをしてから

「おい、おれは厚木基地で戦闘機の整備をしていたんだ、調布か!なつかしいな」

そしてかずの両肩に手を置いて揺すって、満面の笑顔になった

「おい戦友!どうだ一杯やりながら昔話をしようじゃないか」思いのほか豪快な男だった

兵隊同士の絆というのは命がけの明日知れぬ身同士故に、学校の同級生同士

なんかの友情より、ずっと深いようだ

市場の派閥なんか関係ない二人になった、これから死ぬまで二人の関係は

続いて行くのだ、仲のい友だちとなり、女房同士も仲良しになって4人で近くの

温泉へ行ったりもするようになった

かずは、この頃、ダットサンのオート三輪を購入した、自動車とはいえオートバイ

タイプの棒ハンドル、前一輪、後は二輪の変則自動車だ。

それから数年後にはダイハツミゼットを買った、この田舎ではサラリーマンには

まだ乗用車など普及せず高嶺の花だった、商売人がこうした運送用の自動車を

ポツポツ導入しだした頃であった、そして間もなくテレビの時代がやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和33年 魚市場の事情

2019年12月26日 19時41分04秒 | 小説/詩

かずが彼の将来を危ぶんで面倒を見始めた徳磨だったが

意外な反響が起こった

何があっても、何を言われてもいつもニコニコして決して腹を立てない

余計なことは言わない、余計なこともしない、そして応対の面白さ

今で言う「てんねん」なのだ

それで店に買い物に来る主婦達の人気者になり「とくちゃん」と可愛がられる

学校の勉強は苦手だったが、魚の扱いはすぐに覚えて、「三枚おろしして」

「腹を空けて」「家に届けて」などお客さんの要望には、いつでも

「はいはい」と快く引き受ける、それが人気の原因だ

これには、かずも驚いて「人にはわからない才能があるものだ」と感心した

 

かずが竹丸市場に行くようになって既に二年が過ぎた、そして魚屋事情が

わかりはじめた

かずの性格だから、一年も経つと魚屋の中で頭角を現しはじめた

東京の闇市で鍛えられた人間だけに、田舎の純粋な者には薄気味悪い

存在なのだ、自分が正しいと思えば妥協しないでズケズケと言う

大概の魚屋はたじろぐのだった

しかし、どうしても勝てない貫禄の魚屋だって居る、その筆頭はこの町

一番の鮮魚店「鬼平鮮魚店」を構えている鬼塚喜平である、町の中央商店街に

大きな店を構えて県外にも出荷している、従業員も10人以上いて番頭の

榊原弥二郎も手強い男なのだ、さすがのかずも、手も足も出ない、

貫禄がまったく違うのだ

かずは33歳、喜平は55歳、弥二郎は40歳だ、弥二郎は兵隊として中国で

5年も戦った男だ、頬には銃剣の白兵戦で受けた生々しい傷がある

人は「弥二郎」とは呼ばず「大陸坊主」と呼んでいる

「中国では人に言えない悪事を働いたのだ」という噂が飛び交うような男だ

セリ場では王様だ、セリは人より高い金額を言ったものが魚を競り落とす

「鬼平」に従順であれば大陸坊主はセリの邪魔をしないが、反抗的な

セリをする者には徹底的に虐めて魚を競り落とさせない

とことんまで値をつり上げて絶対、反抗者には魚を与えない、かと思えば

つりあげて、かなりの金額になった頃合いで、反抗者に競り落とさせる

こともある、それで反抗者は高く買うので適正価格で売れば赤字になるのだ

そんな嫌がらせもする

そんな反抗者は、かずの他にも二人いた、一人は池波吉太郎37歳

もう一人は神谷宏三27歳だ

池波は、この町のもう一つの繁華街「筋町通り」のボスだ、資産家で魚屋の

他に出荷もしているから「鬼平」と同じなので時にバッティングもある

そんなことで互いに煙たい存在だ、池波は「あしわら」という屋号で店を

開いている、店員は二人だが、トラックを3台もっていて魚の他にも運輸の

仕事もしているから、元気の良い運転手を抱えているのだ

だから大陸坊主如きに負けては居ない

神谷宏三は男7人兄弟の5番目とかで腕白坊主そのままの男だ

いつもサングラスをかけていてニヒルな男だ

だがまだ駆け出しで力は無い、だが負けず嫌いな性格はかずと同じで

損得などよりプライドを重視するからいつも大陸坊主にやられっぱなしだ

それでも向かって行く、そんなことで宏三と、かずは仲良しになった

かずが6歳年上だから、宏三は「かずさん」と呼ぶ、かずは「こうぞう」と

弟のように呼んでいる

魚屋はざっとこんな感じだが、市場の主役、魚市場関係も複雑なのだ

どこにでもあるような社長派と専務派の構図である

ここは株式会社だから有力な二大株主がいた、一人は創業者の竹丸豪蔵

67歳、対する専務は小島仁65歳である、二人とも当時では老人の仲間入りだ

創業者は竹丸だが、小島は同等の出資をした大株主なので口を出す

それが竹丸の燗に障る、表面では二人は何食わぬ顔をしている

だが互いの胸の内は次期後継者に飛んでいるのだ、どちらも自分の息子を

次の社長にしたいと思っている、裏では工作合戦が盛んにおこなわれていた

魚屋を巻き込んで多数派工作をおこなっている

かずは権力や派閥争いなどには無関係と思いきや、そうではない

義理人情に弱い性格である、市場に入るとき、甲村の推薦でも信用力が無い

かずは社長、専務の合議では「あいならん」と言われたのだ、しかし

竹丸社長の息子の竹丸剛太常務が、なぜか、かずの加入を後押ししてくれた

のだ、挙げ句に「保証人が不足なら、俺も身元保証人になる」とまで言い張ったので

取引出来るようになった経緯がある、それをかずは忘れてはならない恩義と

感じていた、ゆえにかずは竹丸派と目された

なぜ、常務が保証人になったのか、それは後日、わかった

「ちょっとこい」と常務に言われて市場の応接室に行くと、そこには先客がいた

知っている男だった、かずが店を建てたとき基礎工事をした飛島工業の飛島健治

だった、この男とは生い立ちと境遇がまことにそっくりだったため気が合って

随分と話し込んだのだった、どちらも下戸であるのも気が合うのだ

かず苦労の人生を送っただけに、苦労人には共感を覚える、そして負けず嫌いで

強い者に立ち向かう男も大好きだ、それをお互いが感じたのだ

そしてずっと以前から飛島は竹丸常務の弟分的立場にいて、何かと面倒を

見てもらっていたが「面白い魚屋がいる」という事を竹丸に話した、それで

常務も心に留めて置いたのだという、かずを後押ししたのは可愛い子分の飛島への

恩づくりだったかも知れない

この場で常務は、かずに「今度のことは飛島の推薦があったからだ、これからは

おまえたち二人は兄弟のように助け合え、お互いが困ったとき保証人になって

助けるのだぞ」とまで言った、かずはこの時の義理を大切にしたことで、数十年後に

とんでもない大火傷をすることになるが、それはおそらく私は書かないだろう

そこまでこの小説はたどり着かないと思うしハッピーエンドで終わりたいのである。

強いて言えば、その大火傷も持ち前のファイトで乗り切るのだが...

この派閥構造では、かずはいつも虐められている鬼平と同じ派閥なのだ

派閥が同じでも、鬼平はぶれない、かずはやられっぱなしであった

何とかして逆転したいと、執念深いかずは解決方法を模索している

虐められれば虐められるほど復讐心が湧き上がる嫌な男なのだ

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和33年~ 高浜での生活

2019年12月25日 19時27分32秒 | 小説/詩

店を開いたこのあたりは新開地で、住宅もポツポツと建っているだけだった

近所に目を向けると、かずより2年ほど前に開業した食料品店と、かずと

ほぼ一緒に家を建てて開業した八百屋、それに肉屋も電気屋も相次いで

開店したので、この田舎では、ちょっとした商店街になった

更に床屋さんも同じ地域に開業した。

 

それでも,住宅が少ないから店でお客を待っていても商売にならない

だから、妻のみつこが店番をして、かずは午前中は宣伝も兼ねて、町内の

山の手まで自転車に魚を乗せて売りに行く

みつこも魚捌きの練習をした成果が出て、刺身くらいは切る腕前になっていた

そんなある日、近所の男性客が店に来た(あれ?どこかで見たような?)

みつこは、この男に見覚えがあった、相手も「おや?」という顔をしている

そうだ思い出した

みつこが、長男陽一を産む前の妊婦の時のことだった

妊娠していたが、毎朝汽車に乗って隣町の東亞工業の子会社へ働きに

行っていたが満員電車で身を守るのもままならなかった

そんな時、一人の男性がみつこが座れる席を確保してくれるようになった

しかも満員だから,誰かが倒れ込まないように両手を突っ張らせて

自分は立ったまま防御までしてくれていたのだ

それは、みつこが実家に出産準備に行くまでの間、しばらく続いたのだ

同じ会社の別の場所に居るのはわかったが、とうとう名前も聞きそびれて

いたのだった

かずには「そんな親切な人が居る」と言ったが、かずもとうとう彼に会う機会が

なかった

そうだ、その人だった。 すぐ近所に住んでいる丸川さんという人だと

わかった、あの頃は東亞工業から出向で子会社に来ていたのだそうだ

それで丸川さんの夫婦共々仲良しになってつきあいが始まった、

戦後まもなくここに住み着いた丸川夫婦は年齢もほぼ同じだった

それで丸川さんが宣伝してくれたので、彼らとつきあいがある近所の人たちも

次第に店に買いに来てくれるようになった

だいたい同年代であったから、社交的なみつこの友だちが一気に増えた

その点では、愛想は良いが人付き合いに難があるかずは、なかなか友だちが

できなかった

しかし、かずは水城村などの行商でもそうだったが、女たちには人気がある

歯切れの良さと、男っぷりがいいからかもてるのだ

少したった頃、また新しい客が店に来た、かずより10歳以上は年上だろう

「あなた東京育ちだそうね、どこなの?」と聞いた

上野から亀戸、神田、田町、調布と転々としたと言うと、「私は浅草なのよ

なにか嬉しいわ、同郷の人に会ったみたいで」

かずも久しぶりに下町言葉に触れて、セイ叔母さんや珠子さんを思い出して

懐かしかった

戦火で家も何もかも焼かれたけれど、この二人が並んで写っている写真を

ずっと持っていた、それは入隊するときに下着などの僅かな携帯品の中に

持ち込みを許されていた写真も持って行ったからだった

両親と自分が写っている写真2枚と、この二人の写真一枚、それだけが

手元に残った写真だった。

 

昭和35年には池田勇人首相が「所得倍増計画」を発表して実行

毎年平均8%以上の高度成長が続くことになるが、今は32年~33年

まだ緩やかな成長期であったが確実に世の中の景気は良い方に

むかっている

日本経済の立ち直りが早かった原因の一つは朝鮮戦争の

勃発だと言われている

1895年(明治28年)に清国(中国を支配した満州族国家)との

日清戦争に勝ち、1904年(明治37年)には強国ロシアと日露戦争となり

辛くも勝利した日本はその勢いで1910年(明治43年)朝鮮国を廃して

大日本帝国に併合したが、35年後にアメリカとの戦争で敗れて

アメリカに支配され独立国の地位を失った、同時に日本が併合した

朝鮮は連合国に解放されて独立を取り戻したかにみえた、しかし現実は

連合国が朝鮮人には国家運営が難しいと判断して国政に介入した

しかも北半分はソ連と中国が介入し、南半分はアメリカが介入した

そのため朝鮮は、北が社会主義国家、南が自由主義国家として分断

され二つの国が出来た

北朝鮮はソ連に亡命していたキム.イルソン(金日成)が支配し、韓国は

イ.スンマン(李承晩)が大統領となった(*李承晩は日本が独立を失って

いる戦後間もなく、竹島を韓国領とした李承晩ラインをひいた人物である)

しかし日本帝国が北朝鮮に作った巨大ダムと工業力が動いている間

工業生産性が高い北朝鮮は、農業主体の韓国に軍事力で勝っていた

かずの長男が産まれた翌年、突然北朝鮮軍は戦車を先頭にして

国境を越えて一気に韓国に攻め込んだ

韓国は抵抗したがあっけなく首都ソウルが陥落、大統領はスウォン(水原)に

逃げたがそこも危なくなり、瞬く間に朝鮮半島の南端プサンまで

追いつめられかろうじて「テグ(大邱)、プサン(釜山)」ラインでの防御で凌いだ

韓国軍壊滅の間際、マッカーサー率いるアメリカ軍がソウルの南

インチョン(仁川)に逆上陸したため、伸びきった北朝鮮軍は分断され

各個撃破の憂き目に遭って、今度は逆に敗走することになった

それで今度は米韓軍(イギリスなども含めて国連軍)が逆襲して

北朝鮮の首都ピョンヤン(平壌)を占領、北朝軍を中国国境まで追いつめた

しかし今度は北朝鮮は盟主中国(中国共産党国家)に助けを求めた

中国は義勇軍という名で北朝鮮を助けて、米韓と戦った

結局勝敗はつかず元の国境付近で膠着状態になり令和の今日まで

休戦状態が続いている

この戦争で日本はアメリカ軍の補給基地、経由地となり米軍の軍事

物資の生産供給や宿営地、中継基地として潤ったのである

それが昭和30年代の繁栄の引き金になっている

 

かずも余裕が生まれて、長男陽一と澤田達也を連れて10年ぶりに

長野の伯母さんを訪ねた

もう長女も、次女で元許嫁だった佐知も嫁に行って家には居なかった

三女が婿をとって家を継いでいた、長男、次男がいたのに不思議に

思ったので聞いてみると、伯母さんの表情が曇った、それでも意を

決したのか気を取り直して話し出した

東京の下宿屋でかずと一緒に暮らした長男光顕は鬱病になって

長野へ戻ったのは別章で書いた通りだったが、それから一年後に

神経を病み衰弱して亡くなったそうだ、そして野尻湖に連れて行って

くれた元気な次男は、高校卒業と共に行方不明になってしまった

「元気だから探すな」という手紙が数ヶ月後に届いたという

今はもう諦めているのだという

伯母さんの家も傍から見るほど幸せでは無いのだと思った

それに比べれば貧しくても家族5人で平和に暮らしている自分は

幸せなんだと思った

この頃、徳二(かずの実父)はリヤカーを使って今で言う廃品回収業

で生計を立てていた、住まいもさすがに払い下げの塩小屋というわけにも

いかず貧しいながらも廃材で小さな家を建てたのだった

だが廃品回収の仕事はプロテスタントの敬虔な信者である女房が

主にリヤカーを引き、徳二は廃品の中からめぼしい美術書などを

拾い集めて蔵書として読みふけっていた

親戚では「徳二は豊かな家に生まれていればいっぱしの学者になれた

かもしれない、頭が良いのに残念だ」と言うのが常であった

確かにこの町の古代の遺跡の調査などには興味を示して調べ歩いた

形跡がある

だが一方、親戚の間では「徳二は怠け者で女房、子供に働かせて

自分は好きな事だけしてプラプラしている」という見方もされていた

そんな家で徳二の一人息子、舟形徳磨は16歳になり中学校を卒業後

夜間高校に通ったが勉強について行けず中退して廃品回収の手伝いを

していたが小さな体で、しかも痩せこけていて、着ているものも汚れた

古着であるし、あまりにも貧しく惨めなので、かずは自分も人を使うほどの

繁盛でもなかったけれど、徳二に「リヤカーを押していても徳磨の

食い扶持も稼げないから、少しでも稼ぎになるようおれが面倒を見る」

と言った

しかし徳二にもプライドがある「生意気なことを言うな」などと言って拒んだ

しかし徳二の姉である腰越の伯母さんも徳二宅の貧困を見かねて

「あんちゃん(かずのこと)の言うとおりだ、徳磨を預けた方が何倍もいいから

ここは甘えておけ」と説得した

徳二は仕方なく徳磨を預けたが、そこらへ言っては「かずの奴は少し

商売がうまく行ったと言って天狗になっている、徳磨を連れて行って

ただ同然で使っている」などと悪口を言って歩いた

かずも徳二に対しては、実の父に対する尊敬の念など持っていないから

遠慮会釈なく言い負かした、それは子供の頃から義祖父の関神源治郎

祖母の関神キク、そして母から家族を置いて離婚して出ていた徳二への

恨み言をさんざん聞かされていた後遺症でもある

だが腹違いではあるけれど弟の徳磨を、なんとか立派な大人にしたいという

兄弟の情は持っていたのだった、女房のみつこも「とくちゃん」と言って

可愛がったから、徳磨も、みつこに慣れて楽しく仕事をするようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和32年 店を持つ

2019年12月24日 15時26分05秒 | 小説/詩

かずは一週間のうち2~3日は山への行商をやめて、町の中のはずれの区域へ

売りに行くようになった

それは近い将来、店を開くための適地を探しながらの商いであった

今住んでいるでは、表通りから中に入りすぎているし、しかも去年の秋

とんでもない大きな高波がおこって、あの高いママ坂を乗り越えて

一番浜辺の家が全壊、裏の畑山次郎の家も床上浸水の被害を被った

そんな危険がある場所でもあったし、狭い土地で借地でもあったから

ここでは魚屋を始めるつもりはない

いろいろ歩いてみたが町の中心部の商店街から1kmほど山の手の

髙丘地区が気に入っている

この地域は農家が大部分であった、街道が二本平行して5km先で

合流している、その先さらに5kmの奥谷村で道は行き止まりになっている

街道の一本は遥か昔からの道で古道と呼ばれ、もう一本は家もまばらな

地区を貫く新しい広い道で、新道と地元の人たちは呼んでいる

古道の農家は江戸時代以前から続く家が大部分で、封建的な色合いが

濃い、有力者というのが存在していてこの地区では絶大な権力を持っている

髙丘地区の区長も例外なくここから出ている、市制が制定されてからも

市会議員はこの古道地区から出ているのだった

昔は川筋で沼を埋め立てた場所もある新道地区は、戦後になって建った家が

ほとんどで高浜地区外からの者が多い、とはいえ高浜全体の1%程度しか

戸数がないから寂しい地域なのである

ここでかずは、大きな犬に虐められている子犬を見つけて保護した、あきらかに

捨てられた子犬である、震えているのを自転車の前カゴに入れて家に連れてきた

コロと名前をつけた、赤犬の子でコロコロしているからである

子供達は喜んで遊び相手にした、コロもすぐになついて家族になった

 

竹丸魚市場と近松魚市場が出来たのは、昭和24年に魚の国家統制が解除

されたからだ、しかし30年には近松が廃業した

その30年には米の統制も緩和されたので、もはや闇米の必要も無くなり

かずの商売は純粋な魚売り一本になったのだ

そうなると行商だけでは行き詰まる、いよいよ本腰を入れて店舗を建てる

準備が必要になった

そのための課題は、家を建てる土地の選定、家を建てるための資金の準備

今住んでいる家の処分だった

丸竹市場に出入りするようになって、同年代の魚屋の知り合いも出来た

その中に「田印」という少しがさつな感じの男が居たが、なかなか目鼻の効く

男で世間に詳しい

店舗は持たず、町の東方で行商をしている男だが、それに店舗の話しを

したら「おれは高浜がいいと思う」と言ったので、自分も気に入っている

高浜がいよいよ第一候補となったのだ、それで高浜の客に、それとなく

どこが良いかと相談したら、数人の人が新道の真ん中あたりを勧めた

そのうちの一人、高根さんというお客さんは、市内の車屋建設の常務だった

それで、建築も高根さんに任せることにしたのだった。

次は予算であった、昭和25年に建てた今住んでいる家の時には3万円の

予算で建てるつもりだったが、ほとんど資金がなかった

母屋に近いところに住んでいた金貸しの長瀬セツという3歳ほど年上の女

彼女は東京巣鴨の病院で看護婦をしていたが、故郷のこの町に帰ってきて

金貸しをはじめた、しかし板東という若いおんなったらし(女を騙すに長けている)

に騙されて金を貸したが取り返せず困っていたのを、かずが決着つけて

取り返してくれたので、それ以来つきあいをするようになった

彼女の自慢は巣鴨の拘置所で東条英機を見かけたことであった

そんなことでセツに3万円の借り入れを頼んだら「わたしは金貸しだから利息

がつくよ、しかも高利だからね返せなくなるよ」と言う

「だめか」と言ったら

「そんなことはないよ、私のはダメだけど亭主に貸してもらえばいい

利息がつかないからね」

セツの亭主は大学卒で、何をしているのかわからないが事務所を構えて

いた、だがいかにも根性無しの風態で頼りない、ともあれ無利子でセツの

夫から貸してもらったのだ

実際はそれでも足りなかったのは以前書いた通りで、不足分は土台と

屋根石を浜から従兄弟たちと、モッコに入れて800個も運んだりしたの

だった

さて、車屋建設の高根さんが土地の情報を持ってきてくれた、新道の

埋め立て地を車屋建設が8区画にして分譲しているので、そこがいい

という事である、それで一番北側の区画を頼むことにして金額を聞いたら

土地.建物建設費込みで43万円だという、勿論現金は持っていない

無尽(講)と言って商売人が数十人集まって月掛けをしていく互助の

方法がある

例えば10人メンバーがいて毎月1万円掛ける、すると10万円集まる

それで無尽を開催する

資本金は10万円だ、今お金が不要な人は不参加または入札しない

だが、まとまったお金を必要な人は、10万円以内のほしい金額を

書いて入札する。

Aさんが10万円 Bさんが9万円 Cさんが88000円 Dさんが85000

と書けば、Dさんが落札となって85000円受け取れる、そのかわり

Dさんはあと9回1万円を払い続けるが落札の権利はなくなる。

ある意味、15000円が利息と言うことになる

その金額は会の資本金に上乗せされていく、安く早く利用するか

あとで満額+配当をいただくか・・・そういシステムだ

かずはこうして無尽で20万円を落とし、残りは今住んでいる

家を売って20万円作ろうと思った

しかし地主が更地にして返せなどと言えば万事休すなので

地主である大竹鉄工所の主人に「こうこうなので」と事情説明に

行って「謝礼に一割払うので、どうかご容赦を」と頼んだら

「売るあてはあるのか」と聞くので、これから不動産屋でも聞いて

見ますと言ったら

「それなら俺が売ってやる」、そして1週間も経たぬうちに

「売ったぞ」と言って20万円をポンと置いていった

やはり大きな商いをしている人間は違うものだと刺激を受けた

かずであった。

それから現金で40万円を持って車屋建設へで掛けて事務所で

「あとの残り3万円は後日払うので、これでやってもらえませんか」と

頼んだが車屋建設の40歳くらいのオーナー専務は

「だめだめ、うちは全額現金でないと仕事はしない」と言う

この地での実績も財産も持たないかずを、あきらかに見下している

信用しろというのも無理なところもあるが・・・・・・

「そこをなんとか、必ず払いますから」と平身低頭して頼むが、いかにも

ボンボンの専務は首を縦に振らず、今にも事務所から出て行こうとしている

そこに専務の父である社長が帰ってきた、そしてこの雰囲気に気づき

「どうした?」と聞いた、専務がこうこうと事情を話した

となりに居る高根常務にも事情を聞き、この話を持ってきたのが常務である事も

知った、それからかずにも事情を聞いた、そして一言「いいだろう、この仕事

受けなさい」と言った

「えっ!」という顔の専務に、「若い人がやる気になっているのだから

芽を摘むな!」と一喝した。

これでめでたくかずは、高浜の地で店舗兼住宅を持つことが出来たのだった

県道(まだ砂利道)に面して間口二間半、奥行き四間10坪の1階店舗

+トイレ+台所 2階は6畳二間の和室だけ、ここに夫婦と子供3人が寝る

建物の裏には買ったが手つかずの土地が10坪ほどある、その空き地に

ドラム缶の五右衛門風呂を置いてあった、まさに露天風呂であった

私は数回入った記憶があるが、母が入ったかは記憶にない

そして五右衛門風呂に入って、ソ連の人工衛星が星空の中を行く明かりを

見た記憶もかすかにある

井川かず、昭和32年5月、32歳にしてついに念願の店を開業したのだった

東京で食い詰め、この地に流れ着いて9年目であった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和30年 魚屋人生のはじまり

2019年12月23日 07時46分52秒 | 小説/詩

ここまで「父」「実父」などと書いてきたが、父も結婚して本当に

父になった、そのためややっこしくなってきたので、これからは

父を「かず」、実父を「徳二」と書くことにする

 

かずの風邪も治り、またいつものように働き始めた

けれど病の床で襲ってきた将来への不安はつのるばかりであった

これからの人生、仕事を考えるととても自分だけでは考えきれない

従兄弟の畑山太郎も話しの中でそれを察して、仕事をそれとなく

考えていてくれたのだ

一つは、東亞工業への工員としての働き口の話しだ、戦後10年も

過ぎて、日本経済は急速に回復をしている

建設ラッシュ、道路整備、自動車の生産などが都市部から始まり

建築資材などが主力の東亞工業はフル稼働となり、人手不足に

陥っていた、そのため容易に就職出来る状況なのだ

一部上場企業だから安定度は抜群で、田舎町では給料も中小の

会社より良い

もう一つは税務署の嘱託の仕事だった、こちらは嘱託とは言え

公務員待遇だという、これこそ安定度抜群の仕事である

しかし父は税務署の嘱託は諦めた、それは自分が小学校しか

でていないからであった、いかに頑張ろうとも学歴での劣性は

民間企業と違って(出世)という希望をもてない

ましてや経理もろくに知らないから税務署員になれるわけもない

学歴優先である事は確かで、いかに厚遇であれ一生嘱託で終わるだろう

それは安定があっても掃除やお茶くみで終わるのでは、少しも面白い人生では無い

、だから諦めた

そして東亞工業の話しも、結局自分の性格では勤まらないと思ったから

断った。

太郎の親切を断ったからには、残る道は今の仕事を極めるしか無い

しかし行商の将来を心配しているのだから、これから先は自分の

店舗をもって根の生えた商売にするしか無いのだ

「35歳までに店を持とう」初めて人生の目標を持ったのである

これまでは流れるままに流れて来た人生であった、世帯を持って

初めて目標が持てた、それは家族に対する責任感であった

 

かずが家を建てて間もなく、甲村が番頭をしていた近松市場が

同じ町の中にある竹丸市場の勢いに負けて廃業した

甲村は、その後自宅で魚屋を開業した、自宅は甲村の父が

臼職人で作業場になっていたのを改装したのだった

甲村と出会ってから、時々この家に遊びに行っていたのだが

昭和28年に亡くなった甲村の父から、木彫りの立派な将棋盤を

プレゼントしてもらった、それは甲村親子も、かずも将棋が好きで

よく対局して遊んだからだった

 

今日も夜を待って甲村の家に出かけた、すると甲村が

「自分は近松市場で働き、今はこうして魚屋になって今までの

競争相手だった竹丸市場で仕入をする羽目になったが、これも

時代というものだ、竹丸さんも、俺のことは客の一人として見る

だけで何のわだかまりも持っていない、これからは売る立場から

買う立場になって今までのように井川君の役に立たなくなってしまう

そこでだが、俺が話しをつけるから、これからはきみも竹丸市場で

魚を買えばいい」と言った

不安が無いと言えば嘘になるが、直接魚問屋から買えるという魅力の

方が勝っている、これもまた甲村のおかげなのだ、いったいこの人は

どこまで善人なのだろうか、人を騙してきた悪い自分の秤では量りきれない

人だと思った、またそこが危なっかしいとも思うのだが。

 

春になって、かずが平田村で商いをしているときだった

この村で代々村長をしてきた長左衛門という屋号の家の主が

「6月に我が家で仕舞い法事をするのだが、せっかく魚屋さんが

来てくれて居るのだから、刺身や蕎麦吸物を作ってもらえたらありがたい

どうだい頼めるかね?」

かずは、今日まで魚を料ったことは一度も無かった、それで

断ることも、受けることもせず二~三日返事を待ってほしいと言って

帰ってきた、そしてその足で甲村のところに行って相談した

甲村は「魚屋をやる以上、魚を捌けないようではダメだ、俺が教えるから

毎日、仕事が終わったら俺のところに来い」と言った

それで、長左衛門には「やります」と返事をしておいた

いよいよ甲村に包丁の研ぎ方から教えてもらった

「魚を切ることより、包丁の研ぎ方を覚えることだ、包丁が切れれば

魚なんか捌くのは簡単さ、いくら腕が良くても包丁が切れんかったら

ろくな刺身にならんよ」

包丁研ぎだけ1週間毎日やらされた、柳刃、たこきり包丁、出刃包丁

薄刃、小刀まで毎日研いだ

ようやく魚を料る段階になった、切り方の手本を見せてもらった

頭を切り落とす、腹を開いて内臓を取り除く、血合いをとって腹を

洗って掃除する

これからが難しい3枚おろしだ、魚の背から包丁を入れて、骨に沿って

包丁を滑らせていく、背骨の中心まで開いたら、今度は腹の下方から

包丁を入れて、また骨に沿って滑らす、最後に尾の方から包丁を

入れて頭にむかって包丁を背骨の頂点に沿って滑らすと、身が骨から

外れるここまで来れば焼き物、煮物、刺身、揚げ物の下ごしらえが

出来る、こんな調子でまた1週間やっていると東京で旋盤などを

扱って細かな作業をしていた指先の感が戻って来た、思った以上に

早く上達していくのがわかった、そして1ヶ月後には立派な刺身も

切れるようになった、それから焼き方や煮方まで習ったので、法事の

本番には長左衛門の人たちも驚く料理を作ったのであった。

これが後に店を開業してからの大いなるパワーとなるのであった。

更に、甲村宅に宮内庁で料理を作っていたという男がやってきて

暫く、ここで地元の魚屋数名に流行の料理などを教えてくれた

甲村の旧知の男だったのだ、そのとき甲村の人脈で集まった魚屋

の中に友だちとなる佐藤宏という男が居た

佐藤も同年配で、戦争では台湾航路の輸送船の船底でソナーの

担当をしていたという、何度も魚雷の通過音を聞いた生き残りであった

敗戦間近には本土から台湾や沖縄に向かう輸送船の半数がアメリカの

潜水艦群によって撃沈されたというから消耗率の高い命がけの航海

だったのだ。

竹丸市場への買い出し、いよいよこの町の個性溢れる魚屋たち

との新たな出会いが始まるのであった。

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 遭難の思い出

2019年12月22日 11時10分53秒 | 小説/詩

この町に流れて来て、一心不乱に働いてきた7年であった

結婚して、小さいが家も建て、様々な難問も乗り越えてきた

少し余裕が出来てきたせいなのだろうか風邪をひいた

寝込んでみて初めて自分の今日までを振り返ることが出来た

それと同時に、これからの心配も湧いてきた

 

右も左もわからぬ町で、似た年頃の従兄弟が何人も居たのは

東京での生活と大きく違うことだった、特に畑山太郎の存在は

大きい

仕事は親父(実父徳二)の怠け癖のおかげで魚と米を交換して

闇米を売るというサイクルを作った、それも甲村という親切な男との

出会いが幸運を呼んでくれたのだ、その影には腰越の伯母さんの

おかげもあった

しかし口で言えば簡単だが、実際はたいへんな苦労だったのだ

水城村の江口巡査の口を封じたあと、もっと稼ごうと考えた

建てたばかりの家の近くに澤田達也という青年が住んでいた

仕事はしていない、家で漫画ばかり書いている男だった、歳は18歳

父より10歳くらい若い、柔な男では無い、野心を秘めた表情をして

いる,目を見れば真面目に世の中を渡る男では無い事がうかがえた

達也は達也で父に同じような匂いを感じたのか「とおちゃん、とおちゃん」

と親しげに遊びに来るようになった

それで父は達也を山へ連れて行くことにした、自分よりも体格で

勝る達也は1.5倍も荷物を担いだ

この頃には、水城村から続く谷道の5つの村でもっとも人口が多い

朱雀村と平田村まで足を伸ばしていた

水城村まで自転車で行き、そこからは山道を5~6km魚を入れた缶を

背負って徒歩で行く

12月、年の瀬をひかえて正月魚を村の人たちは心待ちにしている

小正月頃には、この村は下界の町との交信が途絶えてしまう、豪雪が

降るからだ、多い年は5mも積もる、道は村内だけでせいぜい1km

ほど離れて居る隣村までしか雪踏み道しかない

自動車などこの村にはない、夏でも歩くか自転車でしか行けない村なのだ

そんな12月、既に積雪が2m近くあったが、まだ雪踏み道が通られる時で

あった、それでこれが今年最後ということで、いつもより多めに魚を

二人で担いで朱雀村まで上がった

この村は標高500m平家の落人伝説の村で、20戸の村の全てが宮平という姓であった

少し上がった森の中には立派な神社があり、それぞれの家も大きくて立派な

農家で豊かな暮らしをしている。

また1km下にある平田村は、家臣達が暮らした村と言われ家は30戸ほどある

ここには小学校があり、更に下の谷筋の中田村、下田村の合わせて80戸の

子供達も通っている

平田村で商いをして米を担ぎ下山をはじめたのは夕方4時頃だった

冬至の頃だから、もうあたりはすっかり暗くなり始めていた

村の者が今夜は雪が降りそうだから泊まっていけと言ったが、若くもあり

「雪くらい」という自信もあったから、「大丈夫」と歩き出したのだ

ところが30分も下ったところで雪が崩れていて道が埋まっていて通れない

今さら村まで上って行くのもたいへんだし、杉林の間から遥か遠くに明かりが

ちらちら見えるのは水城村と見当をつけて、道無き道を雪に埋まりながら

歩き出した、そのうちに雪が降り出した

吹雪で無いのが救いであったが、帽子にはたちまち大粒のぼた雪が積もり

目に垂れてくる、体は逆に汗ばんで熱くなったが、それが冷えてくる

水城村の明かりももう見えるどころでは無く、数m先がかすむ

提灯の明かりだけが頼りだが消えてしまえば万事休す

重い荷を担いでいる達也が先に音を上げた、雪の上に座り込んだ、

「とおちゃん、少し休みたい」

しかし休むと一気に寒さが体を覆ってくる,すぐに立ち上がって歩き

出すが、意気地が無くなると足ももつれてきて、転ぶことも多くなって

きた、平坦な道では無い山道なのだから

とうとう達也は座ったまま立てなくなった、「頑張れ!この林を越えれば

村に着く、あと少しだ」父が叱咤するが、もう完全に気力が失せている

このままでは凍死してしまう、初めて「遭難」という言葉が頭をよぎった

父は立ったまま達也の様子を見ているが、なすすべがない

「腹減った、腹減った」うわごとのように達也が言う、父もその言葉を

聞いたとたん空腹を感じた、同時に自分もまた急に脱力感に襲われて

座り込んでしまった

しばらく座り込んでいると寒さで歯がカチカチと鳴りだした

雪は小降りになってきた、だが歩く元気が無い

達也がまた「腹減った」と言った、その時、急にひらめいた

「達也、荷を下ろせ」 背中の缶を下ろした、蓋を開けるとそれは当然

ながら米であった、「達也食べろ」生米を食べさせた、自分も食べた

餓鬼のようにボリボリ食べた、すると不思議なことに腹が膨れると

力がみなぎってきた、それは達也も同じだった、元気が回復した頃

雪が止み十八夜の月がおぼろげに現れて微かに明るくなった

再び歩き始めて30分も経たないうちに水城村の上手に出た

こうして二人は無事に帰宅したのだった

そんなこともあった、床の中で思い出していたのだ

これからは3人の子供も大きくなっていく、家も手狭になるし自分の

体も、いつまでも山の行商を続けるだけの体力が無くなるだろう

「ここが考えどこだ」と思う、少し気弱になった父だった

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和25年~30年 この頃の暮らし

2019年12月20日 20時38分48秒 | 小説/詩

家を新築したなどと言えば、現代風の新築を考えるだろう

しかし昭和25年の我が家はお金が足りないから、新築とは言え

廃材や、古材で外壁を囲い、屋根や庇などは皮付きの杉板張りで

瓦など無く、浜風で飛ばされないように浜の石を拾ってきて屋根の

重しにしているのだ

 

この頃、太平洋戦争敗戦後の食糧不足で国が米などを管理統制して

国民に分配配給する食管法の施行により、国民の食糧事情は深刻だった

配給される米だけで生きていくのが無理なのは誰にでもわかった

田舎の食料生産者は、それなりの蓄えなどがあったり、自給自足分が

あるのでそれほど苦しい状況では無かったようだ

そんな余剰分を求めて都市部の人たちは、お金や高級品などと交換に

米や野菜をもらって不足分を補った

しかし、それは違法行為だったので警察は駅などで張り込んで、そうした

田舎から持ってきた食料を没収したのだった

そんな時代を象徴する2つの事件があった

一つは昭和20年~21年にかけての小平事件、田舎が不案内な買い出しの

(主に主婦)を良い農家を紹介すると巧みに騙して強姦殺人強盗を繰り返した

事件

もう一つは昭和22年の山口判事餓死事件,山口判事は闇米で検挙された

者を裁く担当者だった、そのため自分は裁く立場だからと闇で流通する

食料を一切買わず、飢える家族に自分の分を食べさせていた・・・結果

自分は餓死してしまったという事件

 

このように闇米無しでは誰も生きられなかったから,父の闇米販売は

必要悪だったのだ

そして今まで以上に闇米の扱いが必要になった父は、自転車で運んだ

ために、またしても駐在に捕まって、ようやく運んできた米を全て没収

されてしまった、これで二度目だった

その米だってなけなしの金で買った魚を10kmも先の山の中まで自転車と

徒歩で半日かけて行き、物々交換で手に入れた貴重な米だった

情けないこと悔しいこと、しかし官憲に逆らうのは国家に逆らうことと

兵隊を経験した父は嫌と言うほどわかっている、なくなく渡したのであった

そかし、こんなことでくじけてこの商売を辞めたら、明日から女房子供が

飢えてしまう、わかっているがやるしかないのだ

そして又翌々日も同じように米を担ぎ水城村の親戚まで下りてきて、

そこで自転車に積み込んで家路に就いた

幸い駐在はどこかに出ているのか居なかった、これはうまくいったと

自転車のペダルも軽く走っていた、すると「おーい おーい」と遠くで

声が聞こえる、振り向くと川の反対側を駐在が走っているではないか

「止まれ! こら!」と叫んでいる

現行犯で無ければ何とかなると思って必死で走るが、重い米を

積んだ自転車と軽装の警官では勝負にならず、下の橋で、とうとう

追いつかれて捕まってしまった、なんと執念深いことか

この警官、江口と言って年齢は父より若い,この土地のものではない、

だから非情だ、ただし住んでいるのはこの町である

「没収だ、おまえは一昨日も捕まっているのに又やるとは悪質だ

この次は逮捕するぞ」と高飛車に言った

我慢していた父のかんしゃく玉がとうとう破裂した、江口が所帯持ちで

あることは知っていた、当然彼も家族も生きていく上で闇米を食べている

ことは間違いない、さもなければ山口判事と同じになる

父はそこをついた、啖呵を切るのは東京の闇市仕込みだ

「おい」と静かに言った

「いい加減にしろ」とも言った

「あんたも闇米を食べていることはわかっている」

「・・・・何を言うか!」

「食べていないと言うんだな、それなら全部没収しろ、おれは今日から

この仕事を辞める」

「それはけっこう!」

「そうすれば暇になるから、朝から夜中までずっと、あんたの家の前に

張り付いて、闇米一粒でも家族が手にしないか見張っている!

もし一粒でも闇のものを手にれたら警察に・・いや世間に訴える」

江口巡査は、しばらく何も言わず・・・・・・・・そして

「行け!」と言って、自転車に乗って戻って行った

危ない賭けに勝ったのだった,それ以来、江口とすれ違うことが

あっても停められることは無くなったのだそうだ

世の中もだんだん明るくなり経済も回り始めた、暮らしも

少しずつ向上してきた、背広の一枚も買ってダンディズムを気取る

ことも出来るようになった

東京の時代から、着る物にはいささかうるさい男だったのだ

「安物10枚買うより良い物一枚買う方がずっといい」と言っていた

昭和27年には長女が誕生して「由希子」と名付けた、あの調布の彼女

遠野の女房になった由希子の名前をつけたのだ、勿論、妻のみつこには

内緒であった

妹が産まれた頃から長男の陽一の疳の虫(カンノムシ)が騒ぎはじめた

母と銭湯に行くと、脱衣所で寝ている赤ちゃんに噛みつく、目を離すと

頭から湯船に落ちてしまう、二歳というのに凶暴なのだ

とうとう銭湯は父が連れて男湯に入ることになった

 

この頃の父の神仏信仰に関するエピソードがある

昨日も書いたとおり、この家には仏壇も神棚も無かった、それは3月10日の

浅草寺の一件が尾を引いているのだが・・・・

これに意見したのが、この家を建ててくれた大工の安木さんだった

いくら信心が無くても、仏壇と神棚を祀るのは人の道だし、常識だ

ととくけれど、父は頑として受け入れない

すると安木棟梁は「祭りになると魚は売れるだろ」と言った

勿論と父が言うと、「そうだろ、祭りは神様を祀る行事だ、神様のおかげで

商売が繁盛する、これは信心と関係ない、関係ないが儲けさせてもらって

いる、それなら神棚に神さんを祀ってもバチは当たるまい」

なるほどな理屈だ・・・・・が・・・ふ~m

「先祖は信仰とは関係ない、あんたが今ここにあるのは先祖のおかげだ

そして子供が出来て続いて行く、仏壇にむかっていると不思議と心が

鎮まるもんだ、仏壇は人の道だよ、忘れてはいけない」

などと、とうとうと説くものだから、なにやら言いくるめられた気がするが

小さな神棚と仏壇を買ったのだった

ところが、その仏壇の扉を息子がめちゃめちゃに壊してしまった

さすがに頭にきて頭をいくつか叩いて、押し入れに閉じ込めたら

わーわー叫んで、足で押し入れの襖まで蹴破った、なんともカンノムシ

の強い長男である、まだ四歳だ、殴っても殴ってもまた暴れる

癇が強い子ほど寝小便もたれるから、夜中に尻っぺたを叩く、もう

根比べである、そして昭和30年には次男も誕生した

2月であった、すると間もなく父は風邪をひい寝込んでしまった

この町に来て,既に7年になっていたが風邪をひいたのは初めて

であった、高熱が出て3日経って、ようやく熱が下がりはじめた

この風邪引きが父の人生の転換の引き金となるのだった

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和24年~25年 家を建てる

2019年12月18日 10時08分13秒 | 小説/詩

昭和24年の夏が終わる頃、みつこの妊娠が確かなものになった

父は喜んだけれど、新たな大問題が起こった

前回書いたように、家主の婆さんが「子供ができたら出て行ってくれ」と言った

とにかく子供が生まれるまでに新たな住まいが必要になったのだ

父の頭の中には、もう借家という選択はない、小さなものであっても自分の家を

建てるのだという信念をもった

それで早速、甲村さんに相談をした、甲村さんは自分と親しい大工の棟梁を

紹介してくれた、安木さんという60過ぎの人だった

さっそく予算の相談をしてみたら持ち金は、総予算の半分しか無かった

「棟梁、なんとかならんですか?」泣きつくように頼んだら

「それじゃ部屋は二間だけで我慢しろ、二階建ては無理だから平屋、それでも

足りないから、足りない分は労働奉仕だ、俺の仕事を手伝え」

言い方はキツいけれど、最大の譲歩をしてくれたのだ、これも甲村さんの顔が

あればこそであった

この話を太郎に話すと、「そんなことなら俺たちも非番のときに交代で手伝うぞ」

と言ってくれて、従兄弟たちが交代で来てくれた

手伝い仕事というのは、家を建てる場所が海に近いので、海岸から家の土台に

なる平たい石をたくさん拾ってくることだった

それと海に流れ着く木材や木の中から、資材として使えそうなものを運んで

来ることであった

年が明けて昭和25年になり3月になると、みつこの実家、高木家の嫁も

妊娠四ヶ月であることがわかった

それで嫁は実家に戻って初子の出産に備えることになり、入れ替わりで

みつこが実家の高木家に子を産みに行った

行く前に父は「帰ってきたら家が出来ているから安心して産んでこい」と

励ました

そして完成した家は自転車を収納出来る広さの玄関、そのまま進むと

かまどと水盤がある炊事場、玄関の左手に便所(当時、トイレなどと言う

ものはこの地方には居なかった・・・と思う)

玄関から上がると、板張りの8畳の居間で真ん中に囲炉裏が切ってあり

五徳が置いてある、上からは鉄瓶を吊す鈎が下がっている

家財道具といえば棚に置かれたラジオだけだ、神棚も仏壇も無い

ミカン箱にお札が貼ってある、嫁入り道具のタンスの上に位牌が置いてある

いくら無神論者でもちょっとひどい様子だ、だが父はいっこうに気にしていない

この居間の向こうは小豆色の襖(ふすま)で奥が寝間になっている

そこは畳が敷いてあって広さは8畳だった、部屋の北側は海の方向で障子窓が

あって、夏などは窓を開けると潮の香りがしたものだった

この家が完成したとき、すぐ裏手(海側)には二軒すでに家が建っていた

すぐ裏は新築したばかりの畑山次郎の家、その裏、もっとも海に近い家は

佐藤さんという家族4人が暮らす家だった

水道は当時、各家には無く近所10件ほどの共同井戸があった、それは

つるべ井戸では無く、長い取っ手がついた水あげポンプだった

個人の家庭では家の中に深い井戸を持つ家もかなりの数あったらしい

それから10年も経たないうちに町の大部分に水道が入る

 

佐藤さんの家が海岸砂浜の最も高いところで「ママ坂」という名前がついている

そこから50m以上下り坂になった砂浜が海に向かって延びていて

そこから10mほど石原になっている、手前ほど大きな石があり、海に近づくにつれて

石は小さくなっていく、波との接点では砂利になっていた

そして砂浜の左手を見ると、そこは漁師の舟あげ場で電信柱のような丸太(コロ)が

上に向かって並び、その先に船小屋がある

船小屋はやはり海岸から50m程も離れて居る、船あげは海岸から10本ほどの

コロを定間隔で並べて太いロープを船と船小屋の前にある木製の取っ手の長さ2m

程の十文字の回転巻き上げ具を4人の人間が押して、船をコロの上を滑らせて

船小屋まで引き上げるのだ

なぜ、こんなに船小屋が遠いのかというと、海が荒れると度々高波が発生するから

だった。

さらに左を見ると、浜一面に高さ1m程の木枠の上に竹製の簾が幾十も並び

そこにはイワシやギス、アジ、イカの干物を天日干しで作っているのだ

この町はこんな様に漁業が盛んな町であった、20km程の海岸線上に漁港が

7つもあり、その昔には漁師同士の流血の縄張り争いもあったと伝えられている

漁師、魚屋、四十物師、魚市場、そして北陸線の南は一面の水田で米作りも

盛んである

ついでに言えば、この町は海岸に沿って走る国道八号線沿い、即ち東か西に

しか隣町に繋がっていない、しかもどっちへ行っても50kmは同程度以上の町が

なく、悪く言えば孤立した町、よく言えば自立経済の町と言える

だから少ない人口の割には商業も盛んであった、また江戸時代には商業港でも

あったので土地の人間が閉鎖的では無い

花街も二カ所あって夜になれば芸者が行き交い、三味線の音も聞こえてくる

賑やかな町なのだ

また小藩とは言え城下町だったので藩庁があった山の手の方は道が入り組み

鉄砲鍛冶や刀鍛冶の町並みにはそのままの地名が受け継がれている

 

 閑話休題

 

たった二間の家だが親子三人の家族の門出であった

5月になってついに長男が産まれた、私である(仮名 井川陽一)の誕生である

体重は3600gで町が主催する赤ちゃんコンクールで堂々の3位になった

父母はもちろんだが、陽一が生まれて一番喜んだのはみつこの母、高木トエ

であった、家は井川の家からバスで停留所15カ所も先の町であるが,毎週の

ようにやってきて、陽一をあやしてくれた

これで万事めでたしかといえば、父の心はここで止まらない

これからまだ子供が生まれるだろうし、間違いなく成長していく

そうすれば家も手狭になるし、居間の稼ぎでは生活も困窮していくだろう

もっともっと稼がなければならないと思った、しかし稼ぐ手段はいまのところ

この魚を売って米に替えて、町で売りさばくという方法しか無い

それでは稼ぎが少なすぎる、もっとたくさん売らなければならない

たくさん売るには、たくさん運ぶしか無い、しかしそれだと隠れ道の山の中の

古道を歩いて行くのは無理だった

どうしても広く平らな県道を自転車で運ぶしか無い、だが水城村の駐在が

目を光らせて居る。・・・・・・どうしたものか!

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和23年秋~24年春 結婚

2019年12月17日 08時33分40秒 | 小説/詩

山間部集落での魚売りは一応うまくいっている

調布や新宿でやっていたヤクザな物売りから見たら、田舎の善良な

農家の母ちゃんたちに売り込むのはたやすい

持ち前の切れ味のある口上と、性格とは裏腹の明るいキャラ、そして当時の

人気歌手灰田勝彦に似た風貌で、田舎の母ちゃんたちの人気者になった

季節も夏から秋に変わりつつある

この杉林集落での販売は珍しい事もあってよく売れたが、この頃は慣れたのも

あり、少しずつ売れ行きが落ちてきた

それで毎日同じところに売りに来てもダメだと言うことに気づいた

東京は人が多いから客の方で入れ替わるが、人口の少ない田舎では

売る方が場所を変えるしかない、それで徳二と売って歩いた集落「水城集落」の

親戚に聞いてみた

するとこの集落から杉林集落とは反対の方向の水城川に沿った谷道を上って

いけば5㎞ほどの間に5つ集落があるそうだ

特に奥の高いところにある3つの集落は人口も多く小学校、中学校もあるのだという

そこは遠すぎて魚屋は行っていないはずだと言った

(これは行くしかないな)と父は思った

いつまでも母屋の小屋で暮らしているわけにはいかないと思う、そろそろそこを出て

部屋の間借りでもして暮らそう、不動産屋に聞いたらいくつか相応の物件があった

まずは家賃と食い扶持を稼ぐ必要がある、今以上の稼ぎが必要なのだ

そこで思いついたのは調布での商売だった、今は魚を売って現金をもらっているが

インフレは続き、こんな稼ぎでは間に合わない

相手は農家ばかりだ、現金でなく米でもらって、米不足の町中で売れば何倍も

稼ぐことができる、そう思った

そうなるとやはりこの街道の中心にある水城集落の駐在がネックになる、一度米を

もらって、そこで駐在に見つかって没収された苦い経験がある

買い出しに行く町の者に聞いたら、山の中に古道があって、そこを行けば水城を

まいて行くので、ほぼ駐在に捕まることはないという

それでやってみたら、うまくいった、しばらくはこのようにして杉林集落と水城川沿いの

下の2つの集落へ交互に行って売って歩いたのだった

こうして少しずつ貯金もできてきた、それでようやく趣味ということに頭がいくようになり

6×6判の二眼レフカメラを買った

上から覗くと磨りガラスの画面に映像が逆さに移っている、頼りなげな棒シャッターを

親指の端で持ち上げ、下げるとカチッと小さな音がして一枚終わり

丸いフィルム送りをまわして次のフィルムを準備する

今と違い白黒のアナログカメラだが、楽しみができて嬉しかった

そして同じ頃、ついに母屋の小屋から、町の中心に近い場所で間借りした

やっと自分の手で自分の住まいを得たのだった

生活も、そこそこ安定した、そんなとき畑山太郎の弟が結婚した、22歳だった

その祝言の末席に父も招待された、祝言が終わってから太郎が父に言った

「井川君、今度はきみの番だぞ、おれが嫁さんを紹介してやるから待ってろ」

そして11月、なんと本当に花嫁候補を見つけてきて写真を見せた

東亞工業の同僚の妹で、「高木みつこ」だと言った、歳は父より半年遅れの

23歳だという、戦前には東京の麻布で良家の女中をしていたから礼儀作法は

間違いない、と言った

「礼儀作法」と聞いておかしかった、魚屋のおれに礼儀作法・・・ふふふ

笑いをこらえた・・・自分だけでなく、太郎にも、この町の人間にも礼儀作法

なんて言葉は似合わないと思った

ともあれ大安の日に、父と高木みつこ(私の母になる)は、お見合いをした

仲人として、紹介した畑山太郎が付き添い、先方は、みつこの母と兄夫婦が

来た

みつこの母は50歳を少し超えていたが子供の時から勉強が嫌いで

小学校を卒業するかしないかくらいで、上州の神保原へ行って紡績の仕事に

就いた、世間慣れしていて面白い人であった、初対面のこの日も

父と太郎が、従兄弟同士なだけに顔つきが似ていて歳も同じだから

「さて、どちらが婿さんでしょうか?」と言って笑わせた

みつこの父は二年前に病気で他界したそうだ、兄夫婦は半年前に結婚した

ばかりで、みつこの結婚は早すぎると兄は言ったが、みつこの母が

「良いことは続いてもよい」と言って反対しなかった

ついでに言えば、見合いの後、みつこの兄(高木賢二)は「みつや・・相手は

闇屋だぞ、大丈夫か? おれは気乗りしないが」と言ったらしい

それをみつこの母、(高木トエ)が「そんなことはない、あの男はいい男だ

今は貧乏でも、おれは見込みがあると思う」と言って、結婚に賛成した

そして年明けの昭和24年3月に母屋の座敷を借りて祝言をおこなった

列席者は15人ほどの質素な結婚式であった

住まいはとりあえず父の下宿先であった、下宿の1階の土間で母は御飯を

作ったそうだ

下宿のばあさんは未亡人でヒステリックだった、祝いを言うかと思ったら

「子供ができたら出て行ってもらうからね、子供はうるさくて嫌いだ」

と叫んだ

これを聞いた父の頭の中では(急いで家を建てなけりゃならないな)という

思いがよぎった。