○毛利敏彦『幕末維新と佐賀藩:日本西洋化の原点』(中公新書) 中央公論新社 2008.7
佐賀・長崎旅行に行ってきたので、両県にかかわる本を1冊ずつ。まず佐賀から。本書カバーの折込みに「明治維新の原動力となった『薩長土肥』の雄藩だが、肥前=佐賀藩の影は薄い」とある。確かに、確かに。幕末維新の歴史を読んでいると、肥前=佐賀藩出身者は、いぶし銀のバイプレーヤーとして登場するが、いずれも最後まで主役の座にのぼることはできなかった。その、ちょっと損をしている感じが、私は嫌いではない。本書は、幕末の開明的藩主・鍋島閑叟(直正、1815-1871)と、初代司法卿・江藤新平(1834-1874)の両名に焦点をあて、幕末~明治初期の政治体制史の一面を描き出している。
記述は、文化5年(1808)のフェートン号事件(イギリス軍艦が長崎港に侵入→オランダ人商館員を拉致連行)から始まる。長崎奉行の松平康英は責任をとって切腹自殺を遂げ、遺書には「長崎御番」佐賀藩への抗議を残した。お~このあたり、長崎歴史文化博物館の展示で、学習したばかりなので、よく分かる。その結果、佐賀藩主第9代・鍋島斉直は百日間の逼塞を命じられ、「佐賀藩の人士は、対外問題の厳しさ難しさを嫌というほど痛感」させられたという。直後の天保元年(1830)、藩主の座に就いた第10代鍋島直正(閑叟)は、前代・斉直の浪費三昧で傾いた藩の財政を立て直すため、大胆な藩政改革に取り組まなければならなかった。いつの時代でも、英明なリーダーは危機の中から現われてくる。
それにしても、閑叟の特異な点は、西洋文明に対する「抵抗感の無さ」である。オランダ船に乗ってみるわ、息子や娘に種痘を施すわ、書物や思考だけでなく、身体感覚のレベルで西洋文明に適応しているところが面白い。閑叟の教育係だった古賀穀堂の影響なのだろうか。穀堂は儒学者でありながら、自然科学・政治・経済に関する蘭学の有用性を評価し「(肥前藩の経営について)蘭学の人なくて叶わぬことなり」と説いているそうだ。好きだなあ、この実用・実際主義。
江藤新平の実際主義は、さらに徹底している。私は江藤といえば「司法卿」のイメージしかなかったので、文部省の初代責任者(文部大輔)だったことは、本書で初めて知った。明治初年、文教官庁と最高学府を兼ねて設けられた「大学校→大学」が、国学・漢学・洋学の派閥争いで機能不全に陥ったところを救ったのが江藤だという。江藤は行政官庁として「文部省」の新設を提言し、大学の教育内容を「道学」と「芸学」に分け、「芸学(諸科学)は西洋諸国にて開たり、因て西洋の丸写しにて施行すべきなり」と言い切ってしまう。「西洋の丸写し」って…唖然とするほど大胆だ。難解な漢語を嫌い、平易な文章・文字の使用を奨励した江藤ならではの表現だが、実態はそうであっても、面子だの伝統だのを気にしてしまうと、なかなか口にできない発言だと思う。まして最高責任者の立場で!
ちなみに江藤の文部省在籍は17日間に過ぎず、その後は同郷の大木喬任が引き継いだ。日本の文部行政(特に高等教育)の基盤づくりに、佐賀人脈の果たした役割は大きいのだなあ。思えば、開成学校の教師→大学南校の教頭(どちらも東京大学の前身)として、多くの学生に慕われたフルベッキも、致遠館(佐賀藩が長崎に建てた英学塾)で教鞭を取った人物だし。
江藤の失脚→佐賀の乱の引き金となった「明治六年政変」について、著者は一部通説と異なる見解を持っており、詳述されている。私は不勉強なので、その妥当性については判断できない。結論をきわめて単純化すると、大久保利通が「異常なまでに佐賀征伐にのめり込んでいた」理由は、「大久保が江藤に対する強烈な嫉妬心に囚われていたから」だということになる。本当かなあ、どうなんだろう。
佐賀・長崎旅行に行ってきたので、両県にかかわる本を1冊ずつ。まず佐賀から。本書カバーの折込みに「明治維新の原動力となった『薩長土肥』の雄藩だが、肥前=佐賀藩の影は薄い」とある。確かに、確かに。幕末維新の歴史を読んでいると、肥前=佐賀藩出身者は、いぶし銀のバイプレーヤーとして登場するが、いずれも最後まで主役の座にのぼることはできなかった。その、ちょっと損をしている感じが、私は嫌いではない。本書は、幕末の開明的藩主・鍋島閑叟(直正、1815-1871)と、初代司法卿・江藤新平(1834-1874)の両名に焦点をあて、幕末~明治初期の政治体制史の一面を描き出している。
記述は、文化5年(1808)のフェートン号事件(イギリス軍艦が長崎港に侵入→オランダ人商館員を拉致連行)から始まる。長崎奉行の松平康英は責任をとって切腹自殺を遂げ、遺書には「長崎御番」佐賀藩への抗議を残した。お~このあたり、長崎歴史文化博物館の展示で、学習したばかりなので、よく分かる。その結果、佐賀藩主第9代・鍋島斉直は百日間の逼塞を命じられ、「佐賀藩の人士は、対外問題の厳しさ難しさを嫌というほど痛感」させられたという。直後の天保元年(1830)、藩主の座に就いた第10代鍋島直正(閑叟)は、前代・斉直の浪費三昧で傾いた藩の財政を立て直すため、大胆な藩政改革に取り組まなければならなかった。いつの時代でも、英明なリーダーは危機の中から現われてくる。
それにしても、閑叟の特異な点は、西洋文明に対する「抵抗感の無さ」である。オランダ船に乗ってみるわ、息子や娘に種痘を施すわ、書物や思考だけでなく、身体感覚のレベルで西洋文明に適応しているところが面白い。閑叟の教育係だった古賀穀堂の影響なのだろうか。穀堂は儒学者でありながら、自然科学・政治・経済に関する蘭学の有用性を評価し「(肥前藩の経営について)蘭学の人なくて叶わぬことなり」と説いているそうだ。好きだなあ、この実用・実際主義。
江藤新平の実際主義は、さらに徹底している。私は江藤といえば「司法卿」のイメージしかなかったので、文部省の初代責任者(文部大輔)だったことは、本書で初めて知った。明治初年、文教官庁と最高学府を兼ねて設けられた「大学校→大学」が、国学・漢学・洋学の派閥争いで機能不全に陥ったところを救ったのが江藤だという。江藤は行政官庁として「文部省」の新設を提言し、大学の教育内容を「道学」と「芸学」に分け、「芸学(諸科学)は西洋諸国にて開たり、因て西洋の丸写しにて施行すべきなり」と言い切ってしまう。「西洋の丸写し」って…唖然とするほど大胆だ。難解な漢語を嫌い、平易な文章・文字の使用を奨励した江藤ならではの表現だが、実態はそうであっても、面子だの伝統だのを気にしてしまうと、なかなか口にできない発言だと思う。まして最高責任者の立場で!
ちなみに江藤の文部省在籍は17日間に過ぎず、その後は同郷の大木喬任が引き継いだ。日本の文部行政(特に高等教育)の基盤づくりに、佐賀人脈の果たした役割は大きいのだなあ。思えば、開成学校の教師→大学南校の教頭(どちらも東京大学の前身)として、多くの学生に慕われたフルベッキも、致遠館(佐賀藩が長崎に建てた英学塾)で教鞭を取った人物だし。
江藤の失脚→佐賀の乱の引き金となった「明治六年政変」について、著者は一部通説と異なる見解を持っており、詳述されている。私は不勉強なので、その妥当性については判断できない。結論をきわめて単純化すると、大久保利通が「異常なまでに佐賀征伐にのめり込んでいた」理由は、「大久保が江藤に対する強烈な嫉妬心に囚われていたから」だということになる。本当かなあ、どうなんだろう。