○ジャ・ジャンクー(賈樟柯)監督・脚本 映画『世界』(シネマート六本木、ジャ・ジャンクー特集上映)
『長江哀歌』『四川のうた』で、すっかり日本でも有名になったジャ・ジャンクーの監督作品。見たい見たいと思っていたこの映画を、ようやく見ることができた。舞台は、北京郊外のテーマパーク「世界公園」。エッフェル塔やピラミッドなど、世界各国のモニュメントが再現され、併設の劇場では、民族衣装のダンサーたちのショーが催されている。華やかな舞台の裏側で、愛したり、裏切ったり、金と夢を追いかけ、希望と絶望を繰り返して生きる人々。そこには、現代中国の、最も普通の人々の姿がある。
冒頭、女主人公でダンサーのタオは「誰有創口貼(シュエイヨウツァンコウティエ~)?=誰か絆創膏持ってない?」と呼ばわりながら登場する。何度も何度も、歌うように語尾を引き延ばして、同じフレーズを繰り返すタオ。字幕の日本語は「バンドエイドない?」だが、「創口貼」(傷口に貼るもの)という、即物的な中国語の名詞のほうが、この映画には似つかわしい。誰もが、ひりひりと痛む傷口に、一時しのぎのバンドエイドを貼り替えながら、生きている。そんな映画のテーマが示されているのではないか。
人身売買同然に北京に連れてこられた、ロシア人の同僚ダンサーたち。心を通い合わせたアンナは、金のために、望まない水商売の世界に去っていく。恋人のタイシェンに身をまかせるタオ。豊かで自由な生活への憧れから、双方の心にしのびよる裏切り。工事現場で事故に遭い、わずかな借金を気に病みながら命を落とす、友人の弟。物語は、終始抑制されたトーンで淡々と進む。この映画では、夜の光景が多用されている。安っぽい作りもののテーマパークも、ほこりっぽい建設現場も、夜の闇の中では、優しく温かく感じられるのが不思議だった。闇の中で、蜘蛛の糸のように細々と、孤独な彼らを結びつけるのは携帯電話。夢と憧れを乗せていくのは、乗ったことのない飛行機である。
ネタバレになるけど――最後は、一酸化炭素中毒のタオとタイシェンが発見され、早朝の雪の上に並んで寝かされた状態で終わる。ネット上のレビューをいくつか読んでみると、この中毒を「自殺」と見る人と「不慮の事故」と見る人がいるようだ(描写は両義的である)。私は、2人が無意識裡に望んだ自殺のように思った。論理的には説明のつかない自殺だけど、彼らの、あなぐらに追いつめられた小動物のような閉塞感を思えば、理解できないこともない。そして、この「閉塞感」は、たぶん今の中国という国に生きる、恐ろしく多数の人々に共有されている感情だと思う。中国映画には、いろいろな才能がいるけれど、この国の「現在」の証言者・記録者として、彼ほど貴重な映画監督は他にいないんじゃないかと思う。
ラストシーン、雪の上でピクリとも動かない2人の姿に「俺たち、死んだのか?」「いいえ、新しい始まりよ」という会話の声がかぶる。なので「2人は助かったらしい」と書いているレビューもあったが、私は、あれは死者の声ではないかと思う。分からないのは、この会話のニュアンスだ。日本語の字幕だと希望があるように感じられるが、「没有。剛剛開始了(いいえ、まだ始まったばかりよ/やっと始まりよ)」というタオの言葉は、希望なのかなあ、むしろ絶望なのかなあ…。解釈に迷う。
『長江哀歌』『四川のうた』で、すっかり日本でも有名になったジャ・ジャンクーの監督作品。見たい見たいと思っていたこの映画を、ようやく見ることができた。舞台は、北京郊外のテーマパーク「世界公園」。エッフェル塔やピラミッドなど、世界各国のモニュメントが再現され、併設の劇場では、民族衣装のダンサーたちのショーが催されている。華やかな舞台の裏側で、愛したり、裏切ったり、金と夢を追いかけ、希望と絶望を繰り返して生きる人々。そこには、現代中国の、最も普通の人々の姿がある。
冒頭、女主人公でダンサーのタオは「誰有創口貼(シュエイヨウツァンコウティエ~)?=誰か絆創膏持ってない?」と呼ばわりながら登場する。何度も何度も、歌うように語尾を引き延ばして、同じフレーズを繰り返すタオ。字幕の日本語は「バンドエイドない?」だが、「創口貼」(傷口に貼るもの)という、即物的な中国語の名詞のほうが、この映画には似つかわしい。誰もが、ひりひりと痛む傷口に、一時しのぎのバンドエイドを貼り替えながら、生きている。そんな映画のテーマが示されているのではないか。
人身売買同然に北京に連れてこられた、ロシア人の同僚ダンサーたち。心を通い合わせたアンナは、金のために、望まない水商売の世界に去っていく。恋人のタイシェンに身をまかせるタオ。豊かで自由な生活への憧れから、双方の心にしのびよる裏切り。工事現場で事故に遭い、わずかな借金を気に病みながら命を落とす、友人の弟。物語は、終始抑制されたトーンで淡々と進む。この映画では、夜の光景が多用されている。安っぽい作りもののテーマパークも、ほこりっぽい建設現場も、夜の闇の中では、優しく温かく感じられるのが不思議だった。闇の中で、蜘蛛の糸のように細々と、孤独な彼らを結びつけるのは携帯電話。夢と憧れを乗せていくのは、乗ったことのない飛行機である。
ネタバレになるけど――最後は、一酸化炭素中毒のタオとタイシェンが発見され、早朝の雪の上に並んで寝かされた状態で終わる。ネット上のレビューをいくつか読んでみると、この中毒を「自殺」と見る人と「不慮の事故」と見る人がいるようだ(描写は両義的である)。私は、2人が無意識裡に望んだ自殺のように思った。論理的には説明のつかない自殺だけど、彼らの、あなぐらに追いつめられた小動物のような閉塞感を思えば、理解できないこともない。そして、この「閉塞感」は、たぶん今の中国という国に生きる、恐ろしく多数の人々に共有されている感情だと思う。中国映画には、いろいろな才能がいるけれど、この国の「現在」の証言者・記録者として、彼ほど貴重な映画監督は他にいないんじゃないかと思う。
ラストシーン、雪の上でピクリとも動かない2人の姿に「俺たち、死んだのか?」「いいえ、新しい始まりよ」という会話の声がかぶる。なので「2人は助かったらしい」と書いているレビューもあったが、私は、あれは死者の声ではないかと思う。分からないのは、この会話のニュアンスだ。日本語の字幕だと希望があるように感じられるが、「没有。剛剛開始了(いいえ、まだ始まったばかりよ/やっと始まりよ)」というタオの言葉は、希望なのかなあ、むしろ絶望なのかなあ…。解釈に迷う。