○鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史1945~1980年』(岩波現代文庫) 岩波書店 2001.4
今年は『1968』や『戦後日本スタディーズ』で、べ平連の活動について知ることが多かったので、あらためて鶴見俊輔を読んでみようと思った。本書は、カナダのマッギル大学で著者が1980年1月から3月にかけておこなった講義を底本にしたものである。
冒頭の2編は、連合国(実質的には米国)による占領(1945-1952)が、日本に与えた影響について論ずる。初編は、占領軍の対日政策をおおまかに追いながら、戦前と戦後の日本で、変ったものと変わらなかったものを拾い出す。占領は、日本人の風俗、ライフスタイル、とくに男女のつきあい方を大きく変えた、と著者はいう(ほんとかな?)。けれども、米国政府が日本に植えつけようとした「新しい正義の感覚」は、敗戦国民として公然と批判することはないとしても「心から受け入れるというふうであったかどうかは疑わしい」という。良し悪しは別として、そうだろうな、と思う。
第2編では、この「正義の感覚」の問題を、戦争裁判にしぼって論じる。「戦争裁判は、避けることのできない自然の災害であるかのように受け入れられました」(ただし)「裁判官たちが主張した正義の基準がそのまま正義の基準として日本国民に受け入れられたということではありません」というのは、身もフタもない表現だが、真実を穿っていると思う。受け入れがたい事象を「自然の災害」として受け入れるというのは、日本人の習い性である。「災害」に襲われた人々は、不運であったかもしれない。愚かであったかもしれない。その曖昧な庶民の感情を、著者は取り出そうとしている。でも、講義を聞いたカナダの大学生たちは、どこまで理解できたかしら。
そのあとは、戦後日本の個別風俗に立ち入り、「漫画」「寄席」「大河ドラマ」「連続テレビ小説」「紅白歌合戦」「流行歌」などが取り上げられている。江戸、戦前から占領期を経て、もはや懐かしい80年代、ピンクレディー、「がきデカ」までが入り乱れて登場する。
心に残ったのは、漫画「サザエさん」の分析。「サザエさん」は、戦前の軍国主義を否定し、平均的な人間の生活を愛しており、岸総理に対する大衆の抗議運動や公害反対運動には共感を抱いている。それは、過激な革命運動への共感ではないけれど、「市民運動から遠い市民もまたただの無関心の中にいるのではなく、ある種の理想に支えられていることを」示していると著者はいう。ポスト60年代の市民運動の停滞の中で、市民運動の理想がどこに行ってしまったのかを考える上で、興味深い指摘である。
本書は、鷲田清一さんの解説に言うとおり、明晰な異議のことばも持たず、「でも」と口ごもるだけの、無名の人々(大衆)の口もとに、じっと視線を合わせたような労作である。スッキリ割り切れないところはもどかしい。でも、このもどかしさにつきあうことが、確かに大切なのだ。
今年は『1968』や『戦後日本スタディーズ』で、べ平連の活動について知ることが多かったので、あらためて鶴見俊輔を読んでみようと思った。本書は、カナダのマッギル大学で著者が1980年1月から3月にかけておこなった講義を底本にしたものである。
冒頭の2編は、連合国(実質的には米国)による占領(1945-1952)が、日本に与えた影響について論ずる。初編は、占領軍の対日政策をおおまかに追いながら、戦前と戦後の日本で、変ったものと変わらなかったものを拾い出す。占領は、日本人の風俗、ライフスタイル、とくに男女のつきあい方を大きく変えた、と著者はいう(ほんとかな?)。けれども、米国政府が日本に植えつけようとした「新しい正義の感覚」は、敗戦国民として公然と批判することはないとしても「心から受け入れるというふうであったかどうかは疑わしい」という。良し悪しは別として、そうだろうな、と思う。
第2編では、この「正義の感覚」の問題を、戦争裁判にしぼって論じる。「戦争裁判は、避けることのできない自然の災害であるかのように受け入れられました」(ただし)「裁判官たちが主張した正義の基準がそのまま正義の基準として日本国民に受け入れられたということではありません」というのは、身もフタもない表現だが、真実を穿っていると思う。受け入れがたい事象を「自然の災害」として受け入れるというのは、日本人の習い性である。「災害」に襲われた人々は、不運であったかもしれない。愚かであったかもしれない。その曖昧な庶民の感情を、著者は取り出そうとしている。でも、講義を聞いたカナダの大学生たちは、どこまで理解できたかしら。
そのあとは、戦後日本の個別風俗に立ち入り、「漫画」「寄席」「大河ドラマ」「連続テレビ小説」「紅白歌合戦」「流行歌」などが取り上げられている。江戸、戦前から占領期を経て、もはや懐かしい80年代、ピンクレディー、「がきデカ」までが入り乱れて登場する。
心に残ったのは、漫画「サザエさん」の分析。「サザエさん」は、戦前の軍国主義を否定し、平均的な人間の生活を愛しており、岸総理に対する大衆の抗議運動や公害反対運動には共感を抱いている。それは、過激な革命運動への共感ではないけれど、「市民運動から遠い市民もまたただの無関心の中にいるのではなく、ある種の理想に支えられていることを」示していると著者はいう。ポスト60年代の市民運動の停滞の中で、市民運動の理想がどこに行ってしまったのかを考える上で、興味深い指摘である。
本書は、鷲田清一さんの解説に言うとおり、明晰な異議のことばも持たず、「でも」と口ごもるだけの、無名の人々(大衆)の口もとに、じっと視線を合わせたような労作である。スッキリ割り切れないところはもどかしい。でも、このもどかしさにつきあうことが、確かに大切なのだ。