見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

ニュース二題:『魚籃観音像』と神奈川仏教文化研究所

2011-09-17 23:48:28 | 見たもの(Webサイト・TV)
■日々の新聞:いわき Biweekly Review 第204号「『魚籃観音像』の不思議な運命」

 先だって、2009年夏に三鷹市美術ギャラリーで行われた『牧島如鳩展-神と仏の場所-』のレビュー記事にコメントをいただいて、ハッとした。返信にも書いたとおり、3月11日の東日本大震災のあと、私は如鳩の『魚籃観音像』の安否が気になってならなかった。

 2009年の展覧会当時、この絵は「今でも小名浜の漁業共同組合長室の壁に飾られ続けている」と説明されていた。震災後、私は、うろ覚えだった小名浜港(福島県いわき市)の位置を、Googleマップで確認した。原発事故の警戒区域からは、少し南に外れているようである。人的・物理的被害が皆無でなかったことは、だんだん分かってきた。しかし、この絵に関する情報は何も得られなかった。仕方ない。もう起きてしまったことなのだから、待っていれば、いずれ分かるだろうと決めて、夏を過ごしていた。

 そこに龍三郎さんのコメントをいただいたので、久しぶりにネットで情報収集してみた。そのとき、引っかかってきたのが、上記のニュース記事である。なんと、小名浜漁業協同組合は、経営不振のため、2010年3月に解散し、同年9月30日付で破産手続き開始決定を受けた。負債総額は3億円にのぼった。足利市立美術館が預かっていた『魚籃観音像』も競売にかけられそうになったが、今年2011年のはじめ、関係者の尽力により、足利市民文化財団に買い取られた。評価額は250万円だったという。そして、このたびの震災。

 あまりにも数奇な運命に呆然とする思いだった。ひとまず絵の無事が確認されてよかった。でもなあ、いつか、この絵は港に返してやりたい。漁のできる港に。そう切実に感じさせる絵なのである。

■「神奈川仏教文化研究所」の停止

 リンクを張っておいたが、上記のリンク先にはもうページがない。何年も前から「お気に入り」に登録し、情報収集に使わせていただいていたサイトだったが、今年の4月半ばから、パタリと更新が止まってしまった。おかしい、おかしい、と思っていたら、同サイトの「訪れ帖」(掲示板)に、どなたかが理由を書き込んでくれた。管理者がお亡くなりになったのだという。ショックだった。詳細は『春秋堂日録』というブログに記事があるので、ここにリンクを張っておく。

 ところが、つい先日、更新が止まった当のサイトが、まるごと消えてしまっていた。これは、もっとショックだった。更新が止まっても、過去情報にアクセスできれば、まだまだ有用だったのに。あの豊富な情報は、まさか全て烏有に帰してしまったのだろうか? ネットの上の情報の儚さを感じて、うそ寒い感じがしている。
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笑える?日本の文人画/大雅・蕪村・玉堂と仙(出光美術館)

2011-09-17 21:59:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
出光美術館 日本の美・発見V『大雅・蕪村・玉堂と仙-「笑(わらい)」のこころ』(2011年9月10日~10月23日)

 池大雅、与謝蕪村、浦上玉堂、仙と聞いて、日本美術史を正当に学んだことのない私は、目を白黒させてしまった。全く流儀の異なる(ように見える)この4人が、どうして一括されるのか? 展覧会趣旨を要約すれば、以下のとおり。

 中国の文人画とは、士大夫(官僚)が余技として描いた画をいう。理想と現実の間で苦悩した彼らの作品には、どこか深刻な趣きがつきまとう。中国の文人に憧れた日本の文人画家の作品も、同様の印象で語られることが多かった。しかし、日本の文人画には、思わず微笑んでしまう名品が少なくない。このような「笑い」をひきおこす絵画表現が好まれたのはなぜか。

 そうかー「文人画」というカテゴリで括っていいのか。でも日本の文人画って、そんなに笑えるのかな?と半信半疑で会場に赴く。

 最初は、笑いの古典「瓢鮎図」にちなんだ作品を、大雅1点、仙2点、玉堂1点。ああ、なるほど。大雅の『瓢鯰図』は可愛くて、いいかもしれない、と思う。そして、最初の特集セクションが池大雅。これまで、ほとんど好き嫌いの感情をもったことがない画家だったが、『山邨千馬図』に近寄って噴いてしまった。やられた。何だよ、これ、という感じ。個人的な好みは『瀟湘八景図』。ゆるいなー。八幅対の四幅が出ているが、特に『瀟湘夜雨』が好きだ。水面に浮かぶ文人の舟が、海坊主の頭みたいに見える。『洞庭秋月図』もいい。ふわふわと漂うメレンゲのような山水。一見、無造作に○を描いただけの月。しかし、舟の上で笛を吹く唐子の、豆粒のような姿は、大雅お気に入りのモチーフで、細心の注意を払って描き込んでいる(らしい)。『十二ヵ月離合山水図屏風』もよかった。知的で、計算された構成で描かれているのに、それをストレートに感じさせないゆるふわ感があり、面白いな、と思った。

 次は玉堂。50歳で脱藩し、琴を抱えて諸国を放浪した孤高の文人(愛用の七弦琴と琴嚢も展示されていた)と思われているが、心中には「達観した笑い」があったのではないか、という。どうかなあ…。展覧会のタイトルを聞いたとき、いちばん「笑い」から遠いように感じたのが玉堂なのだが。いま、図録で、細部のアップを見てみると、意外とかわいい絵なんだな、と思った。引きで全体を見ていると、孤独感や悲愴感を強く感じるのに。

 与謝蕪村。『山水図屏風』の構成力に唸る。どこにもゆるふわ感なんてないよね、と思ったのに、やはり図録で見ると、谷間の人家の無造作な描きぶりや、窓の中の文人のとぼけた表情には、一抹の可笑しみがある。いや、でも、普通、気づかないでしょう、こんなところには。どうも無理に「笑い」を探しているような感じがないではない。

 ここまで、展覧会のテーマに、なんとなく消化不良を感じてきたが、最後の仙さんには、心から笑わせてもらった。自分のブログを検索して、昨年秋の展覧会『仙-禅とユーモア-』(出光美術館、2010年9月18日~11月3日)はレポートを書きそびれたことを思い出した。分析や説明が多すぎて、あまり素直に楽しめない展覧会だったのである。今回のほうが、ずっと楽しかった。同じ「笑い」でも、説明的な文脈で提示されるのと、唐突に出喰わすのとでは、全く印象が異なる。「書き損ない」を「笑い」に転じた一群の作品、好きだ。
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