○塚田孝『大坂の:乞食・四天王寺・転びキリシタン』(ちくま新書) 筑摩書房 2013.10
序章に言う。読者の多くの方々の江戸時代のイメージは「士農工商」の身分制で縛られた窮屈な社会であり、百姓や町人の不満をそらすため「えた」身分が政治的に作られたというものではなかろうか。…うーん、それはちょっと旧弊すぎるかな。私の江戸時代イメージは、もう少し自由闊達である。
しかし、続けて「江戸時代のは、もともと貧人という語でも表現され、乞食(こつじき)で生きざるを得ない人たちのことであった」という一文が目に留まったときは、初めて聞く説で驚いた。え、貧人(ヒンニン)→(ヒニン)なのか。そういえば、古地図にの居住区が記載されるときは、カタカナ表記が多かったかもしれない。古代の浮浪(流民)から現代のホームレスまで、仕事や住居を失い、生活困難に陥ることは、いつの時代も、誰にでも起こり得ることだ。別に特殊な血統に限る話ではない。
本書は、現代の大都市・大阪につながる大坂の集団の実相を、史料から実証的に解き明かしたもの。同じくと呼ばれていても、地域によって、そのあり方は異なった。江戸と大坂を比べても、かわた(えた)身分との関係等に、大きな差異があるという。
私は、そもそも江戸時代の都市生活に対して基本的な知識がないので、生活の基礎単位は道路を挟んだ両側の家持(いえもち)で構成される「町」であった(借家人は町人に入らない)とか、大坂には、特定の商品の営業権を認められた株仲間や、職人の仲間組織が形成されていた、という社会背景の概述を読むだけで、ずいぶん勉強になった。そして、多様な仲間集団のひとつに、身分の「垣外(かいと)仲間」があり、天王寺・鳶田・道頓堀・天満の四ヶ所(しかしょ)に存在していた。
序章で、いきなり驚かされたのは、「大坂の集団には転びキリシタンとその子孫が仲間の中核にいた」という記述。詳しくは第1章で詳述されている。へええ「転切支丹存命ならびに死失帳」なんていう史料があるのか。
それから、四天王寺とのかかわり。近世の四天王寺が、単なる寺以上の存在であったことは、文楽などの芸能を通じて、うすうす感じていたが、著者によれば、内部に大規模な寺院組織を有するとともに、周辺地域のさまざまな人々を秩序づける磁極の位置にあったという。垣外仲間は、彼らの中に自律的な集団秩序を持ちつつ、四天王寺を頂点とする秩序の一端にも組み入れられていた。
19世紀に入ると、垣外仲間は、町奉行所の下で(今でいう)警察関係の「御用」をつとめる比重が高まり、犯罪捜査だけでなく、政治レベルに及ぶ情報収集にもかかわっている。
史料研究が込み入りすぎていて、単なる好奇心で読み通すには、ややつらいところもあるが、新しい知識の手がかりがつかめて、興味深かった。いちばん感じ入ったのは、といえども家族を成し、家督を継いでいたことだ。家督は財産(家屋敷)であると同時に、義務(各種の御用を勤める)をともなっており、相続者を欠くと、整理統合されることもあった。しかし、現代社会のワーキングプア(住むところも持てず、結婚もできない)より、ずっとまともな生活をしていたのではないかと思った。
それから、集団の人々が、町方・村方の医者にかかるため、町方に居住したり、人別を移すことがあったという記述も意外で、私の先入観を砕いてくれた。「」という言葉(表記)におののいて、史料が伝える事実から目を覆ってしまわないようにしたいものだ。
序章に言う。読者の多くの方々の江戸時代のイメージは「士農工商」の身分制で縛られた窮屈な社会であり、百姓や町人の不満をそらすため「えた」身分が政治的に作られたというものではなかろうか。…うーん、それはちょっと旧弊すぎるかな。私の江戸時代イメージは、もう少し自由闊達である。
しかし、続けて「江戸時代のは、もともと貧人という語でも表現され、乞食(こつじき)で生きざるを得ない人たちのことであった」という一文が目に留まったときは、初めて聞く説で驚いた。え、貧人(ヒンニン)→(ヒニン)なのか。そういえば、古地図にの居住区が記載されるときは、カタカナ表記が多かったかもしれない。古代の浮浪(流民)から現代のホームレスまで、仕事や住居を失い、生活困難に陥ることは、いつの時代も、誰にでも起こり得ることだ。別に特殊な血統に限る話ではない。
本書は、現代の大都市・大阪につながる大坂の集団の実相を、史料から実証的に解き明かしたもの。同じくと呼ばれていても、地域によって、そのあり方は異なった。江戸と大坂を比べても、かわた(えた)身分との関係等に、大きな差異があるという。
私は、そもそも江戸時代の都市生活に対して基本的な知識がないので、生活の基礎単位は道路を挟んだ両側の家持(いえもち)で構成される「町」であった(借家人は町人に入らない)とか、大坂には、特定の商品の営業権を認められた株仲間や、職人の仲間組織が形成されていた、という社会背景の概述を読むだけで、ずいぶん勉強になった。そして、多様な仲間集団のひとつに、身分の「垣外(かいと)仲間」があり、天王寺・鳶田・道頓堀・天満の四ヶ所(しかしょ)に存在していた。
序章で、いきなり驚かされたのは、「大坂の集団には転びキリシタンとその子孫が仲間の中核にいた」という記述。詳しくは第1章で詳述されている。へええ「転切支丹存命ならびに死失帳」なんていう史料があるのか。
それから、四天王寺とのかかわり。近世の四天王寺が、単なる寺以上の存在であったことは、文楽などの芸能を通じて、うすうす感じていたが、著者によれば、内部に大規模な寺院組織を有するとともに、周辺地域のさまざまな人々を秩序づける磁極の位置にあったという。垣外仲間は、彼らの中に自律的な集団秩序を持ちつつ、四天王寺を頂点とする秩序の一端にも組み入れられていた。
19世紀に入ると、垣外仲間は、町奉行所の下で(今でいう)警察関係の「御用」をつとめる比重が高まり、犯罪捜査だけでなく、政治レベルに及ぶ情報収集にもかかわっている。
史料研究が込み入りすぎていて、単なる好奇心で読み通すには、ややつらいところもあるが、新しい知識の手がかりがつかめて、興味深かった。いちばん感じ入ったのは、といえども家族を成し、家督を継いでいたことだ。家督は財産(家屋敷)であると同時に、義務(各種の御用を勤める)をともなっており、相続者を欠くと、整理統合されることもあった。しかし、現代社会のワーキングプア(住むところも持てず、結婚もできない)より、ずっとまともな生活をしていたのではないかと思った。
それから、集団の人々が、町方・村方の医者にかかるため、町方に居住したり、人別を移すことがあったという記述も意外で、私の先入観を砕いてくれた。「」という言葉(表記)におののいて、史料が伝える事実から目を覆ってしまわないようにしたいものだ。