○五味文彦『後白河院:王の歌』 山川出版社 2011.4
「これは読もう」と思って頭の中にリストアップしておいた本。書店で見つけたときは、迷わず棚から抜き取ったが、さて、どうして「読みたい本」リストに加えたのかを全く忘れていた。いまブログ検索をかけたら、丸谷才一さんの〈最後の新刊〉『別れの挨拶』(2013)で書評を読んだことを思い出した。
それにしても歴史学者の書いた人物評伝としては、かなり異色の本。「今様を通じて(後白河)院の物語を紡ぎ出す、これが本書の目指すところである」と「はじめに」で述べる。言うまでもなく「今様」とは、平安中期に発生した歌謡で、院が編纂した『梁塵秘抄』によって、その一部が現代に伝わった。
大治2年(1127)鳥羽院と待賢門院璋子の間に第四皇子として生まれた院は、二つの内乱を経験し、二度も院政を停止され、四度も政治の転換を余儀なくされたにもかかわらず、三十数年にわたって「王」として君臨した。本書は、その波乱に富んだ生涯を史料を博捜して描き出しながら、ここぞというポイントに「今様」を据える。…まるで、平安文学のジャンルでいう「歌物語」みたいだ。
たとえば、応保2年(1162)、前年に院政停止を強いられて失意の後白河院は熊野に詣で、新宮で千手経を読んでいると御神体の鏡が輝いて見えたので、千手観音の功徳を称える今様「よろづのほとけの願よりも 千手の誓ひぞ頼もしき(略)」を謡った。これは『梁塵秘抄口伝集』に詳しい記述があるらしい。
史料に今様のないところでは、著者の想像力がフル稼働する。まだ十代の頃、妻の死、母の死と、相次ぐ不幸に見舞われたときは「静かに音せぬ道場に 仏に花香奉り/心を鎮めて暫くも 読めば仏は見えたまふ」。この102番歌などを道場に籠って謡ったことであろう、と想像する。治承3年(1179)には、清盛によって院政を停止され、鳥羽殿に幽閉される。院は「あか月静かに寝覚めして 思えば涙ぞ抑へ敢へぬ/儚くこの世を過しては 何時かは浄土へ参るべき」などを謡って涙を流したことであろう、という。歴史家の書いた本に、こんなに「…であろう」が頻出するのは、少し異様な感じさえする。
しかし、引用に適当な箇所を探して読み直してみると、どこの「今様」もすごく収まりがよくて、納得がいく。清盛率いる平家一門と良好な関係にあった一時期、厳島参詣で謡われたであろう今様、建春門院滋子の死を悼んで謡ったであろう今様、清盛没後、上洛してきた東国の武士たちを見て謡ったであろう今様、どれもいい。この歌謡(今様)のために物語(院の生涯)が創作されたのか、あるいはその逆か、と疑いたくなるくらいだ。著者の文学的読解力に脱帽。
院の宿敵であった清盛が、熱病に苦しみながら息を引き取るに際して、2012年の大河ドラマ『平清盛』では、後白河院が虚空にむかって今様「遊びをせんとや」を謡っている場面があり、どうせ脚本の創作だろうと思いながら、涙腺崩壊した記憶がある。『百錬抄』によれば、清盛葬礼の日(治承5年閏2月8日)「車を寄するの間、東方に今様乱舞の声〈三十人許りの声〉有り。人をもってこれを見さしむに、最勝光院の中に聞こゆ」という記述があるそうだ。最勝光院は院の御所(法住寺殿の一部)。院は2月2日に最勝光院に遷ったことが確認されている(玉葉)。今様乱舞で清盛の葬礼を送る後白河院という「史実」も、なかなかドラマチックである。ここで後白河院が「謡ったであろう」と著者が推測するのは、『梁塵秘抄』30番歌。この着眼というか、選択もいい~。
親王時代から「愚昧」「酔狂」と見られた後白河院であるが、院を育てた信西は「自ら聞こしめし置く所の事、殊に御忘却無く、年月遷ると雖も、心底に忘れ給はず」と、その抜群の記憶力を賞賛していたそうだ(玉葉)。意外にもこのひとは、出会った人々や経験から、学ぶべきものを学びつくして、政治的才能を開花させたように思う。自由気ままな天才に見えて、実は、他人の優れた点を素直に吸収し、一歩ずつ成長を続けた「王」だったのだ。『六代勝事記』という歴史書(鎌倉時代前期)は、後白河院の治世に最大級の賛辞を捧げている。申し訳ないが、ちょっとほめ過ぎだろうと思うくらい。
信仰深かった院の生涯には、神や仏と感応する神秘体験が、たびたび記録されている。いや神秘体験と思うのは、現代人の目で見るからであって、当時の人たちには、普通の生活の一部だったのかもしれない。そうした信仰生活も含めて、このひとを主人公にした映像作品を作ってほしいと思うのだが、天皇を主人公にしたドラマって、いろいろ難しいのかなあ。
なお、五味先生は、次の課題として「歌人の西行」を挙げている。どんな「歌物語」が生まれるのか、楽しみ。
「これは読もう」と思って頭の中にリストアップしておいた本。書店で見つけたときは、迷わず棚から抜き取ったが、さて、どうして「読みたい本」リストに加えたのかを全く忘れていた。いまブログ検索をかけたら、丸谷才一さんの〈最後の新刊〉『別れの挨拶』(2013)で書評を読んだことを思い出した。
それにしても歴史学者の書いた人物評伝としては、かなり異色の本。「今様を通じて(後白河)院の物語を紡ぎ出す、これが本書の目指すところである」と「はじめに」で述べる。言うまでもなく「今様」とは、平安中期に発生した歌謡で、院が編纂した『梁塵秘抄』によって、その一部が現代に伝わった。
大治2年(1127)鳥羽院と待賢門院璋子の間に第四皇子として生まれた院は、二つの内乱を経験し、二度も院政を停止され、四度も政治の転換を余儀なくされたにもかかわらず、三十数年にわたって「王」として君臨した。本書は、その波乱に富んだ生涯を史料を博捜して描き出しながら、ここぞというポイントに「今様」を据える。…まるで、平安文学のジャンルでいう「歌物語」みたいだ。
たとえば、応保2年(1162)、前年に院政停止を強いられて失意の後白河院は熊野に詣で、新宮で千手経を読んでいると御神体の鏡が輝いて見えたので、千手観音の功徳を称える今様「よろづのほとけの願よりも 千手の誓ひぞ頼もしき(略)」を謡った。これは『梁塵秘抄口伝集』に詳しい記述があるらしい。
史料に今様のないところでは、著者の想像力がフル稼働する。まだ十代の頃、妻の死、母の死と、相次ぐ不幸に見舞われたときは「静かに音せぬ道場に 仏に花香奉り/心を鎮めて暫くも 読めば仏は見えたまふ」。この102番歌などを道場に籠って謡ったことであろう、と想像する。治承3年(1179)には、清盛によって院政を停止され、鳥羽殿に幽閉される。院は「あか月静かに寝覚めして 思えば涙ぞ抑へ敢へぬ/儚くこの世を過しては 何時かは浄土へ参るべき」などを謡って涙を流したことであろう、という。歴史家の書いた本に、こんなに「…であろう」が頻出するのは、少し異様な感じさえする。
しかし、引用に適当な箇所を探して読み直してみると、どこの「今様」もすごく収まりがよくて、納得がいく。清盛率いる平家一門と良好な関係にあった一時期、厳島参詣で謡われたであろう今様、建春門院滋子の死を悼んで謡ったであろう今様、清盛没後、上洛してきた東国の武士たちを見て謡ったであろう今様、どれもいい。この歌謡(今様)のために物語(院の生涯)が創作されたのか、あるいはその逆か、と疑いたくなるくらいだ。著者の文学的読解力に脱帽。
院の宿敵であった清盛が、熱病に苦しみながら息を引き取るに際して、2012年の大河ドラマ『平清盛』では、後白河院が虚空にむかって今様「遊びをせんとや」を謡っている場面があり、どうせ脚本の創作だろうと思いながら、涙腺崩壊した記憶がある。『百錬抄』によれば、清盛葬礼の日(治承5年閏2月8日)「車を寄するの間、東方に今様乱舞の声〈三十人許りの声〉有り。人をもってこれを見さしむに、最勝光院の中に聞こゆ」という記述があるそうだ。最勝光院は院の御所(法住寺殿の一部)。院は2月2日に最勝光院に遷ったことが確認されている(玉葉)。今様乱舞で清盛の葬礼を送る後白河院という「史実」も、なかなかドラマチックである。ここで後白河院が「謡ったであろう」と著者が推測するのは、『梁塵秘抄』30番歌。この着眼というか、選択もいい~。
親王時代から「愚昧」「酔狂」と見られた後白河院であるが、院を育てた信西は「自ら聞こしめし置く所の事、殊に御忘却無く、年月遷ると雖も、心底に忘れ給はず」と、その抜群の記憶力を賞賛していたそうだ(玉葉)。意外にもこのひとは、出会った人々や経験から、学ぶべきものを学びつくして、政治的才能を開花させたように思う。自由気ままな天才に見えて、実は、他人の優れた点を素直に吸収し、一歩ずつ成長を続けた「王」だったのだ。『六代勝事記』という歴史書(鎌倉時代前期)は、後白河院の治世に最大級の賛辞を捧げている。申し訳ないが、ちょっとほめ過ぎだろうと思うくらい。
信仰深かった院の生涯には、神や仏と感応する神秘体験が、たびたび記録されている。いや神秘体験と思うのは、現代人の目で見るからであって、当時の人たちには、普通の生活の一部だったのかもしれない。そうした信仰生活も含めて、このひとを主人公にした映像作品を作ってほしいと思うのだが、天皇を主人公にしたドラマって、いろいろ難しいのかなあ。
なお、五味先生は、次の課題として「歌人の西行」を挙げている。どんな「歌物語」が生まれるのか、楽しみ。