ソチ・オリンピック(2014年2月7日~23日)が始まったときは、バンクーバーから4年経ったのかと感慨深かった。冬季五輪の種目に一切興味がなかった私は、バンクーバーで男子フィギュアにがっつりハマってしまった。その経緯は「バンクーバー五輪・プルシェンコ(男子フィギュア)にハマる」(2010/3/2)という記事に書いたとおり。まずロシアのプルシェンコにハマり、しばらく動画サイトをめぐり歩いて、この選手もいいなーこのスケーターも素敵…と、ご贔屓さんが増えていった。シニアデビューしたばかりの羽生結弦くんを知ったのもこの頃である。
やがてフィギュアスケートを生で見たくなり、何度かアイスショーにも足を運んだ。いつも最大のお目当ては、プルシェンコと羽生くんだったように思う。どんどん強くなる羽生くんを見守る楽しさと、身体の限界と戦いながら、ソチオリンピック出場を目指すプルシェンコの情報をチェックする一喜一憂(次第に「憂」が長くなる)で、4年間が過ぎていった。
そして、二人が同じ舞台で「激突」するという、私にとっては夢のような瞬間が訪れようとしていた。13日(14日未明)に行われた男子フィギュアのSP(ショートプログラム)。でも私は夢の瞬間を見るに忍びなくて寝てしまった。プルシェンコについて、どんな結果(成績)も受け入れるつもりで。しかし、翌朝、寝床でスマホを開いて「プルシェンコ、SPを棄権 引退を表明」の文字を見たときは、混乱で頭が壊れそうになった。羽生のSP首位を喜ぶことを忘れるほど。
それでも半日くらい経つと落ち着いてきて、羽生の金メダルはしっかり見届けた(ただしこれも録画で)。二位のP.チャンの苦笑い顔も印象的だった。このひとも好きなのだ。団体戦のプルシェンコの演技は、動画サイトで一、二回見たが、引退表明を聞いてからは、苦しくて見られなくなってしまった。もう少し自分の気持ちが落ち着くのを待っている。
私は、いまだにジャンプの種類も見分けられない素人だが、4年間、フィギュアスケートを気にしてきたことで、多少、採点方法や順位の決まり方が分かるようになった。転倒を含む「失敗」演技でも得点が高かったり、一見「見事な」演技でも、基礎構成点が低くて、得点が伸びないこともある。そう分かると、日本のマスコミは、かなり無責任な印象批評を垂れ流しているなあ、と悩ましく思うところがあった。
あと、オリンピックは確かに特別なのかもしれないが、選手たちは、オリンピックのある年もない年も、繰り返し繰り返し闘い続けているということ。一度負けても、リベンジの機会は繰り返し来る。そして、孤独と重圧に耐えて闘い続ける選手たちは、同じ環境にある者どうし、お互いをリスペクトする作法をちゃんと共有している。これは、女子フィギュアでも感じたことだ。
さらに、私はどうしてもここに記録しておきたいことがひとつある。東京大学政策ビジョン研究センターのホームページが、先週からなぜかTOPページに羽生結弦選手の写真を使っている。フリーの衣装のまま、日の丸を後ろ手に持ち、氷上で姿勢正しく、深々とお辞儀をする羽生選手を斜め上方向から捉えたもの。清々しい写真だと思う。誰よりも強く、誰よりも美しく、誰よりも謙虚。私が日本という国に求める品格は、まさにこの写真なんだけどな。
やがてフィギュアスケートを生で見たくなり、何度かアイスショーにも足を運んだ。いつも最大のお目当ては、プルシェンコと羽生くんだったように思う。どんどん強くなる羽生くんを見守る楽しさと、身体の限界と戦いながら、ソチオリンピック出場を目指すプルシェンコの情報をチェックする一喜一憂(次第に「憂」が長くなる)で、4年間が過ぎていった。
そして、二人が同じ舞台で「激突」するという、私にとっては夢のような瞬間が訪れようとしていた。13日(14日未明)に行われた男子フィギュアのSP(ショートプログラム)。でも私は夢の瞬間を見るに忍びなくて寝てしまった。プルシェンコについて、どんな結果(成績)も受け入れるつもりで。しかし、翌朝、寝床でスマホを開いて「プルシェンコ、SPを棄権 引退を表明」の文字を見たときは、混乱で頭が壊れそうになった。羽生のSP首位を喜ぶことを忘れるほど。
それでも半日くらい経つと落ち着いてきて、羽生の金メダルはしっかり見届けた(ただしこれも録画で)。二位のP.チャンの苦笑い顔も印象的だった。このひとも好きなのだ。団体戦のプルシェンコの演技は、動画サイトで一、二回見たが、引退表明を聞いてからは、苦しくて見られなくなってしまった。もう少し自分の気持ちが落ち着くのを待っている。
私は、いまだにジャンプの種類も見分けられない素人だが、4年間、フィギュアスケートを気にしてきたことで、多少、採点方法や順位の決まり方が分かるようになった。転倒を含む「失敗」演技でも得点が高かったり、一見「見事な」演技でも、基礎構成点が低くて、得点が伸びないこともある。そう分かると、日本のマスコミは、かなり無責任な印象批評を垂れ流しているなあ、と悩ましく思うところがあった。
あと、オリンピックは確かに特別なのかもしれないが、選手たちは、オリンピックのある年もない年も、繰り返し繰り返し闘い続けているということ。一度負けても、リベンジの機会は繰り返し来る。そして、孤独と重圧に耐えて闘い続ける選手たちは、同じ環境にある者どうし、お互いをリスペクトする作法をちゃんと共有している。これは、女子フィギュアでも感じたことだ。
さらに、私はどうしてもここに記録しておきたいことがひとつある。東京大学政策ビジョン研究センターのホームページが、先週からなぜかTOPページに羽生結弦選手の写真を使っている。フリーの衣装のまま、日の丸を後ろ手に持ち、氷上で姿勢正しく、深々とお辞儀をする羽生選手を斜め上方向から捉えたもの。清々しい写真だと思う。誰よりも強く、誰よりも美しく、誰よりも謙虚。私が日本という国に求める品格は、まさにこの写真なんだけどな。