○森浩一『京都の歴史を足元からさぐる・洛北・上京・山科の巻』 学生社 2008.3
全6巻の同シリーズ。京都が恋しくなると、順不同に読んでいて、これが「洛東の巻」「北野・紫野・洛中の巻」に続く3冊目になる。執筆順では「洛東の巻」に続く2冊目。
「はじめに」に、1冊目はいろいろ試行錯誤があったが、2冊目は取捨選択の基準ができて、ある程度のテンポを保ち続けられるようになったというが、読んでいてもそんな感じがした。執筆当時の著者は80歳まであと数か月。長い学者人生で培った豊かな学識から、考古遺跡・遺物、文献、旅の見聞などを融通無碍に取り出し、組み合わせて語る。まだ実証に至っていないことも「…と思う」「…と推測している」と書きつけておく。若い研究者がこれをやったら無責任だが、本書からは後進に向けた期待と愛情が感じられた。
洛北は東山に次いで、私の好きな地域だ。はじめに印象的だったのは、大原・三千院(往生極楽院阿弥陀堂)のいわゆる大和坐り(跪坐)の菩薩像について書かれた段。結跏趺坐に比べると「日本的」な印象を私は勝手に持っていたが、著者は、中国・大同の華厳寺(上、下のどちらか)で跪坐の仏像を見たという。華厳寺は遼(契丹)時代にはじまり金時代に及ぶ寺院。著者は、自分が中国史の中で、遼、金、渤海、西夏などの周辺国を軽視していた(中国史の専門家にもその傾向があった)ことを、いくぶん後悔をこめて語る。京都には、東アジアはもとより、北東アジアや西アジアから影響を受けた文物も見出せるはずだが、そのことを可能とするには「よほど物を見る側の目を広げておく必要がある」というのは、自戒の言葉として胸にとどめておこう。大同の華厳寺、行ったんだけど、建物の印象しかないわあ…。
上賀茂・下鴨両社の段も面白かった。今は周囲がすっかり市街地なので、あまり意識したことがなかったけれど、それぞれが神体山を持っており、本来、両社は別の神社であったと考えられる。賀茂祭の騎射行事が国家に危険視され、ついには禁止された(文武天皇の時代)とか、馬の乗り手は「猪の頭をかむって馳せ駈け」た(本朝月令・秦氏本系帳)とか、賀茂斎王(斎院)は嵯峨天皇の代に始まるというのが通説だが、もっとさかのぼるとか、京都の歴史は平安京から始まるわけではなく、民俗や信仰に、古代の混沌を色濃くひきずっていることを感じた。
相国寺の一帯は、平安京の北限の一条大路の北になるので、本書では「洛北」として扱う。著者の勤務校、同志社大学の校舎建て替えに伴っておこなわれた発掘調査の話が興味深かった。不分明なことの多い、古代の出雲郷(出雲国から移住してきた人々が住んだ)の一角ではないかと考えられる遺物が発見された。また、隣接する相国寺では承天閣美術館を建築する際の調査で、7、8世紀の建物群がまとまって出土したという。へえ~。でも、これらの調査結果が、きちんと残されたのは幸いなこと。同志社大学近傍の室町殿(幕府)の跡地では、庭園に使われていたと思われる巨大な自然石がたくさん出土したが、セメントで固めてマンションの基礎にされてしまったそうだ。嘆かわしい。
最後は山科と日野。「洛中の巻」にも出てきた、山科の安祥寺の恵運と東寺の賢宝のことがこの巻にも記されている。2007年、80歳を目前に上醍醐に参拝した著者の体験談は、ハラハラしながら読んだ。他人事ではなく、私も体力のあるうちに行くべきところに行っておかなくては…。
多くはないが、ときどき食べ物の話題があるのは嬉しかった。十年ほど前までは、東福寺の臥雲橋のたもとに丹波の人が来て墨で焼いた栗を売っていた由。古代には、栗は他の木と区別されるほど財産価値が高かったという。ちょっと意外。栗の実の収穫と材に成すことと両方の期待があった。上賀茂の名物「すぐき」は「なり田」が贔屓。「七味をふって醤油を数滴たらし、熱いご飯と一緒に口にいれると極楽気分」って、思わず書き抜いてしまった。
著者が出会った学者や京都の人々のエピソードも織り込まれるが、まとまった量を成しているのは、高麗美術館を作った鄭詔文さんのこと。鄭コレクション第1号の大きな白磁の壺って、入ってすぐの展示ケースで見たような気がする。春の企画展『高麗の青磁・朝鮮の白磁-鄭詔文が愛した陶磁の美-』(2014年4月5日~6月29日)へはぜひ行ってみよう。高麗美術館発足パーティで、初代館長を引き受けた林屋辰三郎氏が、持病を押して、律儀にずっと立ち続けていたというのも心に残った。学者に気骨と品格が備わっていた時代の話だと思う。
全6巻の同シリーズ。京都が恋しくなると、順不同に読んでいて、これが「洛東の巻」「北野・紫野・洛中の巻」に続く3冊目になる。執筆順では「洛東の巻」に続く2冊目。
「はじめに」に、1冊目はいろいろ試行錯誤があったが、2冊目は取捨選択の基準ができて、ある程度のテンポを保ち続けられるようになったというが、読んでいてもそんな感じがした。執筆当時の著者は80歳まであと数か月。長い学者人生で培った豊かな学識から、考古遺跡・遺物、文献、旅の見聞などを融通無碍に取り出し、組み合わせて語る。まだ実証に至っていないことも「…と思う」「…と推測している」と書きつけておく。若い研究者がこれをやったら無責任だが、本書からは後進に向けた期待と愛情が感じられた。
洛北は東山に次いで、私の好きな地域だ。はじめに印象的だったのは、大原・三千院(往生極楽院阿弥陀堂)のいわゆる大和坐り(跪坐)の菩薩像について書かれた段。結跏趺坐に比べると「日本的」な印象を私は勝手に持っていたが、著者は、中国・大同の華厳寺(上、下のどちらか)で跪坐の仏像を見たという。華厳寺は遼(契丹)時代にはじまり金時代に及ぶ寺院。著者は、自分が中国史の中で、遼、金、渤海、西夏などの周辺国を軽視していた(中国史の専門家にもその傾向があった)ことを、いくぶん後悔をこめて語る。京都には、東アジアはもとより、北東アジアや西アジアから影響を受けた文物も見出せるはずだが、そのことを可能とするには「よほど物を見る側の目を広げておく必要がある」というのは、自戒の言葉として胸にとどめておこう。大同の華厳寺、行ったんだけど、建物の印象しかないわあ…。
上賀茂・下鴨両社の段も面白かった。今は周囲がすっかり市街地なので、あまり意識したことがなかったけれど、それぞれが神体山を持っており、本来、両社は別の神社であったと考えられる。賀茂祭の騎射行事が国家に危険視され、ついには禁止された(文武天皇の時代)とか、馬の乗り手は「猪の頭をかむって馳せ駈け」た(本朝月令・秦氏本系帳)とか、賀茂斎王(斎院)は嵯峨天皇の代に始まるというのが通説だが、もっとさかのぼるとか、京都の歴史は平安京から始まるわけではなく、民俗や信仰に、古代の混沌を色濃くひきずっていることを感じた。
相国寺の一帯は、平安京の北限の一条大路の北になるので、本書では「洛北」として扱う。著者の勤務校、同志社大学の校舎建て替えに伴っておこなわれた発掘調査の話が興味深かった。不分明なことの多い、古代の出雲郷(出雲国から移住してきた人々が住んだ)の一角ではないかと考えられる遺物が発見された。また、隣接する相国寺では承天閣美術館を建築する際の調査で、7、8世紀の建物群がまとまって出土したという。へえ~。でも、これらの調査結果が、きちんと残されたのは幸いなこと。同志社大学近傍の室町殿(幕府)の跡地では、庭園に使われていたと思われる巨大な自然石がたくさん出土したが、セメントで固めてマンションの基礎にされてしまったそうだ。嘆かわしい。
最後は山科と日野。「洛中の巻」にも出てきた、山科の安祥寺の恵運と東寺の賢宝のことがこの巻にも記されている。2007年、80歳を目前に上醍醐に参拝した著者の体験談は、ハラハラしながら読んだ。他人事ではなく、私も体力のあるうちに行くべきところに行っておかなくては…。
多くはないが、ときどき食べ物の話題があるのは嬉しかった。十年ほど前までは、東福寺の臥雲橋のたもとに丹波の人が来て墨で焼いた栗を売っていた由。古代には、栗は他の木と区別されるほど財産価値が高かったという。ちょっと意外。栗の実の収穫と材に成すことと両方の期待があった。上賀茂の名物「すぐき」は「なり田」が贔屓。「七味をふって醤油を数滴たらし、熱いご飯と一緒に口にいれると極楽気分」って、思わず書き抜いてしまった。
著者が出会った学者や京都の人々のエピソードも織り込まれるが、まとまった量を成しているのは、高麗美術館を作った鄭詔文さんのこと。鄭コレクション第1号の大きな白磁の壺って、入ってすぐの展示ケースで見たような気がする。春の企画展『高麗の青磁・朝鮮の白磁-鄭詔文が愛した陶磁の美-』(2014年4月5日~6月29日)へはぜひ行ってみよう。高麗美術館発足パーティで、初代館長を引き受けた林屋辰三郎氏が、持病を押して、律儀にずっと立ち続けていたというのも心に残った。学者に気骨と品格が備わっていた時代の話だと思う。