見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2014年11月@西日本:九州仏(福岡市博)、台北 國立故宮博物院展(九博)

2014-11-26 22:09:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
福岡市博物館 特別展『九州仏~1300年の祈りとかたち~』(2014年10月12日~11月30日)

 「九州の仏像が一堂に集う約半世紀ぶりの展覧会(へえー半世紀前にもあったのか)」「秘仏・新発見(初公開)の仏像を多数展示」と聞いては、北海道からでも出かけないわけにはいかない。リストによると70点の仏像は、九州全域から出品されている。…と書いて、リストを見直したら「宮崎県」だけがない? 宮崎は仏教文化不毛の地なのだろうか。

 会場の入口には、多様な様式の仏像15体ほどの写真が、大きな1つのパネルにまとめられていた。京都や奈良の仏像と違って、どこのお寺のどなたさま、と認識できないのがもどかしくて、かえって期待が高まる。入ってすぐ、大きなマッチ棒のような異様な物体。これは見たことがある、と思ったら、観世音寺に伝わる塑像の心木(奈良時代)だった。隣りの小さな銅造仏は、大分・柞原神宮の如来像(飛鳥時代)。隣りの相方に軽くツッコミを入れるような右手の曲げ方。優雅なストールをまとった貴婦人のようで素敵。大分・天福寺奥院の三体(奈良~平安前期)は、私の好きな、下半身にどっしりした量感の感じられる木造仏。もうこのへんで、九州仏の魅力に、すっかり魅了されてしまった。

 久しぶりにお会いできてうれしかったのは、観世音寺の兜跋毘沙門天。ちょっと胴長だが、スリムでカッコいい。足元の地天女と二匹の邪鬼の表情が、何度見ても、見れば見るほどいい。福岡・長谷寺の十一面観音菩薩立像は、少し反り返り気味なほど、背筋を伸ばして立つ。板光背は室生寺の十一面観音を思い出させた。福岡・小田観音堂の千手菩薩観音立像は、しもぶくれの個性的な顔立ちが微笑ましかった。大分・大山寺の普賢延命菩薩坐像には、二段になった象の集団(かわいい)が戴く蓮華座に座る。いずれも個性的で、京都や奈良の仏像を基準に覚えて来た時代様式とか印相が、あまり役に立たない。特に古いものはそうだ。鎌倉・南北朝時代の作になると、ああ「みやこぶり」だなあ、と感じるものが多くなる。たぶん文化圏が統合されていくんだろうな。

 対馬の法清寺観音堂の如来立像(平安前期)は「スキー帽をかぶったような」(この比喩、上手い)相貌で「蒙古仏」と呼ばれたこともあるそうだ。「蒙古仏」って、どこかで聞いたことがあると思ったら、三の丸尚蔵館の『珍品ものがたり』だった。「蒙古」は、無骨で「異様なもの」を表す指標だったのだろう。鹿児島の隼人塚の石仏、福岡・恵光院の石造の十一面観音(どう見ても媽祖像)、九博所蔵(もとは対馬伝来)の被帽地蔵菩薩坐像(高麗時代)など、興味深いものをたくさん見せていただいた。

九州国立博物館 特別展『台北 國立故宮博物院-神品至宝-』(2014年10月7日~11月30日)

 大宰府へ移動。「東京では公開されない逸品」だけを見たくてやってきた。肉形石の展示は前期で終わっていたが、それはどうでもいい。かわって、後期の会場の冒頭を飾るのは『人と熊』だが、これも簡単に見てスルー。すると『散氏盤』など、わずかな考古遺物の展示をはさんで、書画のセクション(中国の士大夫の精神)がすぐに始まる。中華文明の神髄がどこにあるか、分かりやすくて、とってもいい。東博の展示は、いろいろ盛り過ぎで、印象散漫だった感じがする。

 書画約20件は、東京展とは完全な「入れ替わり」なので、初めて見るものばかり。王羲之の『定武蘭亭序巻』(墨拓)がある。蔡襄があり、蘇軾があり、米芾(べいふつ)があり、黄庭堅がある。手堅いセレクションで、すごく安心して見ていられる。伝・韓幹筆『牧馬図頁』(唐時代)は、熊のような胴の太い黒馬の上に髭面の男がまたがる。…と思って会場では見ていたが、図録を見直したら、そうではなくて、隣りに並んだ白馬にまたがり、黒馬を操っていたのか。「韓幹真跡」という徽宗の書入れが華を添える。

 伝・燕文貴筆『渓山楼観図軸』は思ったより小さかった。絵画は本物を見ないと大きさが分からないなあ。馬遠筆『華燈侍宴図軸』は面白かった。たぶん日本にはほとんど伝わっていないタイプの中国絵画なので。倪瓚筆『容膝齋図』の静謐な清々しさ。ああ、見にきてよかった。遼代の絵画『秋林群鹿図軸』は展示期間が終わって、写真パネルしか見られなかった。仕方ないね。でも『草原の王朝 契丹』展を開催した九博に、遼時代(と推定される)絵画がやってきたことを、陰ながら喜んでおこう。

 あとは駆け足で流し見。これは東京で見ていないぞ、と思って目を止めた『刺繍千手観音菩薩軸』『刺繍普賢菩薩像軸』は、図録で確かめたら、やっぱり九博限定出品だった。『緙絲米芾書七言詩軸』は、ふつうに米芾(べいふつ)の書だと思って近寄ったら刺繍だった。中国人のつくるものは面白い。『爾雅』(乾隆石経の底本)が「九州」の項を開いていたのは、ご愛嬌。それと、水をこぼした痕のある『朱批奏摺』(No.204)の解説に「朕=康煕帝」と書いてあったような気がする(見間違いでなければ)。雍正年間なのに。図録の解説は、ちゃんと雍正帝になっていた。もしかして、雍正帝のイメージは「臣下への思いやり」と結びつかなかったのかしら。
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