見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

病気観光に出かけよう/健康半分(赤瀬川原平)

2014-11-30 20:41:01 | 読んだもの(書籍)
○赤瀬川原平『健康半分』(からころブックス) デコ 2011.7

 著者の赤瀬川さんは、2014年10月26日に亡くなられた。なんだかショックで、楽しみにしていた千葉市美術館の展覧会『赤瀬川原平の芸術原論』(2014年10月28日~12月23日)にも、足を向けられないままになっている。

 私が赤瀬川さんの存在を認識したのは、たぶん80年代、路上観察学会や超芸術トマソンの頃からである。一方で、尾辻克彦名義の小説作品も読んでいた。その後も『新解さんの謎』や『老人力』を読み、実は、藤森照信先生設計の「ニラハウス」が見たくて、町田市まで探しに行き、公道からしげしげ鑑賞させていただいたこともある。山下裕二先生、南伸坊氏との『日本美術応援団』活動については、本を読むだけでなく、たびたびトークセッションも聴きに行ったので、赤瀬川さんの声と話し口調がなつかしい。

 そんな赤瀬川さんが、ふらっとどこかに旅立たれるようにいなくなってしまった。見えなくなった姿を追い求めるような気持ちで本書を読んだ。私が最後に赤瀬川さんの姿をナマで見たのは、2012年8月の東京国立博物館での講演会『日本美術応援団、東京国立博物館を応援する』で、このとき、赤瀬川さんは車椅子で檀上にあらわれた。ああ、体調があまりよろしくないんだなあ、と思ったが、本書に収められた20数編の短いエッセイは、ほとんどが病気に関するものである。それもそのはず、もとは病院の待合室に置く小冊子「からころ」に連載されたものだそうだ。へえ、そんなメディアもあるのだなあ。

 特別な大病というわけではなくて、人間、年を取ると、誰しもいろいろなところに不調が出てくるわけだが、赤瀬川さんは、そうした病気、言葉をかえれば、老いていく自分の身体を嘆かずに、上手につきあおうとする。経験の幅の広い人の話には厚みがある。エッセイでも貧乏と金持を行き来した人の話は面白い(たとえば内田百間)。だから病気の世界を通り抜けるのは、見聞を広げる観光のチャンスだと思おう。

 あるいは、若い頃は自分の身体に対して野党の気分でいられた。それが気がつくと、いつの間にか自分が政権担当者になっている。与党となると、一つの問題(酒が飲みたい)だけを見て、それに直進するわけにはいかない。常に全体を見ながら、できるだけうまく自分の国体ならぬ身体を運営していくことが課題となってくる。うまいな~、この比喩。それから、最近は町でトイレを見かけたら、必ずそこで用を足すことにしている、という話のあとで、そんな自分を鳥みたいだ、と評している。そうか、年を取って、排泄孔のパッキンが緩むというのは、鳥に近づくことだったのか、と思うと、なんだか晴れやかな気分になる。

 私も50代になって、急に体力や抵抗力の衰えを自覚するようになった。若い頃があまりに病気知らずだったので、身体の不調とどうつきあえばいいのか、戸惑うことが多かったのだが、本書を読んで、老いや病気とも仲良くつきあっていけそうな気がしてきた。赤瀬川さん、ありがとう。
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未来の「本」と「読者」のために/「本が売れない」というけれど(永江朗)

2014-11-30 00:17:51 | 読んだもの(書籍)
○永江朗『「本が売れない」というけれど』(ポプラ新書) ポプラ社 2014.11

 本と書店の今とこれからを考える1冊。まず、マクラに語られるのは、「街の本屋」がどんどん消えているという現実。著者は講演で訪れた土佐市で、中学生が歩いて行ける距離に本屋がないことを知る。その分、市立図書館はよく利用されているという。ううむ、これって、いいことなのか嘆かわしいことなのか悩む。

 今や全国的に見て、日本人にとっての最大の読書インフラは、新刊書店でなく図書館である。その背景には、図書館の(よい意味での)変化や、手っ取り早い倹約の実践もあるけれど、本を「所有するもの」から「体験/消費するもの」と考える意識の変化も大きいのではないかと分析されている。

 また、街の零細書店が消えていく原因のひとつに大型書店の出店があげられる。しかし著者は、多くの読者(消費者)が大型書店の出店を歓迎している事実を冷静に受け止めている。読者は、探している本がない確率の高い街の本屋よりも、ある確率の高いメガ書店に吸い寄せられる。自分のことを考えても、そのとおりだと思う。

 それからアマゾンの成功。著者は2000年にアマゾンが日本でサービスを始めたとき、きっと失敗するだろうと思っていたと告白する。なぜアマゾンは成功したのか。「他人と触れ合わずにすむことがアマゾンの魅力である」という分析は興味深い。いま、書店員や図書館員が顔を見せて、本をオススメするという企画を行っているところは多いが、自分がこれから読もうとする本について、立ち入られることを好まない読者(消費者)は多いと思う。

 しばらく街のミドルクラス書店の悲惨な状況が語られた後、新宿の紀伊国屋書店の話が出てくる。紀伊国屋書店は書店界ではとびきり古いというわけではない。昭和2年(1927)創業の新興書店だった。1950年代、松原治が紀伊国屋書店に入り、「普通にやっていたのでは儲からない商売である」ことを直感的につかむと、洋書の輸入と大学(図書館及び教員)への外商に力を入れた。「洋書は利益が大きい。なにしろ定価がない」という箇所を読んで笑ってしまった。そうだよなー。本に「定価」があると思っているのは、再販制に慣れた日本人の感覚なのだ。しかし「いくらでも好きな値段がつけられた」と断言しているのが可笑しい。

 大学教授から売掛金を回収するのは難事業で、代金を払わない某教授には本を渡さないよう「御触書」がカウンター内に貼られていたとか、「本屋が代金を取りに来るんですよ」と怒る高名な歴史学者がいたとか、今では考えられない(たちまち犯罪扱いだよ~)、牧歌的なエピソードも語られている。また、紀伊国屋書店が、洋書(専門書)の外商を担える人材の育成に、積極的に取り組んできたことは注目に値する。あと創業者の田辺家が新宿に土地を持っていた幸運は大きいという。2012年に新宿のジュンク堂が撤退してしまったのは、営業不振が理由ではなく、ビルの家主の意向だったという。そうだったのか~新宿のジュンク堂、大好きだったのに。

 そして、いま活気のあるいくつかの書店を紹介しながら、多くの書店の停滞を招いている、「話題の新刊」やベストセラーだけを追いかけて、「取次」におんぶにだっこの商売スタイルに批判を向ける。課題は複雑系だから、万能薬的な解決方法がないというのはそのとおりだ。まず、書店が(売る本を主体的に選択し)「仕入れて売る」という基本能力を向上させ、アイディア豊かなスタッフを育成して、斬新なイベントを打ち続けることも重要だ。一方で、流通システムそのものを改善し、書店の利益率を大幅に引き上げることも、同じくらい重要である。

 電子書籍を含めて「本」の姿は変わってきているし、今後も変わっていくだろう。しかし、「本」が生き延び、未来の「読者」に出会うことのできる環境を考えていかなければいけない、と著者は提言する。私は古いタイプの人間なので、正直なところ「いま活気のある書店」は、あまり好きではない。余計な雑貨なんか売らなくていいし、カフェもなくていい(あれば使うけど)。イベントもそんなに次々に開かなくていい。ただ、本とともに半世紀を生きて来たひとりの読者として、未来に「本」を生き延びさせたいという著者の思いには共感する。
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