〇佐藤信弥『周 - 理想化された古代王朝』(中公新書) 中央公論新社 2016.9
私は高校の世界史の先生から「かつて中国最古の王朝は周だった。それが、研究が進んで、今では殷王朝の実在が認められるようになった」と聞いた記憶がある。殷王朝については、遺跡や出土品に基づく考古学研究の蓄積があるおかげで、イメージがしやすい。それに比べると、逆に周王朝のほうが、孔子によって「理想の時代」と見なされたということ以外は、神話と伝説のベールに隠されて茫漠としている。本書は伝世文献(書物)を参考にしつつも、もっぱら金文(青銅器の銘文)や甲骨文や竹簡などの出土文献によって、周王朝の実像を再現したものである。キーワードは「祀」(祭祀儀礼、礼制)と「戎」(軍事)であることが冒頭に示される。
周王朝の歴史は、西周期(紀元前1046-同771)と東周期(紀元前771-同256)に分かれ、本書はさらに西周期を前半・後半に区分する。西周前半期は創業の時代。周の人々は農耕民と非農耕民の2つのアイデンティティを持っていた。そして(伝世文献には描かれていないが)殷への服属と通婚によって、殷王室を支える上層貴族の一員でもあった。
やがて天下分け目の戦いの末、周は殷に勝利して王朝交替を成し遂げる。周王は諸侯を封建し、大射礼などの「会堂型儀礼」と贈与(宝貝など)によって臣下と関係を結んだ。外部勢力と絶え間なく戦いが続いた時代でもあった。周王朝が、イメージしていたような平和文化国家ではなく「戦う王朝」であったことにちょっと驚く。
西周後半期には「会堂型儀礼」に代わって、周王が臣下に官職や職務を命じる「冊命儀礼」が目立つようになる。酒器が消失して(ええ~)食器類や編鐘などの楽器類が出土品の中心となること、饕餮文から抽象的な幾何学文が主流になっていくことなど、モノに即した指摘が興味深い。そして第10代厲王(れいおう)は国人の反乱によって王位を追われ、二人の大臣による「共和」の政が行われた。この用語の意味には諸説あるらしいが、こんなに初出の古い言葉だとは知らなかった。厲王の子が、積極的な外征で中興の主とたたえられる宣王、しかしその子・幽王の代で西周は滅ぶ。
諸侯は平王を擁立して都を移し、東周が成立するが、以後、歴史上は「春秋期」「戦国期」と称する。なお、西周期に周王朝に服属し、近衛兵を供給する役割を担っていた秦は、周の東遷に伴い、西周の故地に入り込んだことで、強く西周文化の影響を受けた。秦は周の文化を継承しつつ、天子たる周王に自らをなぞらえるようになった。周と秦に、このような文化の連続性があるとは考えたこともなかったので、非常に面白いと思った。ただし、春秋期に「天子」と号した諸侯は秦だけではなかったとのこと。一方、晋など中原の諸侯はなお西周の枠組みを尊重し、勤王の意志を打ち出していたというから、同時代の諸侯でも、考え方はさまざまだったのだろう。
曾侯乙墓(湖北省)から出土した大規模な編鐘は、この時期(戦国期)のものだが、西周後半期の形式を模した礼器であるという。復古調の礼器を用いることが、諸侯や上級貴族のステイタスであったのだ。春秋期には、西周の歴史や文化に関する事柄のテキスト化やその普及も進んだ。テキスト(伝世文献)を読むときは、その成立の背景をよく考えないといけないということを感じた。
興味深かったのは、鄭の簡公が晋の趙武(天命の子の趙武だ!)を饗応したとき、『詩経』から、恋人の帰りを待つ女性の心情を詠んだ詩を引いて、趙武に会えて嬉しいという挨拶としていること。本書は「恋愛詩をこのように読み替えるのは少々異様な印象を受ける」と述べているが、古代日本でも、恋歌を同様の挨拶に代えるという事例はあったと思う。あ~同じなんだなあという発見が嬉しかった。
博物館や美術館で青銅器を見つけると、どこに注目すればいいのか、いつも戸惑っていたが、少し興味が湧いた気がする。特に台北故宮博物院の三大青銅器「散氏盤」「㝬鍾(宗周鐘)」「毛公鼎」について知ることができたのは嬉しい。次回、故宮博物院に行ったときは、じっくり見てくることにしたい。