〇佐藤郁哉『大学改革の迷走』(ちくま新書) 筑摩書房 2019.11
新書としては法外な分量(478頁)にひるんでいたのだが、信頼している大学人の方が「大学業界内部の人が皆わかっているのに、外部の人がわかってくれないことを、ほんとうに丹念に丁寧に説明」した本という論評をしているのを見て読んでみた。
この数年、日本の大学の「危機」や「崩壊」を唱える書籍や記事が次々に世に現れたが、著者の射程はかなり長い。1991年、大学審議会の方針に基づいて実施された、大学設置基準の「大綱化」が1つの出発点になっている。文部省・文科省は、この大綱化の原則に基づいて各大学に改革を促し、評価・指導を行ってきたのである。
しかし、30年にわたる大学改革政策は、大学における教育と研究の基盤をかえって脆弱なものにし、現場を停滞させてきた。これは、大学業界の関係者なら(教員に限らず)ほぼ誰もが同意することだが、外部の人には初めて聞く話、意味が分からない話かもしれない(改革が現場を停滞させるって?)。
そこで著者は、欧米のシラバスとは似ても似つかぬ「和風シラバス」、PDCAサイクルへの過剰な期待ど具体例を挙げて、懇切丁寧に説き起こす。PDCAが日本の工学者たちの提唱したモデルだというのは初めて知った。PDCAの現実:無謀な計画を上司が立案→現場に丸投げ→適当にお茶を濁した評価→問題先送り、という風景には、既視感がありすぎて大笑いした。また、PDCAを機能させるには率直なCheck(評価)が必要だが、失敗が絶対に許されない官僚の世界では、そもそも機能するはずがない、というのも鋭い指摘だと思う。
このほか、現場の実状に合わない数々の押し付け政策に対して、大学側は消極的な抵抗しか選択の余地がなかった。ほどほどのお付き合い、もしくは脱連結(面従腹背)である。この対応が政策の形骸化を生んだ一因であることは否定できない。著者は、大学関係者が「大人の事情」を優先させて、教育への信頼を損ない、子どもたちの未来を奪ってきたことの反省を求めている。
しかし、より厳しく追及されているのは、やはり政府・文科省と各種審議会委員の責任である。まず高等教育に対する公財政支出の乏しさに関して、30年間、改善の空手形を切り続け、近年はその空手形さえ引っ込めてしまった政府と文科省。社会保障費や災害対策費の増大で、高等教育への支出が増やせないことは分かるが、その状況で世界ランキング100位以内に10校などというKPIを掲げるのは、戦前・戦中の精神論と何ら変わらない。舞台の大道具をなおざりにした「小道具偏重主義」というのも、膝を叩きたいくらい分かる。
大学院の量的拡大が招いた若手研究者の就職難について、著者はこの30年あまりの資料を遡って、専門家(高等教育研究者)が表明してた懸念が全く活かされてこなかったことを明らかにしている。最も明白な失敗は法科大学院制度の破綻であろう。著者によれば、法科大学院の閉鎖や募集停止に至った大学は、ほぼ例外なくホームページ等で「お詫び申し上げます」と謝罪の言葉を述べているという。しかし、文科省は謝らない。官僚機構は無謬だから、決して謝罪しないのだ。これでよいのか?
さらに言えば、文科省の政策方針に「お墨付き」を与えるための装置である審議会というもの、そこで発言する委員たちも責任を取らない。みんなで決めたことには誰も責任を取らないという、丸山真男のいう「無責任の体系」、著者の言葉でいう「集団無責任体制」は今も健在なのだ。あらためてこの恐ろしさを思い、自分のまわりからでも変えていかなければならないと思った。
「EBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メーキング)」が日本の官僚制の下では「PBEM(ポリシー・ベースト・エビデンス・メーキング)」になりがちとか、「GIGO(ガーベージ・イン・ガ-ベージ・アウト=屑データからは屑の結論しか出ない)」とか、たいへん興味深い用語も覚えることができた。胸に刻みたい。