〇千葉雅也『勉強の哲学:来たるべきバカのために』(文春文庫) 文藝春秋 2020.3
吉見俊哉氏の『知的創造の条件』での紹介が気になったので読んでみた。本書の前半は「原理篇」で、勉強とは何か?を深く考えてみる。勉強とは自己破壊である。これまでの環境のコードにノッていた自分を捨てて、別の環境=別のコード/言語に引っ越すことである。するとノリが悪くなる。使っている言語に違和感を感じる。その違和感を「言語をそれ自体として操作する意識」へ発展させる。そして、ツッコミ=アイロニー(根拠を疑う)とボケ=ユーモア(見方を多様化する)というテクニックによって環境のコードを転覆させ、新たなノリ、自己目的的なノリ=来たるべきバカの段階へ進むことができる。
言いたいことはだいたい分かる。巻末の「付記」によれば、ドゥルーズ&ガタリ、ラカン、フーコー、ウィトゲンシュタインなどフランス現代思想をベースにした文章だが、軽い表現、平易な用語で書かれているので、苦労なく読むことができた。その分、あまり新鮮味もなかった。
むしろ興味深かったのは、第3章以降の「実践編」である。これは、たとえば大学で初めてレポートを書く学生には、とても参考になると思った。勉強は「生活にわざと疑いを向けて、問題を浮かび上がらせる」ことから始まる。この「わざと」が大事。毎日の生活にだいたい満足していて、権力を糾弾したり社会を変えたりしたいとは思わない場合でも「わざと」問題を見出し、その不快な状態を楽しむのが勉強である。
まずは生活の場面を淡々と思い浮かべ、その背景にある環境のコードをあぶり出し、そこにツッコミを入れていく。その中で「抽象的で堅いキーワード」を見出し、そのキーワードを含む「専門分野」のノリを参照する。しかし深追いをしすぎてはいけない。絶対的な根拠を求める「最後の勉強」をしてはいけないので、「まあこれだろう」というところで勉強を中断(ある結論を仮固定)する。以上は「勉強のプロセス」の説明として完璧だと思う。
続く第4章には、さらに詳細で具体的な勉強のテクニックが書かれている。専門分野に入門するには何から読んだらよいか。基本はネットよりも紙の本だ。入門書→教科書→基本書と進むのがよい。入門書は1冊でなく複数読むこと。教科書は辞典のように引くもので、読み通す必要はない。入門書や教科書に繰り返し名前が出てくる文献が基本書。ううむ、私はこういうことを学校(大学)で体系的に学んだ覚えがないが、いまはちゃんと教えてくれるのだろうか。
勉強というのは、自分で文献を読んで考察することが本体で教師の話は補助的なものだと著者はいう。いま、新型コロナの影響で対面授業をしていない大学が批判に晒されているけど、私はこの風潮にあまり賛同しない。対面授業が大学生に「どうしても必要なもの」とは思えないからだ。ただ、もちろん教師には役割があって、教師とは「このくらいでいい」という勉強の有限化をしてくれる存在である、という説明は大変おもしろいと思った。
入門書を選ぶときは、信頼できる人物や機関の情報を信頼するしかない。勉強にあたって信頼すべきは、勉強を続けている他者であって、決めつけや押しつけの語りは、どんなに人気があっても勉強の足場にすべきではない。これは本当に大事。それから研究書と一般書の違い。研究書は「厳密」なもので、一字一句を「文字通り」読むことが期待されている。一般書から有効な部分を取り出すには読者に専門知識が必要なので、初学者はすべての一般書に警戒してほしい。これも大事。難しい本は、無理に納得しようと思わず、実感に引き付けず、「テクスト内在的」に読めというアドバイスもためになると思った。
また、文献を読むだけでなく、書き留めること、つくること(絵画、音楽、身体運動)、生活や空間を設計することが「勉強」にどのような影響を与えるかにも触れられている。総じて、私が学生時代から今日まで体験的に会得してきたことと矛盾するところはないのだが、今の現役学生はどんなふうに反応するだろうか。