見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

実業家一代/明治のたばこ王 村井吉兵衛(たばこと塩の博物館)

2020-12-20 23:58:01 | 行ったもの(美術館・見仏)

たばこと塩の博物館 特別展『明治のたばこ王 村井吉兵衛』(2020年10月31日~2021年1月24日)

 久しぶりに同館らしい企画だと思って見に行った。村井吉兵衛(1864-1926)京都のたばこ商の家に生まれ、実兄らとともに「村井兄弟商会」を設立し、アメリカの技術を学んでシガレット(紙巻きたばこ)の製造に乗り出し、同じくたばこ業者の岩谷松平や千葉松兵衛と「明治たばこ宣伝合戦」を繰り広げたことで知られている。

 私が村井吉兵衛と岩谷松平の「明治たばこ宣伝合戦」の顛末を知ったのは、たぶん1980~90年代の荒俣宏氏の著作による。そして、2006年、当時、渋谷の公園通りにあった「たばこと塩の博物館」で特別展『広告の親玉 赤天狗参上!~明治のたばこ王 岩谷松平~』を見たことは今でも記憶に新しい。日本の美しい伝統なんぞどこ吹く風。人目を奪ったほうが勝ちというド派手な宣伝グッズの数々(看板、パッケージ、引き札)や当時の写真がたくさん展示されていて楽しかった。この展覧会で、岩谷が「国産」「国益」を売りにしたのに対して、村井はアメリカ産のタバコ葉を取り入れ、商品名も「ヒーロー」「サンライス」など洋風を好んだという両者の志向の違いを知った。

 今回の展示も、村井兄弟商会だけでなく、岩谷商会の写真や宣伝用品も展示もあって、見比べるのが楽しい。明治たばこ合戦の集大成となったのが、明治36(1903)年、大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会。村井はサーチライトつきの「オールド高塔」を設置した(オールドは商品名)。そうか、上野と京都の勧業博覧会のことはよく聞くのだが、第5回が大阪で開かれたことはあまり意識していなかった。

 また村井吉兵衛が、たばこ以外にもさまざまな事業にかかわった人物であることは、今回、始めて知った。自社製品のパッケージ印刷のために興した東洋印刷株式会社(京都・東福寺近く)は、その後、大蔵省専売局に引き継がれた(ちなみに岩谷が設立を支援したのが現・凸版印刷)。たばこの専売施行後は、村井銀行を設立して、朝鮮の慶尚南道・進永に農場を開いたり、台湾・嘉義で造林所を経営したりした。この村井銀行の五条支店・七条支店・祇園支店(いずれも吉武長一設計)は現存している。写真を見て、見覚えがある気がした。赤レンガの村井兄弟商会馬町工場は2009年に解体されたとのこと。惜しい。でも一回くらい通りがかっていてもおかしくない。

 明治の実業家らしく、村井は自邸や別邸で園遊会など社交の場を提供し(映像が残っているのにびっくり)、政財界人と広く交流した。さまざまな機関・団体に寄付をおこなっており、中でも目立つのは教育機関への支援であるという。寺院では総持寺(石川県輪島→1911年、神奈川・横浜へ移転)との関係が深かった。大きな木造の蔵王権現立像(平安時代)が展示されていて場違いな感じがしたが、村井が総持寺に寄進したものらしい。自分のブログを検索したら、2011年に神奈川歴博の『曹洞宗大本山總持寺 名宝100選』で見ているかもしれない。あと、村井は最初の妻の没後、公家出身の日野西薫子と再婚する。薫子をモデルにした『山茶花の局(美人弾琴図)』という絵画がある(歌舞伎座所蔵)ことも思い出した。

 1926(大正15)年、村井は事業相続の準備もできないうちに62歳で急死し、翌年の金融恐慌の煽りで、銀行は休業に追い込まれ、遺族は村井の築いた事業・資産をほとんど手放すに至る。村井が日記や自伝を残さなかったこともあって、今では忘れられた存在になっているようだ。むかしのブログのメモによれば、「赤天狗」岩谷松平は、煙草の専売制以後は養豚業に乗り出して「岩谷らしく、それなりに楽しい」晩年を過ごした、と伝えられているという。どちらも楽しい人生だったのではないかしら。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする