○井波律子『中国侠客列伝』 講談社 2011.3
いまの時代に逆らうようだが、私は中国好きである。中国の美術が好き。文学が好き。料理が、演劇が、娯楽映画が、あやしい民間宗教が好き。しかし、何と言っても好きなのは、中国の歴史・文化を、華々しくいろどり続ける「侠の精神」である。
本書は、大きく「実の部」「虚の部」の二部構成を取り、前者では、春秋戦国、漢代、後漢末から東晋まで、主に史書に描かれた歴史上の侠客を、後者では、唐代伝奇、宋代の『水滸伝』、元・明・清代の戯曲に登場する侠客を、幅広く紹介する。中国史または中国物語文学の入門書として読むには、とても楽しい本である。
著者は「侠」を定義して、「なんらかの信義を根底とし、これをみずからの命をかけて貫徹しようとする姿勢」と述べている。やや歯切れの悪い定義だが、多様な表現形態に、幅広く網をかけようとすると、こうなってしまうのはやむを得ない。実際の中国の歴史には、大義にもとづく公憤型の侠も存在すれば、パーソナルな関係に基づく私憤型の侠も存在する。実力(武力)行使型もいれば、非武力型やパトロン型の大侠もいる。遊侠無頼から皇帝に成り上がった者あり、犯罪者あり、妓女や芸人あり。単独で行動する侠客もいれば、集団としての侠もある。慄然とするほど暴力的・破壊的な侠もあれば、超自然的で不可思議な侠、そこはかとなく可笑しみを感じさせる侠もある。
このように、類型はさまざまだが、ある人物の生き方が侠と呼ぶに値するか否かは、たぶん直感で「分かるひとには分かる」のである。私の場合、中国史や中国文学をひもとく目的は、侠客たちに出会う楽しみに尽きると言っても過言ではない。
なお、陳寿の『正史三国志』は、蜀の劉備の形容に「侠」を用いないそうだ。「侠」の字義には「派手な暴力的ポーズで人を威嚇し、威勢をふるう」というマイナスイメージがあるためで、同書では、曹操のほか、暴虐非道の董卓やエセ群雄の袁術に「侠」を用いているという指摘が、興味深かった。西晋末の流民集団のリーダーとなった祖逖(そてき)と郗鑒(ちかん)の事跡、元曲の『救風塵』と清代戯曲『桃花扇』の梗概は、本書によって初めて知った。
それから、清末の活動家、譚嗣同と梁啓超に侠の精神を見ていることには、全面的に同意。中国の近現代史を読んでいても、やっぱり大立者には、どこか侠者の風格があるように思う。国民党や共産党の時代になっても。著者は、「日本における侠客」として、江戸前期に成立する町奴、および幕末の志士をあげているけれど、私は『太平記』で活躍する悪党たちは、かなり侠客に近いものを感じる。どうでしょうか、井波先生。
いまの時代に逆らうようだが、私は中国好きである。中国の美術が好き。文学が好き。料理が、演劇が、娯楽映画が、あやしい民間宗教が好き。しかし、何と言っても好きなのは、中国の歴史・文化を、華々しくいろどり続ける「侠の精神」である。
本書は、大きく「実の部」「虚の部」の二部構成を取り、前者では、春秋戦国、漢代、後漢末から東晋まで、主に史書に描かれた歴史上の侠客を、後者では、唐代伝奇、宋代の『水滸伝』、元・明・清代の戯曲に登場する侠客を、幅広く紹介する。中国史または中国物語文学の入門書として読むには、とても楽しい本である。
著者は「侠」を定義して、「なんらかの信義を根底とし、これをみずからの命をかけて貫徹しようとする姿勢」と述べている。やや歯切れの悪い定義だが、多様な表現形態に、幅広く網をかけようとすると、こうなってしまうのはやむを得ない。実際の中国の歴史には、大義にもとづく公憤型の侠も存在すれば、パーソナルな関係に基づく私憤型の侠も存在する。実力(武力)行使型もいれば、非武力型やパトロン型の大侠もいる。遊侠無頼から皇帝に成り上がった者あり、犯罪者あり、妓女や芸人あり。単独で行動する侠客もいれば、集団としての侠もある。慄然とするほど暴力的・破壊的な侠もあれば、超自然的で不可思議な侠、そこはかとなく可笑しみを感じさせる侠もある。
このように、類型はさまざまだが、ある人物の生き方が侠と呼ぶに値するか否かは、たぶん直感で「分かるひとには分かる」のである。私の場合、中国史や中国文学をひもとく目的は、侠客たちに出会う楽しみに尽きると言っても過言ではない。
なお、陳寿の『正史三国志』は、蜀の劉備の形容に「侠」を用いないそうだ。「侠」の字義には「派手な暴力的ポーズで人を威嚇し、威勢をふるう」というマイナスイメージがあるためで、同書では、曹操のほか、暴虐非道の董卓やエセ群雄の袁術に「侠」を用いているという指摘が、興味深かった。西晋末の流民集団のリーダーとなった祖逖(そてき)と郗鑒(ちかん)の事跡、元曲の『救風塵』と清代戯曲『桃花扇』の梗概は、本書によって初めて知った。
それから、清末の活動家、譚嗣同と梁啓超に侠の精神を見ていることには、全面的に同意。中国の近現代史を読んでいても、やっぱり大立者には、どこか侠者の風格があるように思う。国民党や共産党の時代になっても。著者は、「日本における侠客」として、江戸前期に成立する町奴、および幕末の志士をあげているけれど、私は『太平記』で活躍する悪党たちは、かなり侠客に近いものを感じる。どうでしょうか、井波先生。
今の中国には、あるのでしょうかね……私にはどうも疑わしいのですが
狂にして直ならず。侗にして愿ならず、悾悾にして信ならずんば、吾は之を知らず
古之狂也肆、今之狂也蕩。
古之矜也廉、今之矜也忿戻。
古之愚也直、今之愚也詐而已矣。