○山口晃『ヘンな日本美術史』 祥伝社 2011.11
東京・丸の内オアゾの丸善で、本書を手に取って開けたら、おまけのポストカードがついていた。「ヘンとは何ですか」と迫る雪舟先生の前で、著者が「ハイ、すいません」と殊勝にうなだれている。まあ、これがなくても購入したとは思うのだが、三割くらいオマケに釣られて買ってしまった。あとで調べたら、全国どこの書店で買っても、ポストカードがついているわけではないらしい(※Mizuma Art Gallery blog)。その売り方は、ちょっとズルいんじゃないか、と思った。
本書は、数年前に著者がカルチャースクールで語った「私見 にっぽんの古い絵」に、内容を追加したものだという。分量や語りのスタイルは必ずしも統一が取れていないが、だいたい年代順にまとめられている。登場する作品と絵師は、『鳥獣戯画』、白描画、『一遍聖絵』、『伊勢物語絵巻』、『伝源頼朝像』、雪舟の『破墨山水図』『秋冬山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』、『洛中洛外図(舟木本、上杉本、高津本)』、『松姫物語絵巻』、『彦根屏風』、岩佐又兵衛、円山応挙、伊藤若冲、『光明本尊(正厳寺蔵)』、『六道絵(長徳寺蔵)』、河鍋暁斎、月岡芳年、川村清雄。こう眺めるだけで、スタンダードな美術史にとらわれない、著者の好みが見えて楽しい。
何よりも読みどころは、カバーの袖に印刷された謳い文句「絵描きの視点だからこそ見えてきた、まったく新しい日本美術史!」のとおり。実は好きじゃなかった『鳥獣戯画』の実物を目の当たりにしたとき、「墨が吃驚する程に綺麗」なことに、目から鱗を落とす。「この感じは、印刷した図版では絶対に分かりません」の言葉に、そうなのよね!と膝を打つ。ああ、やっぱり絵描きさんって「目の快楽」に正直で貪欲だなあ、と思ったのは、たとえば白描画の優品『枕草子絵』を見たときの記述。まずアラベスクな部分が目に入り、線に沿って見ていくと、それらが有機的な人体のフォルムや御簾のたわみになってくる。そのように見えてきた途端、「脳の知覚のスイッチがカチッカチッと切り替わる、このめくるめく感じ」という表現に、ゾクゾクして興奮した。美術は、哲学でなく知覚、知覚こそは湧き出る快楽のツボなのだ。
先行作品の印象の表現のしかたが、あまりにもストレートで、唸ってしまった箇所もたくさんある。有名な『伝・源頼朝像(神護寺蔵)』の見え方が、「『顔! 衣装! 背景!』とでも言いたくなるような、パーンとした色面対比」って、うますぎて笑い転げた。自分で絵を描いたことのない研究者には、ぜったい出来ない表現だと思う。
雪舟筆『慧可断臂図』に対しては、「この絵の『莫迦っぽさ』と云うのはどこから来るのだろう」といぶかる。いや、正直言って、私はこの絵があまり好きではなかったのだが、著者が正面切って言う「莫迦っぽさ」を考えているうち、だんだん愛着が湧いてきた。収録されている図版が、赤みを帯びた写真なのも、背を向けた達磨の温かみを感じさせていいのだ。ネットで『慧可断臂図』を検索すると、同一作品と思えないくらい、さまざまな諧調の図像が現れて混乱する。さて、本物はどんなだったかしら…。
あまりに下手な絵で、著者を驚愕させたのが『松姫物語絵巻』。山下裕二氏に聞いた話として、室町時代には、良い紙、良い墨、良い絵具で、字なども能書家を雇って書かせながら、絵だけをどうしようもない素人に描かせるという趣向があったらしい、という説を紹介する。えええ~。すごい文化国家だな、室町日本。片方で、狩野派、土佐派といった高度な技術に支えられた絵画を生み出しながら、同時にこんな素人絵に価値を認めるふところの深さに感服した。
ただ、確かに上記の説が腑に落ちる点もある。意識的なプロデュース作品でなければ、ただの下手くそ絵が、後世に残るわけはないのだ。著者は、近世の絵画についての章で「その時代の誰かが残そうと思わない限り、あんな紙っぺらや布っぺらはそうそう残るものではありません」という言い方で、「不遇の芸術家神話」を必要以上に好む日本人の傾向に、警鐘を鳴らしている。
偶然だが、ちょうどこの秋の展覧会と関係する記述も多い。上述の『松姫物語絵巻』はサントリー美術館の『絵巻』展に出ていたし、著者が「目の快楽に思い切り溺れてみていただきたい」と推奨する白描画の章では、大和文華館の『白描』展を思い出した。この二つは終了してしまったが、明治画壇の雄(むしろあだ花かな?)『月岡芳年』展は、太田記念美術館で11/25まで。江戸博で開催中の『川村清雄』は12/2まで。著者の評価を読んで、俄然、行きたくなった。
東京・丸の内オアゾの丸善で、本書を手に取って開けたら、おまけのポストカードがついていた。「ヘンとは何ですか」と迫る雪舟先生の前で、著者が「ハイ、すいません」と殊勝にうなだれている。まあ、これがなくても購入したとは思うのだが、三割くらいオマケに釣られて買ってしまった。あとで調べたら、全国どこの書店で買っても、ポストカードがついているわけではないらしい(※Mizuma Art Gallery blog)。その売り方は、ちょっとズルいんじゃないか、と思った。
本書は、数年前に著者がカルチャースクールで語った「私見 にっぽんの古い絵」に、内容を追加したものだという。分量や語りのスタイルは必ずしも統一が取れていないが、だいたい年代順にまとめられている。登場する作品と絵師は、『鳥獣戯画』、白描画、『一遍聖絵』、『伊勢物語絵巻』、『伝源頼朝像』、雪舟の『破墨山水図』『秋冬山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』、『洛中洛外図(舟木本、上杉本、高津本)』、『松姫物語絵巻』、『彦根屏風』、岩佐又兵衛、円山応挙、伊藤若冲、『光明本尊(正厳寺蔵)』、『六道絵(長徳寺蔵)』、河鍋暁斎、月岡芳年、川村清雄。こう眺めるだけで、スタンダードな美術史にとらわれない、著者の好みが見えて楽しい。
何よりも読みどころは、カバーの袖に印刷された謳い文句「絵描きの視点だからこそ見えてきた、まったく新しい日本美術史!」のとおり。実は好きじゃなかった『鳥獣戯画』の実物を目の当たりにしたとき、「墨が吃驚する程に綺麗」なことに、目から鱗を落とす。「この感じは、印刷した図版では絶対に分かりません」の言葉に、そうなのよね!と膝を打つ。ああ、やっぱり絵描きさんって「目の快楽」に正直で貪欲だなあ、と思ったのは、たとえば白描画の優品『枕草子絵』を見たときの記述。まずアラベスクな部分が目に入り、線に沿って見ていくと、それらが有機的な人体のフォルムや御簾のたわみになってくる。そのように見えてきた途端、「脳の知覚のスイッチがカチッカチッと切り替わる、このめくるめく感じ」という表現に、ゾクゾクして興奮した。美術は、哲学でなく知覚、知覚こそは湧き出る快楽のツボなのだ。
先行作品の印象の表現のしかたが、あまりにもストレートで、唸ってしまった箇所もたくさんある。有名な『伝・源頼朝像(神護寺蔵)』の見え方が、「『顔! 衣装! 背景!』とでも言いたくなるような、パーンとした色面対比」って、うますぎて笑い転げた。自分で絵を描いたことのない研究者には、ぜったい出来ない表現だと思う。
雪舟筆『慧可断臂図』に対しては、「この絵の『莫迦っぽさ』と云うのはどこから来るのだろう」といぶかる。いや、正直言って、私はこの絵があまり好きではなかったのだが、著者が正面切って言う「莫迦っぽさ」を考えているうち、だんだん愛着が湧いてきた。収録されている図版が、赤みを帯びた写真なのも、背を向けた達磨の温かみを感じさせていいのだ。ネットで『慧可断臂図』を検索すると、同一作品と思えないくらい、さまざまな諧調の図像が現れて混乱する。さて、本物はどんなだったかしら…。
あまりに下手な絵で、著者を驚愕させたのが『松姫物語絵巻』。山下裕二氏に聞いた話として、室町時代には、良い紙、良い墨、良い絵具で、字なども能書家を雇って書かせながら、絵だけをどうしようもない素人に描かせるという趣向があったらしい、という説を紹介する。えええ~。すごい文化国家だな、室町日本。片方で、狩野派、土佐派といった高度な技術に支えられた絵画を生み出しながら、同時にこんな素人絵に価値を認めるふところの深さに感服した。
ただ、確かに上記の説が腑に落ちる点もある。意識的なプロデュース作品でなければ、ただの下手くそ絵が、後世に残るわけはないのだ。著者は、近世の絵画についての章で「その時代の誰かが残そうと思わない限り、あんな紙っぺらや布っぺらはそうそう残るものではありません」という言い方で、「不遇の芸術家神話」を必要以上に好む日本人の傾向に、警鐘を鳴らしている。
偶然だが、ちょうどこの秋の展覧会と関係する記述も多い。上述の『松姫物語絵巻』はサントリー美術館の『絵巻』展に出ていたし、著者が「目の快楽に思い切り溺れてみていただきたい」と推奨する白描画の章では、大和文華館の『白描』展を思い出した。この二つは終了してしまったが、明治画壇の雄(むしろあだ花かな?)『月岡芳年』展は、太田記念美術館で11/25まで。江戸博で開催中の『川村清雄』は12/2まで。著者の評価を読んで、俄然、行きたくなった。