○橋本健二『階級都市:格差が街を侵食する』(ちくま新書) 筑摩書房 2011.12
理論・データ・フィールドワークから迫る「東京」論。実質的な序論である第1章の前に置かれた短章「東京のなかの東北」は、東日本大震災を受けて、付け加えられたのではないかと思う(憶測です)。2005年のSSM調査に基づき、東京在住者の出身地別分析が掲載されているが、東北出身者は圧倒的に下町居住者で、労働者階級比率が高い。ああ、今でもそうなのか、と思った。私の祖母(大正生まれ)は東北出身で、結婚後、東京に移住してきた。祖父は町工場の労働者だったらしい。私の父(昭和1けた生まれ)も下町で育ったが、大学に進学し、労働者階級から新中間階層に抜け出して、山の手に家を買った。長女の私は下町生まれだが、両親に従って山の手に引っ越し、以来、下町との縁は切れた。
全くの私事であるが、そんなふうに東京とともに生きてきた自分には、理論的にも心情的にも納得できるところが多く、興味深かった。
第2章は、なぜ、都市空間には社会構造(格差・階級)が投影されるかという理論づけ。ただ、これは歴史の薄い北米都市がモデルになっていて、ヨーロッパや日本には、ストレートに応用しがたいと思う。第3章から、いよいよ焦点を「東京」に絞り、江戸時代に始まる「下町」「山の手」二分法の淵源と変遷をたどる。両者がどれほど隔絶した「異国」だったか。しかし、近代の始めまで、経済・交通・文化などの多くの面で優位を占めるのは下町で、山の手は物寂しく交通も不便だった。
ところが、関東大震災とその後の都市計画によって、東京は「新中間層が住む山の手」「繁華街に成長した古い下町」「工場地帯で労働者階級の住む新しい下町」の三元構造に姿を変えていく。さらに戦災(空襲)を経て、下町はやはり工場地域として復興し、旧下町+旧山の手はオフィス街となり、新山の手(東京西部)が新中間層の住宅地として人口を急増させていく。このへんは、私の自分史そのものである。私は、都心(旧山の手)の私立中学に、下町から通っていた。同級生には新山の手の居住者が多かったから、東京の東と西の空気の違いは、肌身に沁みて、覚えている。しかし、70~80年代までは「下町」も「山の手」も、豊かな消費社会の中で消費されるイメージでしかなかった。
第4章では、次々と統計データを繰り出し、バブル崩壊後の東京23区に起きた格差の拡大を見せつける。いやほんとに、東京住人としては、データを見ているのが苦しくなる。高等教育卒業者比率、生活保護率、平均寿命、などなど。地下鉄でわずか二駅か三駅、毎日通り過ぎている、あの区とこの区の間に、こんな格差が存在するのかと思うと。北区や文京区のジニ係数が高いのはちょっと意外。下町では、比較的若い新中間階級の流入による「ジェントリフィケーション」が起きている一方、貧困層の集積も進んでいるという。山の手は、豊かな住宅地域としての特質を失っていない、と書いてあるけれど、高齢化の進行によって、急速に貧困化する可能性もあるように思う。
第5章は、趣きを変えて、階級都市・東京を実感しながら歩く5つのコースを紹介する。(1)港区、(2)文京区、(3)板橋と練馬、(4)世田谷区、(5)足立区。著者おすすめの居酒屋紹介つき。はじめて著者の本を読む読者はびっくりだろうが、『居酒屋ほろ酔い考現学』の愛読者なら、思わずニンマリしてしまう好企画である。文学や映画にあらわれた東京の風景を、ところどころに引用するスタイルも、相変わらず上手い。徳永直の『太陽のない街』が、東京高等師範学校(のちの教育大)を訪ねる摂政宮(昭和天皇)の描写で始まる、なんて知らなかった。摂政宮が遠望する「谷底の町」が、千川通り沿いの印刷工場の密集地であるということも。この小説、読んでみたい。
終章では、多様な地域、多様な住民が織りなすモザイクのような都市空間の魅力を語る。そう、やっぱり私は都市が好きだ。3年間、埼玉県の郊外に暮らしたが、あの、のっぺりした「ジャスコ的空間」には耐えられない。しかし、地域間の格差は小さいほうがいい。「地域の多様性が保たれ、しかも地域間の格差が小さい」都市。それは理想的かもしれないが、本当にそんな都市が実現可能なのだろうか。急ぎ足の結論を読みながら、ぼんやり考え込んでしまった。
※橋本健二の居酒屋考現学(更新頻度、高いなあ…)
http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/
理論・データ・フィールドワークから迫る「東京」論。実質的な序論である第1章の前に置かれた短章「東京のなかの東北」は、東日本大震災を受けて、付け加えられたのではないかと思う(憶測です)。2005年のSSM調査に基づき、東京在住者の出身地別分析が掲載されているが、東北出身者は圧倒的に下町居住者で、労働者階級比率が高い。ああ、今でもそうなのか、と思った。私の祖母(大正生まれ)は東北出身で、結婚後、東京に移住してきた。祖父は町工場の労働者だったらしい。私の父(昭和1けた生まれ)も下町で育ったが、大学に進学し、労働者階級から新中間階層に抜け出して、山の手に家を買った。長女の私は下町生まれだが、両親に従って山の手に引っ越し、以来、下町との縁は切れた。
全くの私事であるが、そんなふうに東京とともに生きてきた自分には、理論的にも心情的にも納得できるところが多く、興味深かった。
第2章は、なぜ、都市空間には社会構造(格差・階級)が投影されるかという理論づけ。ただ、これは歴史の薄い北米都市がモデルになっていて、ヨーロッパや日本には、ストレートに応用しがたいと思う。第3章から、いよいよ焦点を「東京」に絞り、江戸時代に始まる「下町」「山の手」二分法の淵源と変遷をたどる。両者がどれほど隔絶した「異国」だったか。しかし、近代の始めまで、経済・交通・文化などの多くの面で優位を占めるのは下町で、山の手は物寂しく交通も不便だった。
ところが、関東大震災とその後の都市計画によって、東京は「新中間層が住む山の手」「繁華街に成長した古い下町」「工場地帯で労働者階級の住む新しい下町」の三元構造に姿を変えていく。さらに戦災(空襲)を経て、下町はやはり工場地域として復興し、旧下町+旧山の手はオフィス街となり、新山の手(東京西部)が新中間層の住宅地として人口を急増させていく。このへんは、私の自分史そのものである。私は、都心(旧山の手)の私立中学に、下町から通っていた。同級生には新山の手の居住者が多かったから、東京の東と西の空気の違いは、肌身に沁みて、覚えている。しかし、70~80年代までは「下町」も「山の手」も、豊かな消費社会の中で消費されるイメージでしかなかった。
第4章では、次々と統計データを繰り出し、バブル崩壊後の東京23区に起きた格差の拡大を見せつける。いやほんとに、東京住人としては、データを見ているのが苦しくなる。高等教育卒業者比率、生活保護率、平均寿命、などなど。地下鉄でわずか二駅か三駅、毎日通り過ぎている、あの区とこの区の間に、こんな格差が存在するのかと思うと。北区や文京区のジニ係数が高いのはちょっと意外。下町では、比較的若い新中間階級の流入による「ジェントリフィケーション」が起きている一方、貧困層の集積も進んでいるという。山の手は、豊かな住宅地域としての特質を失っていない、と書いてあるけれど、高齢化の進行によって、急速に貧困化する可能性もあるように思う。
第5章は、趣きを変えて、階級都市・東京を実感しながら歩く5つのコースを紹介する。(1)港区、(2)文京区、(3)板橋と練馬、(4)世田谷区、(5)足立区。著者おすすめの居酒屋紹介つき。はじめて著者の本を読む読者はびっくりだろうが、『居酒屋ほろ酔い考現学』の愛読者なら、思わずニンマリしてしまう好企画である。文学や映画にあらわれた東京の風景を、ところどころに引用するスタイルも、相変わらず上手い。徳永直の『太陽のない街』が、東京高等師範学校(のちの教育大)を訪ねる摂政宮(昭和天皇)の描写で始まる、なんて知らなかった。摂政宮が遠望する「谷底の町」が、千川通り沿いの印刷工場の密集地であるということも。この小説、読んでみたい。
終章では、多様な地域、多様な住民が織りなすモザイクのような都市空間の魅力を語る。そう、やっぱり私は都市が好きだ。3年間、埼玉県の郊外に暮らしたが、あの、のっぺりした「ジャスコ的空間」には耐えられない。しかし、地域間の格差は小さいほうがいい。「地域の多様性が保たれ、しかも地域間の格差が小さい」都市。それは理想的かもしれないが、本当にそんな都市が実現可能なのだろうか。急ぎ足の結論を読みながら、ぼんやり考え込んでしまった。
※橋本健二の居酒屋考現学(更新頻度、高いなあ…)
http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/