見もの・読みもの日記

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独断専行の理想と現実/関東軍(及川琢英)

2023-08-17 23:24:45 | 読んだもの(書籍)

〇及川琢英『関東軍:満州支配への独走と崩壊』(中公新書) 中央公論新社 2023.5

 関東軍は日本陸軍の出先機関の一つで、関東州と満鉄を保護するための兵力であったが、多くの謀略に関与した。「まえがき」の「自分たちだけで勝手に判断して行動するような組織や人物を批判する際、よく関東軍に譬えられ、独走は関東軍の代名詞にもなっている」という説明に笑ってしまった。私はさすがにこの比喩を使ったことはないが、古いドラマや小説のセリフでは聞いたことがある。本書は時代順に、関東軍誕生から崩壊までの軌跡をたどる。

 まず前史として、「関東」とは山海関以東の地、すなわち満州を意味すること、日本は日露戦争によって満蒙権益を得たことが語られる。この権益を管理・保護するためにどのような組織を置くか、組織の長は武官か文官か、さまざまな争いがあった。

 1919年、民政を担当する関東庁と兵権を有する関東軍が設置された。そしてこの、文官の総督と軍司令官の並立という制度は、朝鮮、台湾にも導入される。「文官が直接、出先軍を統制する道が開かれることはなかった」ことは留意しておきたい。また陸軍には、独断専行を奨励する気風があった。「陣中要務令」(教科書)には「自ら其目的を達し得べき最良の方法を選び、独断専行以て機会に投ぜざるべからず」という語句があるらしい。いや、趣旨は正しいと思うが、教条と現実の違いは難しいものだ。加えて、出先軍の長官は、陸軍三長官(陸相、参謀総長、教育総監)と「同格」と定められていたので、関東軍は、陸軍中央の指示を無視しても、天皇の意図を忖度し、独断専行を貫くことになる。

 1928年、張作霖爆破事件が起き、1931年9月には柳条湖事件が起きる。関東軍は、奉天、長春、営口、吉林などを占領、陸軍中央が撤兵を指示しても、うやむやのまま引き延ばした。国内主要紙は謀略を疑うことなく、軍に好意的な報道を繰り返し、関東軍は世論を味方につけていた。ここ重要。若槻内閣と陸軍中央の穏健派は強く撤退を求めたが、関東軍もあきらめず、犬養毅内閣・荒木陸相の下、独立国家樹立へと加速する。そして1932年3月1日、満州国建国が宣言された。

 関東軍は、さらに熱河省を占領し、1933年5月に中華民国と塘沽停戦協定を締結する。以後、関東軍は、旧唐北軍や民間自衛集団、中国共産党指導下のパルチザン部隊など、さまざまな反満抗日軍の封じ込めに注力する(映画『崖上のスパイ』の時代だな、と思い出すなど)。

 満州国の政治経済体制も徐々に整えられたが、関東軍が満州国の統制権を完全に手放すことはなかった。石原莞爾が主導する関東軍は、対ソ戦準備のため、華北・内モンゴルへの進出を続けたが、中国との軋轢が徐々に深まる。1937年7月7日、盧溝橋事件を発端として、日中両国は全面戦争に突入する。1939年5月に始まるノモンハン事件で、日本・満州国軍はソ連・モンゴル軍に敗れ、敗北の責任をとって関東軍首脳の更迭が行われた。それでも関東軍は、対ソ攻勢作戦の機会を窺っていたが、ソ連の侵攻を受け、居留民の保護も果たせず、崩壊してしまった。

 通読して、あらためて、むちゃくちゃな話だなあと思った。近代と言っても、まだまだこんな野蛮がまかり通っていたのかと呆れた。一方で、私が時々思い出していたのは『孫子』の「君命に受けざるところあり」という言葉で、『孫子』には、君主は軍事に関して将に全権を委任すべきとか、国政と軍政は原則が異なるという主張が書かれていたと記憶する。そうであれば「独断専行」は軍事のあるべき姿かもしれない。しかし、やっぱり教条の理想には、現実の混乱を収拾する力がないと思う。

 ちょっと興味深く思ったのは、満州国軍の評価の高さである。現地人部隊が抗日勢力に流れることを防止するという打算的な一面もありつつ、石原莞爾は、日中親善のために満州国の協和的な発展を理想とし、満州国軍の整備に注力した。しかし石原の理想のようにはならず、満系やモンゴル系軍官は不満を強め、その経験や知識とともに、日本の支配を脱した東アジア各地の軍に移行していったという。ここにも、理想を裏切った現実があるように思った。


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