見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

華麗なる法脈/妙心寺(東博)

2009-02-15 17:16:14 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 特別展『妙心寺』(2009年1月20日~3月1日)

http://www.tnm.go.jp/

 京都・妙心寺の開祖(初代住持)、関山慧玄(かんざんえげん)の650年遠諱(おんき)を記念する展覧会。「遠諱」というのは、50年毎に行われる大法要(平成21年=650回忌)をいうそうだ。ちなみに妙心寺のホームページでは、関山慧玄の没年を「1360年」と記載しているが、Wikiは「正平15年/延文5年12月12日=1361年1月19日」とする。太陰暦と太陽暦のすり合わせが難しいところだ。

 会場に入ると、まず、その関山慧玄(無相大師)の坐像に正面から迎えられる。明暦2年(1656)の作だというが、江戸時代の仏師もなかなかやるな。温和な微笑みの中に厳しさが宿り、生半可なことを言えば、手に持った竹篦(しっぺい)がピシリと動きそうだ。椅子には紫の金襴を打ち敷き、足元には花瓶・香炉・燭台の三具足を備え、典型的な頂相図の図様である。この展覧会には多くの頂相図が出ているが、最も古いのが『六代祖師像』(鎌倉時代)。磨滅して顔も明らかでないが、のびのびと柔らかな描線が、形式化する以前の頂相図の趣きを伝える。面白いのは、後代の頂相図では、脱いだ靴はきちんと揃えて描かれるのが一般的なのに、この『六代祖師像』では、男子校の下駄箱みたいにバラけて脱ぎっぱなしだ。

 関山慧玄は、その号を宗峰妙超(大燈国師、大徳寺開山)から与えられた。このひとの墨蹟はいいなあ。「関山」の二文字を大著したのもいいし(恥じらうような「関」の字のよじれ具合)、『印可状』もいい。マッチ棒を並べたような、いい加減な書体なのに、筆の走りに美しさがあって好きだ。変わったところでは、関山慧玄の塔所(墓所)の外陣に掛けられた瑠璃天蓋。小さなガラス玉を編んでつくったもの。編み込みで文字を表したり、花のかたちにひねったり、さまざまな技巧を凝らす。中国製(明代)だ。高麗製の小物入れ『菊唐草文玳瑁螺鈿合子(きくからくさもんたいまいらでんごうす)』も、うっとりするほど美しい。禅宗って、意外とラブリー好みなのである。

 妙心寺の実質的な創立者、花園法皇に関する豊富な資料も興味深かった。明暦4年(1658)作の木像『花園法皇坐像』は似てるのかなあ。肖像画で見慣れたお顔とは印象が異なる。ピンと張った耳が、ちょっとヨーダみたい。作者の七条仏師・康知は「運慶十九代」を名乗ったそうだ(運慶流だ!)。

 後半は、妙心寺とその法脈・檀越に関係する、歴史資料や美術品を紹介。私は、山梨・恵林寺(えりんじ)の快川紹喜の書が気に入った。信長に攻められ、焼き殺された人物だが、その弟子・南化玄興は妙心寺58世となり、信長の帰依を受ける。戦国の世は厳しいなあ。西暦「1577」と「IHS」(イエズス会)の紋章が刻まれた南蛮寺の鐘が妙心寺塔頭・春光院に伝わるのも信長つながり? 確かに西洋のベル型で口径部が広い。

 絵画は、等伯、探幽、蕭白、白隠など贅沢なラインナップだが、予想もしていなかったのが、狩野山雪筆『老梅図襖 旧天祥院障壁画』(米国メトロポリタン美術館蔵)。一目見て、これは山雪の!と思ったが、本当に以前から知っていたかは疑わしい。同じ妙心寺の塔頭・天球院の『梅に遊禽図襖』の印象(これも図録でしか見たことない)と混同しているかもしれない。まあいいや。交響楽のように計算しつくされた迫力の構図はこちら(禅文化研究所)のサイトで。左端に添えられた躑躅の赤と山椿(?)の白が効いていると思う。

■展覧会公式サイト
http://www.myoshinji2009.jp/

■妙心寺
http://www.myoshinji.or.jp/

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無名の人びとの生/「いのち」と帝国日本(小松裕)

2009-02-14 22:18:47 | 読んだもの(書籍)
○小松裕『「いのち」と帝国日本』(全集 日本の歴史 第14巻) 小学館 2009.1

 タイトルを見てドキリとした。ずいぶん正面切ったタイトルを付けたものだ。歴史とは人の記録であり、生命(いのち)の記録に他ならない。けれども、普通、私たちは、歴史を学ぶとき、そこで消えていった無数の「いのち」のひとつひとつには気を配らない。そんなことを気にしていては、大局的な政治や制度の変遷を把握することができないと思うからだ。本書のタイトルは、そんな常識に抵抗する意思を表していると思った。

 本書が扱うのは、1894年(明治27)の日清戦争から、1904年(明治37)の日露戦争を経て、1920年代まで。この時期、近代国家権力の本質ともいうべき「いのち」の序列化が行われた。著者は序列化の尺度として、(1)文明、(2)民族、(3)国益、(4)ジェンダー、(5)健康、の5つを挙げる。十分に文明化(近代化・西洋化)されていない人々(アイヌ民族や台湾の先住民族)、植民地・アジアの人々、市場原理に基づく国益・公益の邪魔になる人々(公害問題)、そして、女性、病者・障害者の「いのち」が、どのように軽んじられ、虐げられたかを、多くの実例に即して、具体的に明らかにしていく。

 「旧土人」と呼ばれ、同化を強制されたアイヌ民族。「民族浄化」政策に曝されたハンセン病患者。長時間労働と搾取に加えて、夜這いなどの性的被害も受けていた女工たち(ただし、それでも農村よりはいい暮らしができると考えて、自らの意志で女工になるケースも多かった)。華やかな夜の顔とは裏腹に、冷えたご飯で昼食をとる娼妓の日常。関東大震災下の朝鮮人虐殺や、台湾における抗日霧社蜂起も詳述されている。要所要所に挟まれた小さな写真、包帯の巻き直し作業をするハンセン病患者たちや、惨殺された朝鮮人の死体の山には、沈思を迫るものがある。

 いのちと暮らしを守るための民衆運動として、著者が高く評価するのが、足尾鉱毒事件と米騒動である。米騒動(1918=大正7年)の基本は、「集団の圧力による廉売強制」だった。民衆は、1升50銭まで急騰していた米を25銭前後まで値下げさせ、その価格で買い取った。門戸や障子を破るという打ちこわしは、廉売要求に応じさせるためのほのめかしであり「米などの略奪の例はきわめて少ない」そうだ。へえ~そうなのか。これは、集団の圧力で適正価格(徳義=モラル)を実行させるという、東西共通の民衆の実力行使パターン「モラル・エコノミー」の最後の発動だった、と著者は考える。

 本書には「大正デモクラシー」と呼ばれる政治の動きは、ほとんど記述されていない。この点について、著者は最後に「総体として『大正デモクラシー』と表現できるだけの内実を伴っていたのか」「(もしそうであれば)なぜあんなにもろくファシズムに屈してしまったのか」と厳しく問いかける。重たい問いであると思う。「これまでの『歴史』が、あまりにも政治史や経済史中心、そして男性中心的でありすぎた」という反省のもとに書かれた、異色の日本近代史である。歴史学者としての著者の誠実さが、読む者の襟を正させる。
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肥前早春紀行(4):運慶流(佐賀県立美術館)

2009-02-12 23:55:26 | 行ったもの(美術館・見仏)
○佐賀県立美術館 特別展『運慶流』(2009年1月1日~2月15日)

http://www.pref.saga.lg.jp/at-contents/kanko_bunka/k_shisetsu/hakubutu/

 長崎のホテルで目を覚まして、え!と時計を見直した。セットしたモーニングコールが鳴らなかったのである。そこで、午前と午後の予定を入れ替え、佐賀に直行と決める。特急かもめで約1時間。

 美術館に入り、チケットを買って、大きな荷物をコインロッカーに預けていたら、遠くからこの展覧会を見に来た客だと分かったのだろう、チケット売り場の女性が、わざわざ寄って来て「あの、もし図録を買われる予定でしたら、先に買われたほうがいいですよ。もうすぐ無くなりますから」と教えてくれた。お礼を言って、まず売店で図録をGET。テーブルの上の残部は10部程度だった。2時間ほどして、私が会場を出たときはもう「完売」になっていたから、アドバイスがなかったら、完全に買い逃していたと思う。感謝々々。

 私が会場に入るとまもなく、竹下さんという学芸員さんによるギャラリートークが始まった。この展覧会は、「慶派」という名前で括られることの多い仏師一門のうち、端正で貴族たちに愛好された「快慶流」は置いといて、溌剌とした生命感、力強さで武士たちの支持を得た「運慶流」に焦点を絞ったもの。12世紀の「初代」運慶以下、14世紀の「六代」までの世代を紹介する。

 第1室は、京都・六波羅蜜寺の運慶像、栃木・光得寺の大日如来像など、全国から集められた優品が並ぶ。後者は、東京国立博物館の常設展でお馴染みのもの。運慶作品として、厨子・台座・光背・仏像が、制作当時の姿を完備している、きわめて珍しい例だそうだ(もう1例は、興福寺北円堂の弥勒像の試作品とおっしゃったかしら?)。金泥と金箔の光りかたの違い、蓮の花びらからこぼれる水晶の露、高く結い上げた髷の後ろの特徴的な表現など、初めて教えられたことが多かった。京都・佛光寺の聖徳太子像は、角髪(みずら)の少年だが、凛々しいというより、怖いくらいの威圧感がある。

 13世紀後半に活躍した「四代」湛康は、九州に作品を残している。佐賀・円通寺の持国天・多聞天像は、いかにも「運慶流」らしい重量感と力強さ漲る作。ぐるり四方をまわってみて、破綻のない立体感に感嘆する。佐賀・三岳寺の薬師・大日・十一面の三尊(こんなセットあり?)も湛康の作。どちらも、永仁2年(1294)千葉宗胤の菩提を弔うために作られた。千葉宗胤は関東の千葉氏の傍流だが、蒙古襲来に備えて九州に下向させられ、そのまま土着してしまった九州千葉氏の祖である。この時代、日本各地の武士たちが九州に集結した結果として、武家好みの運慶流の仏師たちが、九州にたくさんの作品を残すことになった。なるほど、美術史の展開って、実はさまざまな社会変動と密接にかかわっているんだなあ、と納得。

 どうしてこの『運慶流』展が佐賀に巡回したのかも、解説を聞いて、よく分かった。でも、昨年の山口県立美術館では『運慶流-鎌倉・南北朝の仏像と蒙古襲来』というタイトルだったのに、佐賀ではどうして副題を取っちゃったんだろう? 副題があるほうが、テーマが明確だったと思うのに。

 「五代」康誉作の如意輪観音像(福岡・大興善寺)も、かなりこわもてである。如意輪観音といえば、色っぽい仏像の代表なのに、襤褸(ぼろ)をまとった夜盗の親分みたいだ。これが「六代」(14世紀中葉)になると、一転して、繊細で貴族的な造形になる。とりあえず亡国の危機が去り、室町幕府が開かれた時期のことだ。康俊(東寺大仏師)作の宮崎・大光寺の地蔵菩薩像は、しどけなくて色っぽいなあ(※山口の展覧会では「セクスィー地蔵さま」と呼ばれている)。同寺の文殊五菩薩像は、「プニプニした」(学芸員さん)白い肌の善財童子をはじめ、手堅い造形なのに、どこか愛らしさがこぼれる。獅子の背後にまわると、ガニマタの股間がリアルで可笑しい。

 兵庫・慧日寺の釈迦三尊像は、今回が寺外での初公開。目元涼しい美形トリオだが、彩色が見えないほどのホコリをかぶっていたそうだ。苦労話はこちら(佐賀新聞)で。両脇侍の銅製の光背・宝冠の細工が素晴らしく、本尊の木製光背もいい。ちょんと片足を揚げた迦陵頻伽が魅力的。この美しい仏像をつくった康俊(東寺大仏師)が、実は傍系から「のし上がった」仏師であるという図録の解説を読んで、私は長谷川等伯のイメージと重なるように思った。

 まだまだ語れば話題は尽きない。九州各地の仏像の名品をまとめて見ることができ、メリハリのあるギャラリートークも楽しかった。大満足。

■『運慶流』学芸員ブログ(山口県立美術館)
http://www.yma-p.jp/blog/index.php

■ひびのスタイル(佐賀新聞)『特別展 運慶流の世界』
http://www.saga-s.co.jp/life/photos_top/unkeiryu_top.html
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肥前早春紀行(3):長崎ランタンフェスティバルの夜、他

2009-02-11 08:44:47 | 行ったもの(美術館・見仏)
○長崎:眼鏡橋~中央公園、長崎歴史文化博物館

 気がつけば、とっぷり日暮れた長崎の町のあちこちに、光のタワーのような巨大ランタンオブジェが忽然と現れる。いや、昼間からそこに立ってはいたのだけれど…。



 川沿いに吊るされたランタンの列が水面に映り、光の輪の中を鯉が悠然と泳いでいく。かつて、中国雲南省の麗江でも、ベトナムのホイアンでも、こんなふうにランタンで新年を祝う人たちを見た。共通するのは、どの街も中心部を川や水路が巡っていたこと。水の豊富な町だから、火のお祭りができるのだろう。ああ、日本って東アジア文化圏の一員なんだなあ、と実感する。写真の眼鏡橋も、唐僧と中国人技術者たちが架けたものだという。



 終着点は中央公園。やっぱり、私の一番のお気に入りオブジェは孫悟空である。夜空を背景に見栄を切る姿がカッコイイ!



 さて、2日目(日曜日)。佐賀の県立美術館(後述)を見て、再び長崎に戻り、少し時間があったので、強行軍を承知で、歴史文化博物館を見に行く。予想よりずっと大規模な施設で、びっくり。体験型のアトラクションが数多く提供されていて、子どもたちが楽しそうだった。中高年には、ちょっとごちゃごちゃし過ぎて、落ち着かない。導線がはっきりしないので、美術・工芸の部屋を見逃してしまった。

 ここでも「長崎→オランダ」という連想が、もはや過去のものであることを感じさせた。歴史文化展示ゾーンでは「中国との交流」が「オランダとの交流」と同規模で扱われ、さらに「朝鮮との交流」にも目配りされている。唐通事の会所はここにあったのか、とか、阿蘭陀通詞・吉雄耕牛の家はこのへんか、という調子で、現代の市街図との対比が興味深い。次回は、まずこの博物館で十分予習をしてから、街を歩き始めよう。
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肥前早春紀行(2):長崎ランタンフェスティバルの夜

2009-02-10 00:54:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
○長崎:浜町アーケード~新地中華街~唐人屋敷

 崇福寺から下って、浜町アーケードへ。そろそろ人も増え、ランタンに灯がともり始める。中国の故事や神話に基づく巨大オブジェが楽しい。下図は諸葛孔明らしいが、手の中にあるべき芭蕉扇を、誰かが持ち去った様子。ケシカラン。



 新地中華街は、身動きできないほどの人波。レストラン厨房の裏道を抜けて、ようやくフェスティバルのメイン会場である湊公園にたどり着く。華やかなランタンオブジェが林立する中、ランタンではない、異色のオブジェを見つけて、ぎゃっと驚いてしまった。皿とれんげとデミタスカップで組み立てられた孔雀(鳳凰?)。これは…いわゆる「一式飾」ではないか。話には聞いているが、これまでサントリー美術館の『KAZARI』展で見たのが唯一だった。写真、龍のオブジェ(これはランタン)の下でくつろぐ猫にも注目。



 さらに驚いたのは(※グロ注意)ガラスに囲まれた関帝廟の内陣風景。小さな関帝像の前に供えられているのは、豚の頭部である。その数、二十余り。中央には、ヘンな色に蒸しあがった仔豚の丸焼きも。全て正しく顔を拝礼者のほうに向けている。うええ~。ほんとにここは日本なのか?



 それから、鎖国時代に唐人(中国人)たちが居住していた唐人屋敷地区へ。赤い蝋燭を持って、土神堂~観音堂~天后堂~福建会館観音堂の四堂を巡拝する。四角くレンガを積んだだけの素っ気ない造りが、いかにも中国の田舎の寺廟みたいだった。土神堂の裏の坂段市場の風情は、映画で見た台湾の九份を思わせる。感激。今度、ゆっくり来てみたい。(続く)

■長崎ランタンフェスティバル(2009年1月26日~2月9日)(※音が出ます)
http://www.nagasaki-lantern.com/
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肥前早春紀行(1):長崎出島・寺町界隈

2009-02-09 23:15:31 | 行ったもの(美術館・見仏)
○長崎:出島~興福寺~崇福寺

 2004年12月以来の長崎。前回は「B級史跡めぐり」(同行人の言葉)に徹して、メジャーな観光地にはどこも寄らなかった。なので、今回、最初に向かった出島跡は、指折り数えてみると10年ぶりになる。当時は、限られた展示施設の隣りで、史跡整備工事が進行中だった。今や、商館長の住まいなど、復元された10棟が立ち並ぶ。家具や装飾は凝りに凝っていて、楽しい。たとえば下記は、川原慶賀の『ブロンホフ家族図』(→画像)に描かれたソファのつもり。



 私の「出島」に対する認識も、この数年ですいぶん変わった。以前は、学校の日本史で習ったまま、「鎖国」時代の日本が、「オランダ」一国に向かってしぶしぶ開いた裏口だと思っていた。けれども、当時のオランダ東インド会社はグローバルビジネスの総合商社みたいなもので、徳川政権は、オランダ商社と独占契約を結んだ、と考えるほうが実態に近いんじゃないかと思う。実際は、世界中の物産と情報が、この「出島」を介して日本各地にもたらされ、新しもの好きの民衆から知識人までを熱狂させた。最新の科学知識、外交的な機密情報、珍奇なもの、美しいもの、美味しいもの…。そう考えると、以前の何十倍もわくわくする。

 展示の解説板で初めて知ったことがたくさんあった。出島の倉庫が花の名前で呼ばれていた(「パラ」蔵など)とか、商館長ブロンホフが作らせた出島の立体模型が、今もライデン国立民俗博物館に保存されているとか、カピタン部屋を訪ねた司馬江漢の絵には書斎(図書室)が描かれているとか(蔵書はどうなったんだろう!?)。長崎くんちに登場する、本石灰町の御朱印船の帆には、オランダ東インド会社のVOCマークが逆さに描かれているという。えー見たい!

 惜しむらくは、ミュージアムショップがあるのに、適当な解説図録を売っていなかったこと。公式ウェブサイト『甦る出島』もいまいちだなあ。写真が小さくて、現場の楽しさが伝わらない。企画展示『出島のプリントウェア~海を越えてきた西洋陶器の華~』は、最近の私の関心と一致して、面白かった。

 続いて、長崎四福寺のうち、ランタンフェスティバルの会場にもなっている興福寺崇福寺界隈を歩く。興福寺の境内の空高く、不思議なかたちの吹き流しがはためいていると思ったら、「興福寺幡」と言って、これが上がると、町の人たちは「そろそろ唐船が入る」と知ったのだそうだ(崇福寺にもあった)。



 唐寺の境内には、トマトのような赤い提灯(紅灯)が所狭しと吊るされ、今にも甘い江南風の中国語が聞こえてきそうな異国ムードにうっとりする。街路には、「万事如意」「合境平安」と書かれたピンクと黄色のひょうたん型提灯も。「合境平安」は「四海平穏」みたいな意味の中国語らしい。(続く)


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長崎のトルコライス(ファミレス風)

2009-02-08 23:58:07 | 食べたもの(銘菓・名産)
週末1泊2日で長崎に行ってきた。お目当ては、
・長崎ランタンフェスティバル
・佐賀県立美術館の『運慶流』展

どちらも素晴らしかった。追々報告するとして、食べたものは、まず長崎のローカルメニュー、トルコライス。ただし、Wikiでは「豚カツ・ピラフ・スパゲッティ・サラダを一つの皿に載せた料理」と定義されているので、これはちょっと邪道のファミレス・バージョン。(豚カツの代わりに、ハンバーグと海老フライ)



それから、ぶらぶら歩きの合間に食した長崎名物。
・角煮割包(マントウに東坡肉を挟んだもの)
・ハトス(エビのすり身をパンに挟んで揚げたもの)
・チリンチリンアイス(屋台で売り歩くアイスクリン、100円)

いずれも美味でした。
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文楽・女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく).

2009-02-07 00:51:07 | 行ったもの2(講演・公演)
○国立劇場 2月文楽公演『女殺油地獄』

 3年ほど前から、また文楽公演を見に行くようになったが、なかなか時間が取れない。1年に1回がいいところ。2月公演は、近松物を中心によく知られた人気作品が並ぶので、やっぱり強く心が惹かれる。

 『女殺油地獄』は、近松最晩年の作。放埒無頼の不良青年河内屋与兵衛が、親に勘当され、借金を断られて油屋の女房お吉を殺し、金を奪って逃走するという、救いようのない物語。最後には悪事が露見し、捕らえられるという結末がついているのだが、あまり上演されない。実母お沢と番頭あがりの養父徳兵衛それぞれの、与兵衛に対する屈折した愛情が聴きどころだが、心理の陰影が複雑すぎて(近代的すぎて)素直に感情移入できない恨みもある。

 享保6年(1721)に初演されたが不人気で、江戸時代にはこの1回の上演記録しかない、というのを今回の公演パンフレットで初めて知った。明治以降、坪内逍遥らに再評価されて、人気作品になったらしい。私たちが「江戸の伝統」だと思っているもので、実は近代につくられたものって、けっこう多いんだよなあ。

 人形は与兵衛を桐竹勘十郎、お吉を桐竹紋寿のベテランコンビ。悪くなかったけど、与兵衛を吉田蓑助、お吉を吉田玉男(逆ではないのです!)という圧巻の舞台を見たのはいつだったかなあ…。今日は端から4列目の席で、大夫さんと三味線弾きを横から眺めるようなポジションだった。「河内屋の段」の奥(与兵衛が家を追い出される場面)で床にのぼったのが、豊竹呂勢大夫さんと鶴澤清治さん。私は舞台を見るのを忘れて、ポカンとして鶴澤清治さんの手元を凝視してしまった。そのくらい、すごい演奏だったのである。撥(ばち)を持った白い手(ちょうど照明が当たっていて)の神々しくも色っぽかったこと。
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梅が咲きました

2009-02-06 11:20:12 | なごみ写真帖
今の住所で2年目の春。
家を出るとすぐに眼につくピンク色の紅梅が花盛り。
去年は全然気がつかなかった…。



週末は、1泊2日で思い切った遠出をしてきます!
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古典へのオマージュ/加山又造展(国立新美術館)

2009-02-04 22:49:26 | 行ったもの(美術館・見仏)
○国立新美術館『加山又造展』(2009年1月21日~3月2日)

http://www.nact.jp/

 加山又造(1927-2004)の画業の全容を振り返る展覧会。琳派など日本の古典美術様式から、伝統とか流派とかベタベタしたものを抜き去り、純粋な「美意識」だけを抽出したような、華麗で繊細で大胆な表現は、私の愛好する画家のひとりである。

 最初の部屋は1960年以前に描かれた、シュールレアリスムっぽい動物画。加山らしい装飾的な華やかさはまだない。第2室は、この展覧会で私がいちばん気に入ったパート。押し出しの立派な6点の屏風に取り囲まれる。いずれも古典作品を換骨奪胎したものだ。『奥入瀬』は、金の大地(よく見ると羊歯の茂み)に濃青と深緑の山、墨の濃淡だけで表現された渓流。近世日本画によくある色の使い方だが、伝統的な色彩を大きなカタマリにしてぶつけることで、現代性を演出している。『七夕』は、巨大な王朝継ぎ紙。『天の川』は、琳派の『月に秋草図屏風』や『武蔵野図屏風』を思わせる。よく見ると秋草の陰にコオロギやバッタが…。

 続く『春秋波濤』(→展覧会公式サイトのTOP)と『雪月花』は、もちろん金剛寺の『日月山水図屏風』(→画像)にインスパイアされたものだろう。私は『日月山水図屏風』も大好きだが、加山の作品も気に入った。特に『春秋波濤』の、寒天ゼリーに封じ込められたような桜の山と、きんとんをまぶした和菓子のような紅葉の山がいい。『千羽鶴』は、宗達の『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』だろう。鶴の数は十数倍に増えているけれど。

 気になったのは、観客の導線が左→右に流れる構成になっていたこと。近代作品とはいえ、やはり屏風は、左←右の順に鑑賞するものではないかと思う。それから、会場に置かれていた展示図録と現物を見比べて、ずいぶん印象が異なることに気づいた。折って立てるように作られた屏風を平たく伸ばして写真に取ると、縦横比が変わり、妙に間延びした印象になる。加山の作品は、完璧な美意識に基づいているだけに、小さな差異が大きな影響を与えるように思う。

 裸婦も猫も美しかったが、私が惹かれたのは『牡丹』。異例にデカい金地の四曲屏風に、黒々とした墨画の牡丹(これは紅色なのだろう)と、彩色で白牡丹(花芯部に赤のぼかし)が描かれている。花の位置を上方に寄せ、下半分に余白を残した構図が面白い。

 衝撃的だったのは水墨画の数々。特に『仿北宋水墨山水雪景』は、中国水墨画の最高峰、北宋画を「仿(まねる)」と言明するにふさわしい、堂々とした作品である。突如、日本画家の手によって「崇高なる山水(李郭系山水画)」の系譜がよみがったみたいだ――蟹爪樹もあるし。
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