見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

徳川慶喜の失敗/鳥羽伏見の戦い(野口武彦)

2010-02-02 20:48:57 | 読んだもの(書籍)
○野口武彦『鳥羽伏見の戦い:幕府の命運を決した四日間』(中公新書) 中央公論新社 2010.1 

 野口武彦さんの著書を初めて読んだのは、同じ中公新書の『長州戦争』(2006)だった。これでハマって『幕府歩兵隊』(2002)に戻り、本書が「歩兵隊三部作」の完結編になる。前二作は、幕末史の中で武士に代わって戦場の主力になった歩兵隊の沿革をたどってきたが、本書は「その歩兵隊を生かすか殺すかが歴史の分け目になった結果を見た」というのが、著者の「あとがき」の言葉である。

 それとともに(それ以上に)著者が書きたかったのは、第2章「伝習歩兵隊とシャスポー銃」の一段ではなかったか。著者は『幕府歩兵隊』で、この伝習隊は最新鋭(後装式、元込銃)のシャスポー銃を装備していたと書いた。けれども、学界の一部では「シャスポー銃は幕末日本の戦場では使われなかった」という見解が根強いという。これに対して著者は、数多の資料を吟味・渉猟し、ついに内閣文庫所蔵の『慶明雑録』に「鉄砲本込」四文字を見つけ出す。いやー嬉しいだろうなあ、こういうとき。しかし、それ以上に、資料に描かれた戦いのスピード感が、元込銃でなければあり得ないという判断、これは印象批評のようで、文献資料より強い説得力を持っているように感じられた。

 実はこの本、ワシントンDC出張中も読み続けていたのだが、アメリカ歴史博物館の「The Price of Freedom: Americans at War」というコーナーで、多数の銃を実見することができ、興味深かった。独立戦争~南北戦争の銃は、まだ前装式である。アメリカは、いつから後装式に変わるんだろう?

 さて「歩兵隊を生かすか殺すか」の鍵を握ったのは司令官の器量、最終的には、最高司令官であった徳川慶喜が、戦い半ばに大阪城を脱出し、江戸に逃亡するという、ありえない判断ミスだった。と著者は考える。以前から、野口さんは慶喜に対して厳しいなあ、と思っていたけど、本書では、その厳しさが、痛快なまでに遺憾なく発揮されている。江戸で慶喜に対面した勝海舟は「アナタ方、何という事だ」と激怒し、歎息した。慶喜が大阪城に見捨てていった大金扇の馬印(2007年の『大徳川展』で見た!)を江戸に運んで帰ってきたのは、慶喜の供で上京していた侠客の新門辰五郎であったという。おお、ドラマ『JIN-仁-』の配役(勝海舟→小日向文世、新門辰五郎→中村敦夫)で見たいところだ。

 野口さんが、慶喜の失敗にしつこくこだわるのは、最愛の「幕府歩兵隊」が空しく壊滅する主因を作った恨みだと思っていたが、本書の「あとがき」を読むと、そればかりでもないらしい。著者はいう、かりに慶喜が、大政奉還以後も権力の中心部に踏みとどまっていたら、「天皇制抜きの近代日本」もあり得たのではないか…。うわ、この発想はなかったが、いま、引き続き、幕末史の本を読んでいると、そういう「歴史のイフ」を構想してみるのは、無駄なことではないと思われる。

 鳥羽伏見の戦いの「現場」の描写も、さまざまな資料と証言をもとに再構成されており、まるで映画を見るように五感に迫ってくる。吹き荒れる強風。舞う風花。酸鼻きわまる戦場で命のやりとりをしながら、若者たちは、すぐに銃戦のコツを呑みこんでしまう(人間ってすごいものだ)。名のある旗本の指揮官に役立たずが多かったのに対して、いくつかの資料は、歩兵隊の奮戦ぶりを書きとどめている。「惜しいかな、姓名を知らず」というけれど、たとえ、姓名を記されずとも、その働きが後世に伝えられたことは、せめてもの手向けだろう。できれば、私もこういう人生の終わりかたをしたいものだ、と思った。
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知識は東アジアの海を渡った(丸善ギャラリー&学習院大学史料館展示室)

2010-02-01 22:58:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
○学習院大学開学60周年記念特別展覧会『知識は東アジアの海を渡った~学習院大学コレクションの世界~』(2010年1月26日~2月1日)

 学習院大学が開学60周年(※新制大学となってから)を記念して、丸善・丸の内本店ギャラリーと、学習院大学史料館展示室と、豊島区雑司ヶ谷地域文化創造館の3ヶ所で行う貴重書展覧会。第3会場のパネル展示はいいとしても、はじめの2つは必ず見ておきたいと思った。

■丸善・丸の内本店ギャラリー

 「学習院」の歴史を年代順に追いながら、関係資料を並べてある(→詳しい沿革はこちら)。弘化4年(1847)、京都において、公家の教育機関として学習院(学習所とも)が開講し、各家から書籍が献じられた。展示品は、一条家から寄贈された『性理大全』(和刻本)、近衛家から寄贈された『大唐六典』(近衛家熙校訂本)など。嘉永3年(1850)の『学習院雑掌備忘』に、これらの受贈記録がちゃんと残っているというのも素晴らしい。学習院の蔵書は初めて見るので、「学習院印」「京都学校蔵書之印」の角印が物珍しくて面白かった。

 明治10年(1877)、東京・神田に華族学校として成立。華族会館に集められた書籍を蔵書とした図書館も設置された。同館旧蔵書には「華族会館書籍局印」という八文字を円形に配した、変わった蔵書印が押されている。これらは公家や武家からの寄贈書で、「冷泉府書」の印のある『唐文粋』や「養賢閣図書記」(徳川宗家旧蔵)の印のある『東坡全集』などが見られる。徳川宗家旧蔵の『史記』に押されていた「政余蛍雪」という角印は、明治天皇の蔵書印だったのか! 買って帰ってきた図録を読んで、はじめて知った。明版の『白氏文集』には「弘前医官渋江氏蔵書記」の印が押されていた。おお、懐かしい、渋江抽斎の印である。しかし、これも図録を読んだら、その隣りに「森氏」という森枳園=森立之の印があったのを見落としていた。もうちょっと、展示ケース内に蔵書印の説明が欲しかったなあ、と思う。

 明治期の学習院においては、日本における東洋学の祖、白鳥庫吉、市村瓚次郎、塩谷温らが教鞭を取り、多数の漢籍・朝鮮本・満洲語文献などが蒐集された。特に朝鮮本の充実ぶりはすごい。すごすぎて、ちょっとドキドキする。返還を要求されるような、無法な蒐集をしていないことを願いたいのだが…。

 それから、前半の名家伝来本に比べると、何これ?というような扱い(印象)で展示されていた「友邦文庫」の資料。これは、旧朝鮮総督府の統治政策にかかわるアーカイブ資料である(→詳細)。見た目はボロボロのわらばん紙資料だが、掘り起こせば、とんでもない真実が眠っているのではないかと、わくわくする。

■学習院大学史料館展示室

 丸善ギャラリーと同様に、京都学習院→華族会館→明治→大正・昭和という時代順の構成。重なる資料も多い。印象的だったのは「朝鮮戸籍大帳」2件。1825年(朝鮮23代・純祖25年、道光5年)の旧式戸籍と、1899年(光武3年、大韓帝国成立後)の新式戸籍が対比されていて、非常に面白かった。『正始文程』(1795年刊)には、朝鮮宮廷の蔵書であったことを示す「奎章之宝」印が堂々と押してあって、入手径路が気になった。図録の解説には「未詳」とあるのみ。『二月堂焼経』を持っているのにはびっくりしたが、ちょっと焼け過ぎ(半分以上焼失)。参考展示の地球儀や陶俑も面白かった。

 ひとつ苦言を呈しておきたいのは、丸善インフォメーションの催し物情報に画像が掲載されている「高句麗広開土王碑拓本」に「展示は複製」という注記がないこと。学習院大学東洋文化研究所の「お知らせ」でダウンロードできる展示品リストにも複製注記がない。デジタル技術の高度化した時代だからこそ、会場で見られるのが、本物なのか複製なのかは、重要な情報だと思う(チラシの裏面にはちゃんと書かれている)。

 『清帝勅誥命書(馬超麟勅命)』も、私の記憶違いでなければ、複製(写真)パネルしか出ていなかったようだ。図録の解説によれば、本人に手渡す勅命の現物の作成は、康煕元年以降、江寧の織造局に任せられ、勅命の場合は純白の綾を用い、満洲語と漢語の「奉天勅命」を、昇降する2匹の龍紋様の間に織らせることが規定されていたという。私は、一読して、東大図書館が電子版を公開している『明・弘治十八年八月二十日勅命』を思い出した。後者は「奉天勅命」が漢語だけであることを除けば、スタイルは同じである。でも、こういう物理的な状態の確認には、写真だけでは不足なのだ。ちょっと残念。

※図録解説はなかなか有益。



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