見もの・読みもの日記

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楽しみも悲しみも/近代数寄者の名茶会三十選(熊倉功夫)

2010-02-13 15:38:30 | 読んだもの(書籍)
○熊倉功夫編『近代数寄者の名茶会三十選』 淡交社 2004.12

 茶の湯といえば、女性のたしなみ、というのが、最近までの私の理解だった。実業家(茶人)の興した美術館をまわるようになって、むかしは男性の趣味だったんだなあ、と分かってきたが、彼らについても「女性的」なイメージが抜けなかった。それが、昨年暮れ、根津美術館の『根津青山の茶の湯』展で、根津嘉一郎(青山=せいざん)が、信楽の大壺を口を欠いて花を活けた「壺割り茶会」のエピソードを知って、呆気にとられた。これはすごい、詳しいことが知りたい、と思って、いろいろ探しているうちに、本書を見つけたのである。

 本書は、明治43年(1910)から昭和13年(1938)に至る、三十の名茶会を紹介したものだ。それぞれ冒頭に、編者の熊倉功夫さんによる短い解説がつき、あとは当時の「茶会記」の文章がそのまま採録されている。「茶会記」というのは、文字どおり、茶会の記録(ルポルタージュ)である。戦前は、筆の立つ茶人が、自分の茶会や招かれた茶会のルポルタージュを新聞などに連載し、それを楽しみにしている読者層がいた。本書に最も多く収録された高橋箒庵(そうあん)は、代表的な茶会記ライターのひとりである(→参考:起業事始)。

 収録されているのは、明治40年代の茶会が4件、大正年間が17件、昭和年間が8件である。「近代数寄者(すきしゃ)の精神」というものが、最ものびのびと発展を遂げたのは大正年間と言っていいだろう。ちなみに、明治以来、文語体(~なり、べし)を使ってきた高橋箒庵の茶会記が、言文一致体(であった、思われた)に替わるのは大正年間の途中で、国語史的にも面白いと思った。

 「壺割り茶会」の裏話は無類に面白い。無傷の壺を割ったほうがいいと根津青山に進言したのは箒庵で、壺割りを命じられた川部太郎と八田円斎は、主人の帰宅を待たず仕事に取りかかったが、気が変わって帰ってきた根津はひどく機嫌を損じたそうだ(当日、益田鈍翁に褒めちぎられて悦に入る)。これは、近代茶人が、情熱的に芸術を愛し、単なるコレクターでなく、新たな芸術の創造者を以て任じていたこを示す逸話である。また、益田鈍翁の茶会で、水指のフタを割ってしまった岩崎謙庵が、おわびのために開いた「長恨茶会」、同じく岩崎謙庵が、口禍事件のあとで「物いえば唇寒し秋の風」の芭蕉の書状を掛けておこなった茶会などは、気の置けない仲間どうし、無邪気な交流に興ずるオジサンたちの姿が微笑ましい。

 しかし、最も心に残るのは、死者を弔うために行われた茶会の記録である。乃木大将を追悼して、元軍医総監・石黒忠悳(况翁、このひとも茶人だったのか!)では、敵弾二個を寄せ合わせた茶入や、况翁自ら旅順で買い求めた赤茶碗が用いられた。原三渓が早世した嫡男の冥福を祈って催した蓮華飯供養会の、悲しみに満ちた清冽さ。掛け物は「源頼朝筆日課観音」とあるが、これは実朝筆のまちがいだろう。先だって三渓園の特別展で見たものだ。大坂の大道具商・戸田露朝を弔う追善茶会は、益田鈍翁邸で開かれ、京都・東京・名古屋の道具商が、希世の名物を持ち寄った壮観なもの。そもそも露朝の臨終の狂歌・狂句が「十露盤(そろばん)のたまにうまれし人の世につまり八八の六十四年」「大笑ひハッハ六十四出の旅」という大往生だから、座談もはずみ、人々の心に残る、雅味ある盛挙であったことだろう。最近、いくつかの葬儀に参列する機会があったのだが、型の決まった仏式の法要より、こういう追善茶会をやってもらえたらいいなあ。友人にたのんでおこうかしら。

 茶会記を読んで、学ぶところが多いのは、茶道具の描出である。私は展覧会ブログを書きながら、ほとんど画像を貼らないのは、「視覚的な美しさを言葉で表わす」苦心を、敢えて楽しむためなのであるが…。たとえば、住友家の井戸茶碗、銘「六地蔵」を描写して、「薄枇杷色に青釉(あおぐすり)のナダレ具合、さきに赤星家入札に出でたる井戸茶碗忘水に類似し、彼の比較的無景なのに引き替え、これは内外ともに青釉ナダレ麗しく、いわゆる椎茸高台にて、竹の節は見えざらねども、高台縁に土を見せて、その内カイラギすこぶる見事に、外部は轆轤目浅くめぐり、例の枇杷色ならびに青色混成の景色面白きこと言わん方なく、内部もまた青釉あり」云々。こうやって、近づき、遠ざかり、内から外から、また上から下から、多様な視点で描き出された茶碗の姿は、1枚の画像にはるかにまさる情報量を持っていると思う。精進しよう。
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