見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2019年1月@関西:京の冬の旅・妙心寺 天球院ほか

2019-01-14 22:48:22 | 行ったもの(美術館・見仏)
 この数年、正月最初の三連休は大阪の新春文楽を見にいくことが恒例になっている。他に何か見ものはないかと思って探していたら、「第53回 京の冬の旅」が面白そうなことに気づいた。「秘められた京の美をたずねて」と題して、障壁画等が多く公開されている。近年、冬の特別公開にはあまり心を動かされなかったが、今年のラインナップはなかなかよい。中でも妙心寺の3塔頭が外せないと思ったので、まず妙心寺に向かうことにした。京都駅で新幹線から嵯峨野線(山陰本線)に乗り換え、花園下車。このへんは2013年に夏の法金剛院に来て以来だと思う。

 妙心寺南門に向かう定番ルートを少し外れて、上西門院統子内親王の花園東陵に寄りみち。鳥羽天皇第二皇女、母は待賢門院璋子。同母兄弟に崇徳院、後白河院がいる。法金剛院の敷地の北東にあたり、かなり高低差のある石段をあがったところに御陵があった。



妙心寺 龍泉庵



 いきなり長谷川等伯筆『古木猿猴図』2幅(掛軸装)が飾ってある。複製だが表具も含めてよくできている。この名作の本来の所有者が龍泉庵なのだ。現在は京博に保管されているとのこと。方丈の襖絵は日本画家の由里本出(ゆりもといづる、1939-)氏による。初めて知った方だが、阿蘇山、石鎚山など、写実的でスケールの大きい山の風景が気に入った。奥の部屋には古い絵画を展示。解説札などは置いていなくて、聞くと案内の女性の方が教えてくれる。「京の冬の旅」のサイトに、狩野探幽筆『観音・龍虎図』、谷文晁筆『秋山出屋図』(中略)長沢芦雪、松村景文の作品などの寺宝も特別公開される」とあったのだが、芦雪の作品がないので聞いてみたら「ああ、ないんですよ~」と申し訳なさそうに解説用のアンチョコを見せてくれた。なぜか芦雪の名前のあとが空白になっていたのは予定が変わったのかな? でも探幽の白衣観音と龍虎の3幅対がよかったし、作者不詳の墨画の羅漢図(五百羅漢図の一部?)もよかった。『鴨・達磨・鴨』という3幅対もあって、達磨図は無款、鴨図2幅は朱印があるけど全然読めなかった。それから方丈のあちこちにある杉戸絵も面白かった。大きくハリネズミを描いたものがあった。

妙心寺 麟祥院



 家光が春日局の冥福を祈るために創建した寺院。受付でいただいたご朱印の「御福」が読めなくてしばらく考えてから、あ、春日局だから「お福」かと理解した。受付の方は「お正月ですからね。時々変わります」とおっしゃっていた。方丈の障壁画は海北友雪(海北友松の子)の筆で、室中が『雲龍図』、左右に『西湖図』と『瀟湘八景図』を描く。『雲龍図』は左右の襖に巨大な龍の顔があって「左の角を垂れているほうが雌で、右の角を立てているほうが雄です」と分かりやすく解説されてしまうのが面白いなあと思った。御霊屋には春日局の木像を祀り、ガラスのビーズを編んだ「瑠璃天蓋」が下がっていた。どこかで同じものを見た記憶があったが、東博の『妙心寺展』かもしれない。

妙心寺 天球院



 さあ、そして今回のお目当て、天球院である。姫路城主・池田輝政公の妹・天久院によって創建され、建立の際に地中から球を掘り出したことにより天球院と名づけられたそうである。美術ファンにとっては、京狩野の祖・狩野山楽と娘婿の山雪が手がけた障壁画が伝えられていることで、あまりにも有名。方丈の南東にくっついた玄関から入り、方丈の南側の3室を右(東)側から順に見ていく。右が『籬草花図』(朝顔の間)、室中が『竹虎図』、左が『梅に遊禽図』。ただし、これらは全てキャノンの「綴プロジェクト」により制作された高精細複製品に取り換えられている。しかし、ほの暗い照明の下の金箔の重厚な輝きは、言われなければ複製と気づかない再現度である。一見の価値あり。直線と曲線の組み合わせが、文句なく気持ちいいのだが、解説(ここは学生さん)が「3匹の虎は、山楽、山雪、永納。豹は山楽の娘で山雪の妻、お竹と言われています」と説明していて、やっぱりそういう見立てが好まれるのかなあと苦笑した。御朱印はその場で書いていただける。受付の女性の方に「本物はどちらにあるんですか?」とお聞きしたら「京都国立博物館に保管しています」とのこと。「ここ何年かは複製品で公開しています。いつか一度、本物を戻したいとは思っているんですけど」ともおっしゃっていた。なお、3室以外に突き当たりのこじんまりした部屋(上間一の間)も公開されており、水墨の障壁画『山水人物図』を見ることができる。たぶんこれは原品。

 意外と効率よく3箇所拝観することができたので、「京の冬の旅」探訪、まだ続く。
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2019初詣:深川七福神とその周辺

2019-01-09 23:43:35 | 行ったもの(美術館・見仏)
〇深川不動堂~恵比須神(富岡八幡宮)~弁財天(冬木弁天堂)~福禄寿(心行寺)~大黒天(円珠院)~毘沙門天(龍光院)~布袋尊(深川稲荷神社)~寿老人(深川神明宮)~摩利支天(徳大寺)

 昨年から両親が正月を老人ホームで過ごすようになったので、私も実家に帰らないことになった。昨年はどう過ごしたか覚えていないのだが、今年は2日に「深川七福神」めぐりに出かけた。

 まず、深川不動堂に参拝。元旦は人出が多すぎてお参りを諦めたが、2日は午前中の早い時間に出かけたので参拝することができた。続いて、隣りの富岡八幡宮の本殿に参拝して御朱印をいただき、境内西側の小さな恵比須神社に参拝する。ここまでは何度か来たことのあるエリアだが、スマホで「深川七福神」サイトの地図を見ながら、いよいよ七福神めぐりに出発。

 まっすぐ北行し、葛西橋通りに出ると、すぐ冬木弁天堂が見える。お堂の中に入ると、小さなお厨子の中に、木目込み人形のようにきれいな錦の着物を着た、かわいい弁天様がいらっしゃった。

 次に葛西橋通りを西行し、なじみの清澄通りへ。福禄寿の心行寺がある。大きな本堂とは別に、門を入ってすぐのところにある六角堂が福禄寿堂。頭の大きい、髭の長い老人の小さな木像が祀られているがよく見えない。それとは別に、六角堂の横には石像の福禄寿もいらして、人目を引く。提灯の紋が九曜紋なのも、中国の星の神話に由来する福禄寿らしくてよい。

 次にしばらく北へ歩いて、清澄庭園を左に見ながら右へ曲がる。このコース、「深川七福神」というオレンジ色の旗が途切れずに並んでいるので迷わない。円珠院で大黒天に参拝。周囲は寺町である。次の龍光院に向かう途中、住宅街の隙間の緑地に案内板が見えた。近づいてみると、間宮林蔵の墓所だという。北海道に暮らし、樺太(サハリン)にも行ったことがある私なので、ご縁を感じて、ご挨拶していく。



 龍光院に参拝。本尊は阿弥陀三尊で、その右隣に立派な木造の毘沙門天立像がいらっしゃる。ここの御朱印所に「深川七福神」の簡単なガイドブックがあったので購入。各寺社だけでなく、周辺の史跡の情報も詳しい。龍光院の少し先の雲光院に阿茶の局の墓があるとか、円珠院近くの浄心寺には狩野永徳の墓があるとか、福禄寿の心行寺に近い陽岳寺には向井将監忠勝の墓があるとかの情報をGET。この冊子を持って、また歩きに来よう。

 龍光院から再び西行。清澄通りを渡って、清澄庭園の北に進むと、深川稲荷社に至る。区画の角に向かって斜めに立つ鳥居が珍しい。稲荷社だが布袋尊がいらっしゃるらしい。氏子あるいは町内会のみなさんがテントを立てて、甘酒などを用意していて賑やかだった。

 最後の深川神明宮へ行くには小名木川を渡る。ルートに沿っていくと、歴史を感じさせる鉄骨橋があらわれた。萬年橋である。昨年読んだ『東京の橋100選+100』にも、もちろん掲載されている名橋。正月からいい橋を渡れて嬉しかった。そして深川神明宮は、深川において最も古い神社で、深川を開拓した深川八郎右衛門が鎮守の宮として建立したもの。一度参拝したいと思っていたのだ。寿老人の御朱印とともに神明宮の御朱印もいただいた。

 これで大江戸線森下駅に出ると全行程終了。おまけとして、大江戸線で上野御徒町に出て、アメ横にある徳大寺(摩利支天)にも行ってきた。イノシシ年といえば摩利支天だと思って。同じことを考える人が多かったのか、正月のせいか、人が多かったのでご朱印は書いたものをいただいてきた。摩利支天といえば、大河ドラマ『風林火山』の山本勘助を思い出す。ドラマの創作かと思っていたけど、由来があるのね。なつかしい。
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工芸と勧業/ウィーン万国博覧会(たばこと塩の博物館)

2019-01-08 00:21:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
たばこと塩の博物館 開館40周年記念特別展『産業の世紀の幕開け ウィーン万国博覧会』(2018年11月3日~2019年1月14日)

 開館40周年にふさわしく、力の入った面白い展覧会だった。明治6(1873)年に開催されたウィーン万国博覧会は、日本が初めて国家として公式参加した博覧会でもある。本展は日本にとってのウィーン万国博覧会をテーマに、博覧会への参加準備段階の資料、日本やオーストリアに所蔵されている当時の出品物、博覧会後の産業界の動きを示す資料等を展示する。

 はじめに開催国であるオーストラリアの公使から日本の外務卿・沢宣嘉に非公式の打診があった記録が残されている。「対話記録」というから口頭なのだろう。罫線紙に記された文字は達筆すぎて読めない。昨日から始まった大河ドラマ『いだてん』でも、日本のオリンピック参加の誘いは話し合いから始まっていた。しかし、こういう記録も外交史料館も残されていることに驚き、感心する。それから正式の要請書が届き、日本は参加を決意した。次は博覧会事務局の設置、続いて各地の物産を調査し、出品物を決める。なんだかすごくオリンピックに似ている。

 明治5年3月に文部省の主催で湯島聖堂で開催された博覧会は、いわば代表決定のための予選会である。目玉は名古屋城の金鯱。多くの浮世絵や古写真が残っており、現存する展示物のいくつかが特定できることは、木下直之先生の研究などで読んできた。

 本番のウィーン万国博覧会(1873年5月-10月)についても、かなり多くの古写真が残っている。会場展示の多くは『明治六年墺国博覧会出品写真』という写真帖(東大経済学部資料室所蔵)と、もうひとつは現地オーストリアの国立図書館や美術館・博物館に残っている古写真から複製したものだった。特に、初めて注目した日本庭園の写真が面白かった。植木などはあまり持ち込めなかったようで、申し訳程度の池の中島に妙に巨大な神社の社殿(流造)が建っている。日本のどこにもなさそうな風景で、どうにも胡散臭いのだが、明治の日本人が世界に見せたかった「日本庭園」とはこんなものなのだろう。隣にはさらに巨大なモスク(トルコのパビリオン)が見えるのも面白い。

 ウィーン万博と関係すると思われる「双頭鷲紋」(ハプスブルグ家の紋章)と「菊紋」の大きな刺繍額が東博に残っているのは初めて知った。それから、当時の展示品である蒔絵の香箱や短冊箱、染付の大皿や大花瓶、九谷・瀬戸・薩摩焼などのコーヒーカップとソーサー、七宝のカフスボタン、金属製の燈籠、麦藁細工の編み見本、押絵羽子板、会津の絵蝋燭等々、さまざまな工芸品・美術品が次々に現れる。こんなにたくさん、当時の品物がどこに?と思ったが、よく見たらほとんど全て「オーストリア応用美術現代美術博物館」とか「ウィーン技術博物館」とか「レオポルトシュタット地区博物館」とか、現地に伝わっているのだった。おそらく日本だけではなく、博覧会に出品された世界各国の物品が今でも保管されているのだろう。だとすれば、万国博覧会って、一過性のお祭りではなく、文化史的な意義のあるイベントだったのではないかと再認識した。

 ウィーン大学東アジア研究所日本学科が所蔵する木製人形(男性3体)は、布製の着物を着せたもの。このように作品によって所蔵者が異なるのは、現地でも流転の歴史があるのだろうか。日本に里帰りしている数少ない作品は、有田ポーセリンパーク所蔵の『染付御所車蒔絵大花瓶』とハウステンボス美術館所蔵の『染付花籠文大皿』。どちらも当時の写真帖にはっきりその姿が写っている。なお、解説に言及だけあった『頼光大江山入図大花瓶』1対の原物は、現在、東博の本館18室(近代の美術)で展示中。ヘンな作品だなあと思ったら、ウィーン万博出品作だったか。

 ウィーン万博から日本へ戻った展示品は、引き続き博覧会事務局で保管され、毎月一と六のつく日に公開され、明治10年(1877)の内国勧業博覧会を経て、博物館の建設につながっていく。このへんも非常に興味のある歴史。東大建築学科が所蔵する『山下門内博物館写真』を見ると、現在の東博と科博(と西洋美術館?)が全部一緒になったような展示室で面白い。

 ウィーン万博の準備に奔走したお雇い外国人ワグネルは、明治16年頃から、白い素地の上に多色の日本画を描く新たな陶器「旭焼」の製作を始める。聞いたことのある名前だが、旭焼の窯跡が江東区森下にあるとは知らなかった。ワグネル先生を偲んで、今度、行ってみよう。このほか、「たばこと塩の博物館」らしく、19世紀の装飾パイプや、内国勧業博覧会でメダルを獲得した煙草のパッケージ、煙草をめぐる商標登録の資料なども展示されている。
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芦雪新出屏風と明治の工芸/国宝 雪松図と動物アート(三井記念美術館)

2019-01-07 00:03:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
三井記念美術館 『国宝 雪松図と動物アート』(2018年12月13日~2019年1月31日)

 新春恒例の『国宝 雪松図屏風』の展示に合わせ、館蔵品のなかから動物をテーマに作品を展示。あまり期待せずに見に行ったら、思いのほか面白かった。冒頭は『古銅龍耳花入』(明時代)、次に香合が4つ並び、うち2つ『交趾金花鳥香合』と『交趾黄鹿香合』が明時代。後者は蓋の上に平たくうずくまるマスタードイエローの鹿がかわいい。『赤楽白蔵主香合』は楽左入作(江戸時代)で、膝を揃え、拱手して座る礼儀正しい姿。白蔵主だからキツネなのだが、あまり顔が長くなく、サルか熊に見える。このへんで、いやこの展覧会、面白いなあと思い始めた。

 『古赤絵龍文水指(壺)』(明代)も好きだ。古赤絵らしい、のどかでゆるい龍の絵。赤と緑(エメラルドグリーン)の色合いもよい。本展には明清の工芸品や絵画がたくさん出ていたが、いずれも三井家旧蔵のお宝である。『十二支文腰霰平丸釜』は、銅に精緻な十二支の図をめぐらせた、楽しい茶釜。大西浄林作とあり、千家十職の釜師・大西家の初代の作である。茶室を模した展示室3でも、国宝・志野茶碗『卯花墻』とともに、床の間に変わったものが掛けてあった。朱色の紐を結び、その下に朱色の紐を編み込んだ円形の輪(玉壁のような形)、さらに下に白い袋が下がっている。訶梨勒(かりろく)と言って、インド・東南アジア原産の薬用・魔除けの木の実を模したもので、やはり千家十職の袋師・土田友湖の作であるという。むかし「千家十職」の展覧会を見たのはここじゃなかったかな?と思って調べたら、ちょっと記憶違いで、日本橋三越本店ギャラリーだった。でも日本橋つながりだし、三井家つながり。

 展示室4は絵画。沈南蘋筆『花鳥動物画』11幅のうち6幅を見ることができた。あまり記憶のないもので、この美術館というか三井家って、こんな作品も持っていたのかと驚いた。ただし、あまり沈南蘋らしい(と私が思っている)ゴテゴテ感はなくて、全体に薄味。解説に「沈南蘋の描く猫は(他の動物も)どこか可愛らしさに欠ける」と下げられていて苦笑した。落款を読んでいたのだが、「写易慶之筆意」の易慶之は易元吉で「擬松雪翁筆意」の松雪は趙孟頫か~。分からなかった。

 応挙の『雪松図屏風』は、この展覧会の見どころだが、私はあまり好きではない。むしろ『蓬莱山・竹鶏図』3幅対みたいな小品のほうが好き。中央の蓬莱山は、小さな画面に思い切った遠近法で広大な風景を切り取り、左右は鶏を1羽ずつ。左の白っぽい鶏は、ちょっと南宋・蘿窓筆『竹鶏図』を思い出させる。驚いたのは蘆雪の『白象黒牛図屏風』(個人蔵)で、なぜこの絵がここに?と思ったが、解説によると本作と同趣向の作品は、すでにプライスコレクション、島根県立博物館の所蔵が知られており、これが3つ目の出現(新出・初公開)なのだという。まあ、お金があったら「自分も1つ」欲しくなるよなあ、この作品。しかし細部にどのくらい違いがあるのか、知りたいところだ。

 後半は、バラエティ豊かな明治工芸の粋が楽しめる。やきものは永楽和全の交趾写・安南写・呉州赤絵写など。高瀬好山の自在置物! 昆虫12点には目が釘付けになった。安藤緑山の『染象牙貝尽置物』もすごい。緑山は木彫しか知らなかったけど、このほうが真に迫っている。それから象彦の『宇治川先陣蒔絵料紙箱・硯箱』。硯箱の蓋には、池月(いけづき)に乗って波を掻き分け、先陣を行く佐々木高綱。ひとまわり大きい料紙箱の蓋には、漆黒の磨墨(するすみ)の手綱を引き留まる梶原景季。無駄のない描写、みなぎる緊張感に見惚れた。あと、明治時代の能装束『刺繍七賢人模様厚板唐織』も面白かったので書き留めておこう。びっしりと刺繍が施され、七賢人より目立つ唐人が多数。龍、虎、白象、なぜかハリネズミが目立つところにいる。

 最後に永楽和全作『陶製象香炉・金襴手宝珠形火屋』について、明治20年に本物の象か、あるいは象型の香炉を見て写したもの(どちらか不明)という解説が付いていた。最近読んだ木下直之先生の『動物園巡礼』の影響もあって、気になって調べていたら「見世物興行年表」という凄いサイトを見つけた。世の中には、奇特な方がいらっしゃるものである。この明治20年の項に「1月1日より、大阪千日前にて、大象の見世物。太夫本吉田卯之助」が興行されたとある。木下先生の著書によれば、明治22年には東京・浅草で興行し、西郷従道邸で明治天皇の前でも芸をした象である。明治20年といえば、晩年の和全は京都東山に住んでいたらしい。あくまで想像だが、大阪まで象の見世物を見に行ったのではないかしら。
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ソフトヤンキーの風景/貧困を救えない国 日本(阿部彩、鈴木大介)

2019-01-04 22:32:49 | 読んだもの(書籍)
〇阿部彩、鈴木大介『貧困を救えない国 日本』(PHP新書) PHP研究所 2018.10

 ネットで、信頼できる方が「これは読んだほうがいい」と発言しているのを見たので、思わず読んでしまった。これが今年最初の読了書である。阿部彩さんは貧困や社会保障論を専門とする社会政策学者。代表作『子どもの貧困』(岩波新書、2008)は読んでいる。鈴木大介さんはルポライター。裏社会や触法少年、家出少女などの取材を重ねている。名前に聞き覚えはあったが、作品は読んだことがなかった。この二人が、日本の貧困の実態と本当に必要な政策について考える対談である。

 はじめに、いまだに「日本に貧困はない」と思っている人たちが糾弾される。日本の子ども(17歳以下)の総体的貧困率は13.9%(2015年)。彼らの多くは一晩でも絶対的貧困状態(飢えて死ぬレベル)を経験している可能性がある、というのは妥当な想像だと思う。貧困家庭はひとり親家庭よりふたり親家庭のほうが多い(母数が多い)とか、高齢男性の貧困率は改善している(年金制度が機能している)とか、女性の貧困は若い世代より高齢世代が深刻など、曖昧な貧困イメージを統計によって正す論は面白かった。

 少し飛ばして「誰が貧困を作っているのか」について、鈴木氏は「中間層の可処分所得を減らしている」(減らすように仕向けている)連中に向かって怒りを隠さない。新築住宅や数百万のブライダル、大学進学もそうだ。キラキラした何かを見せられ、大きな消費に所得を注ぎ込んだ結果、いざという時の蓄えを失って綱渡りの人生を送る人々。なるほど。私はこの罠には落ちなかったが、あらためて考えると、こういう人は多いのだろう。

 第6章は、地方の若者に詳しい鈴木氏が語る「ソフトヤンキーのアッパー層」についての記述である。正直、私には全く縁のない世界で、遠い国、あるいは遠い時代の民族誌を読むような興味深さがあった。年収300万円未満でもガンガン人生を楽しんで、どんどん子どもを産む。15歳を過ぎたら子どもも稼ぎ手という認識。女性は子育てを親戚や友だちに頼ることができる。親の面倒はよくみる。排他的だが、内部には互助の文化がある。こういう文化圏は、地方の工業衛星都市に寄生しているという指摘はたぶん正しいだろう。そして、同じ地元で頑張っているという感覚があるために、頑張れなかった貧困者に風当たりがきつくなるとか、安倍首相大好きで意識高い系が嫌いというのは、予想できる帰結だけど、なるほどなあと思った。

 今の子は帰属するコミュニティの空気を読むことに敏感で、端的に強い帰属感を味わえるのが「美しい日本」なのだという。これは理屈は分かるようで、感覚的にはよく分からない。鈴木氏は、震災で左翼の人たちがオカルト化した(反原発サイドの人たちに非科学的な言動だ多かった)というけれど、そうなのか。あまり私の視野には入っていなかった。

 そして、貧困政策を徹底的に考える中で、「タバコ規制」と「肺がん治療」のように、貧困の被害が起こらないようにする対策と、もはや抜き差しならない状況に陥った人々に対する集中的なケアの二つが必要だという阿部氏の整理は分かりやすかった。これらをごちゃまぜにすることから様々な弊害が生じている。貧困家庭や虐待家庭からドロップアウトした子どもに必要なのは「居場所」なのに、国の施策は学習支援に偏りすぎているという鈴木氏の意見は聞き逃せない。アメリカではYMCAがそうした役割を担っているという阿部氏の発言にも注意を払っておきたい。

 大きな問題は財源である。阿部氏の「中間層以上の人たちがあまり払ってない」という指摘は耳が痛い。「大変苦しい」人たちを救うには、「苦しい」と言っている人たちにも負担を求めなければならない。しかし正面切って、この真実を言える政治家は少ないだろうなあ。
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兄弟伝位の謎/宋の太祖と太宗(笠沙雅章)

2019-01-03 20:17:32 | 読んだもの(書籍)
〇笠沙雅章『独裁君主の登場:宋の太祖と太宗』(新・人と歴史 拡大版20) 清水書院 2017.8

 これも去年の読書。新刊ではないのだが、たまたま書店で目立つところに置いてあったので買ってしまった。本書の記述は宋の建国より少し時代をさかのぼり、五代十国と呼ばれる分裂の時代(907-960)から始まる。分裂抗争の中から次第に新しい統一王朝の姿が見えてくるのだが、そこに大きな役割を果たした人物が三人いる。後周の世宗・柴栄(921-959)、宋の太祖・趙匡胤(927-976)、その弟の太宗・趙匡義(939-997)で、かつて宮崎市定博士はこの三皇帝を織田信長・豊臣秀吉・徳川家康になぞらえたという。これは本書の「はじめに」に出てくる挿話。これだけで、ほとんど詳細を知らなかった三人が、急に身近な存在に感じられてくる。

 10世紀はじめ、唐朝が滅亡すると、華北地方にはその後継を自認する5つの王朝(後梁・後唐・後晋・後漢・後周)が興亡し、各地で独立を宣言した軍閥は前後10国にのぼった。五代の正史には新旧の両書が存在する。旧史は5つの王朝をほぼ公平に扱っているが、欧陽脩が執筆した新史は大いに褒貶を加えており、特に最初の王朝・後梁(朱全忠が建てた)に対する評価が分かれるという。しかし近年の中国では朱全忠に対して一定の再評価が行われているというのが興味深い。

 後梁を滅ぼした後唐は、トルコ系の沙陀族の建てた国で、全て唐朝に倣う復古政策を取った。その後、国内の反乱に乗じ、契丹と結んだ石敬瑭が後唐を滅ぼして後晋を建てた。しかし契丹の南伐によって華北地方は荒廃し、後晋の後を襲った後漢も短命王朝に終わった。その後、久しぶりに登場した漢人皇帝の王朝が後周である。五代は、漢人と異民族の激しい抗争が繰り返された半世紀であることが理解できた。

 後周の世宗は、軍隊を改編して精鋭無比の禁軍を整え、膨張しすぎた仏教教団を整理して国の経済を健全化した。次いで外征に乗り出し、まず南唐を大いに破り、北伐にとりかかったところで病没してしまった。このとき、まさに北伐に向かう夜営において、将校たちに推挙されて「革命」を起こし、帝位についたのが宋の太祖・趙匡胤である。この逸話は何度か聞いたことがあり、どう考えても「できすぎ」で、こうでなければ乱世の勝ち残りにはなれないだろうが、悪いヤツだなあと思った。が、後から登場する太宗に比べれば、かわいいものである。

 宋太祖は、後周の世宗が取り掛かっていた中央集権化・君主独裁体制への道を、引き続き、着実に進めたと著者は見ている。藩鎮から軍事・行政・財政・司法権を取り上げて、中央に回収する。その手足となったのが、中央から派遣された文官たちである。中央政府の行政機構でも、宰相を複数任命したり、次官を置き、政務は合議制として、皇帝自らが議長となって決裁することで、臣下に絶対権力を持つものが出現することを予防した。なんというか、憎らしいほどの政治手腕。しかし、こういう体制は、超有能で意欲にあふれた皇帝の存在がないと、機能しないのではないかと思う。

 太祖は在位17年、50歳で突然に没した。そして太宗が即位するわけだが、この不自然さは太祖即位の比ではない。「燭影斧声」の逸話を初めて知ったときの気持ち悪さは、深く記憶に残っている。「金匱預盟」も変な話だ。Wikiは「千載不決の議」を参照のこと。やっぱり古今東西、兄弟相続って謎と憶測を呼ぶんだなあ。また、古来、新帝即位の年は、革命によるのでなければ、翌年になって改元するのが常だったが(日本は違うんだな)太宗は年末に改元して、旧習を改革する決意を示したというのも興味深く読んだ。太宗は、太祖以上に厳しく軍閥の権限を抑制し、科挙を拡充し、宋四大書と呼ばれる大規模な文化事業を行うなどした。しかし対外的には契丹に加え、タングート族の西夏の独立を許すなど、異民族の侵入に悩み、最終的には弱腰の和議を求めるしかなかった。

 太祖は酒宴で国の大事を決するなど、酒豪であったことは事実らしい。太っ腹で寛大な心の持ち主としての逸話が残る一方、神経質で気の弱いところがあったのではないかと著者は見ている。色黒で肉付きのいい頬、太い下がり眉と豊かな涙袋が印象的な太祖坐像(故宮博物院所蔵)がカラー図版で掲載されている。年末の台湾旅行でこの肖像の原物と対面する機会にめぐまれたのは不思議な偶然だった。一方、太宗の肖像も掲載されているが、本書を読んだあとは、どこか酷薄そうに見える。太宗は下戸で、田猟や声色の娯楽を避け、倹約質素を旨とし、ひたすら政務に励んだそうだ。本来なら所管の官庁に任せてよさそうな些細な案件でも文書に目を通したというから清の雍正帝タイプである。直属の上司にはしたくないタイプだと思う。
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古代の難波を想像する/重ね地図で愉しむ大阪「高低差」の秘密(梅林秀行)

2019-01-02 22:16:55 | 読んだもの(書籍)
〇梅林秀行監修『重ね地図で愉しむ大阪「高低差」の秘密』(宝島社新書) 宝島社 2018.12

 昨年末に読み終えて感想を書いていなかったもの。「ブラタモリ」でおなじみの梅林さんが監修した(執筆者は別のよう)大阪地形歩きの本。地図・写真などカラー図版が豊富で、特に要所要所で現在と過去の「重ね地図」を用いて、街のあり様の変遷を感じさせてくれる作りになっている。

 私が初めて大阪の地形に関心を持ったのは、2012年刊行の中沢新一『大阪アースダイバー』だった。そのときはまだ大阪の地形に疎くて、たとえば「上町台地」と聞いてもどの部分を指すのか、全く分からなかった。その後、定期的に大阪の文楽公演を見に行くようになったり、『真田丸』関連史跡を歩いてみたり、この5、6年で大阪に関する知識はずいぶん増えたと思う。

 しかし本書では、あらためて2万年前の旧石器時代から説き起こす。旧石器時代には瀬戸内海や大阪湾は干上がっており、生駒山地から淡路島の麓まで古大阪平野が広がっていた。気温が徐々に暖かくなると海面が上昇し、およそ6千年前の縄文時代前期中頃には大阪の平野部はほぼ海底に沈み、上町台地は細長い半島だった。想像の中に浮かぶこの風景、すごく好きだ。5千年前頃から海面が後退を始め、河内湾が徐々に淡水化して河内湖となる。6世紀末に四天王寺が建立され、7世紀に難波宮が置かれた当時の難波(大阪)の姿を、あらためて思い描いてみる。

 本書は「キタ」「ミナミ」「上町台地周辺」「天王寺周辺」の4つの章から成る。「キタ」「ミナミ」は、江戸時代のインフラ整備から明治・大正のさらなる発展が主な主題。「上町台地周辺」では難攻不落とたたえられた大阪城とその惣構、そして真田丸の遺構が詳しく紹介されていて、それぞれ興味深い。

 だが、やはり私の興味を引いたのは、ひとつは上町台地の急崖を実感させるという「天王寺七坂」。崖の上から海に沈んでいく夕陽が美しいので「夕陽丘」と呼ばれるようになったという。今度、ぜひ歩いてみたい。そして、同じエリアに重なるのだが、四天王寺周辺には、難波大道に由来する「大道」の地名(近年名づけられた)があったり、大阪市立美術館の北側の池は和気清麻呂が取り組んだ「河内川」開削の跡ではないかと推定されているそうだ。四天王寺は、伽藍が南北一直線に並ぶ配置だが、これは西側の大阪湾からの眺めを意識したのではないかというのも面白かった。

 また、道修町(どしょうまち)通には薬種問屋が軒を連ね、日本の薬祖神・少彦名と中国の医薬の神・神農を祀った少彦名神社があるとか、伏見町通には唐物問屋が多く、砂糖を扱う株問屋は堺筋に店を構えたとかは知らないことばかり。いや、最近少し大阪の通りの名前を覚えたからこそ、こうした歴史を面白く感じることができるのだ。あと、江戸時代、盂蘭盆会に大阪の市街地にあった墓地を巡拝する「七墓巡り」という習慣があったというのも面白いなあ。先祖供養に肝試しを兼ねていたという。東京(江戸)には同種の習慣はあったのかしら。あまり聞いたことがない。
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