先日、土木遺産に登録された「円上寺隧道」を紹介した際に、気になる川があった。大河津分水付近から信濃川本流と別れて流れる「西川」の存在だ。大河津分水が世紀の大事業であった陰で、早くから湿田解消のための事業に着手していた地域を流れる一級河川だ。
西川は、新潟平野の今や穀倉地帯である西蒲原の西側、弥彦・角田の丘陵や新潟砂丘に沿って北上して流れ、新潟市街地付近で再び合流し日本海に流れる延長44.5キロメートルの川。古くから用水路として、また舟運にも利用されてきた。
西を流れるから西川。「西信濃川」とも呼ばれ、本流は差し詰め「東川」。そして真ん中を流れるのが三条市付近(正確には、燕市道金地内)で分流する「中ノ口川(中之口川)」ということになる。
(写真上:信濃川大河津分水を起点となる西川取水口と、分水市街地を流れる西川)
ただ、これら川の流域は低湿地帯。いくつもの「潟(湖沼・池)」が多く存在しており、私の地元でもある「塩津潟(紫雲寺潟=落堀川・長者堀開削、1728年)」を皮切りとして、「三年一作」とも言われた西川流域でも潟の水を海に切り落として、治水と開墾に向けようという取り組みが江戸時代から盛んに行われて来た。
西蒲原地域では、鎧潟、田潟、大潟という潟の放水と周辺湿地帯を乾田化しようと、「新川」の開削工事を長岡藩や村上藩が着手した。1818年に金蔵坂を開削、西川の底に木製の樋管を入れて西川と新川を立体交差させ、1820年に完成させた。
大河津分水が新潟平野を守る決め手になったことは間違いないが、大河津分水は今年通水100年目。それよりさらに100年遡った江戸期の新川をはじめとした開削工事だから、完全国産の土木技術により成しえたというところがまた凄い!
(写真上:「三潟(鎧潟、田潟、大潟)悪水抜き」のための絵図(点線が、新川開削地点)と、標高19メートルの金蔵坂掘割の模型(いずれも新潟市歴史博物館「みなとぴあ」の常設展示から。)
さて、それで西川がどうなったかというと、もちろん用水としての機能は現在も持ち続けている。ただ、周辺の低湿地帯が圃場に生まれ変わったのはいいのだが、新川との立体交差でも分かるとおり下流域では天井川となり、自身も信濃川への自力排水が難しくなった。
平成10年(1998年)には、信濃川合流近くの新潟西区、つまり住宅が密集する市街地で浸水被害をもたらす水害があった。これらの度重なる水害への対応として、信濃川合流地点には「西川排水機場」が設けられ、ポンプアップにより西川の水を信濃川へ放流している。
開削、開墾、天井川、立体交差、それでも繰り返される水害、排水機場の設置や能力アップなど、西川は西蒲原の地域の憂いや発展・喜びなどをどのように見てきたのだろう?まだまだ水の都・新潟の形成の陰に、知られざる逸話があるに違いない。
(写真上:河床の高い西川を迂回させ底樋を設置する工事の模型(みなとみあ常設展示)と、現在の西川・新川の立体交差(トラス橋が西川、下が新川。新潟市西区内野地内)。)
(写真下:下流域で天井川を形成する西川(新潟市西区笠木地内)。かつての支流の水は河口を求めて新川に流れ込む。西川の水は「西川排水機場」で最大能力65㎥/秒で信濃川に排水される。)
(このブログでのかつての記事⇒「みなとぴあの小さな新潟人」、「みなとぴあで潟と砂丘の勉強」)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます