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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

でかした、ジーヴス!

2025-01-10 19:12:55 | 読んだ本
P・G・ウッドハウス/森村たまき訳 2006年 国書刊行会
これは去年5月の古本まつりで見つけたんだけど。
背表紙のタイトルみたときに、はたして自分が読んだもんかどうかわかんなくなって、スマホで自分のブログ検索してしまった。
とほほ、なんて情けない、若いころに読んでたら、そんなことの記憶に自信ないことなんかなかっただろうに。
で、結果として、『それゆけ、ジーヴス』と『よしきた、ジーヴス』は読んでたけど、これはまだだったと判明したので、サクッと買った、読んだの最近になってだけど。
原題「Very Good, Jeeves! 」の刊行は1930年で、順番でいくと『比類なきジーヴス』と『それゆけ、ジーヴス』につづくシリーズ第三冊目なんだそうである。
なんつっても短篇集だってのがうれしいね、短篇のほうがおもしろい、たとえそんなのご都合主義の急速解決じゃんとかって展開でも、私ゃ短篇のほうが好きだ。
ところが冒頭の「ジーヴスと迫りくる運命」を読んでいたら、あれ、これって読んだことあるんぢゃ、って思えてきて、あわてて巻末「訳者あとがき」見たら、文春文庫版『ジーヴスの事件簿 大胆不敵の巻』に「ジーヴズと白鳥の湖」ってタイトルで入っていた話だった。(自分の記憶力がそこまで最悪になってなかったことにちょっとホッとした。)
あと本書の「ジーヴスとクリスマス気分」もおなじく文庫で読んだ「ジーヴズと降誕祭気分」って話だった。
ま、いずれのエピソードにおいても、若紳士バーティー・ウースターは自らのマヌケな見識によって引き起こしてしまうトラブルに遭遇し、従者ジーヴスがその卓越した頭脳によって主人を窮地から救い出すさまはあざやかで、ついでに主人を自分の思うようにふさわしい方向へ調教してくのが、いつ何度読んでもおもしろい。
コンテンツは以下のとおり。

1.ジーヴスと迫りくる運命
主人公バーティーはアガサ伯母さんの田舎の邸宅に招待される、アガサ伯母さんが命令するには、お客のフィルマー氏から良い印象をもってもらうよう行動せよってことなんだが、親友のビンゴがなぜかバーティ―の従兄弟の家庭教師として邸にいる、トラブルの予感しかしない。
>「それだけじゃない。自由意志を持った人間が、単に快楽追求のためだけに僕の従兄弟のトーマスの家庭教師を引き受けるだろうか? あいつは手ごわいガキで人間のかたちをした悪魔だってことはあまねく知れ渡ってるんだ」
>「およそ蓋然性なきことと存じます、ご主人様」
>「水底は深いんだ、ジーヴス」
>「言い得て妙かと存じます、ご主人様」(p.18)

2.シッピーの劣等コンプレックス
バーティーは旧友のシッパリー氏を訪ねる、シッピーは週刊誌の編集長として働いているのだが、ある女性に恋をしている一方、昔の校長がおもしろくもない原稿を書いてよこすのには閉口していた。
>「おそれながら、今現在とっさにということであれば、わたくしが自信をもってご提案できる計画はございません、ご主人様」
>「考える時間が欲しいってことだな?」
>「はい、ご主人様」(p.54-55)

3.ジーヴスとクリスマス気分
レディー・ウイッカムから招待されたバーティーはクリスマス休暇をそこで滞在することに決める、当初予定していたモンテ・カルロ行きがなくなったことに不満なジーヴスはいつもよりやや冷淡である。滞在先では因縁のあるサー・グロソップも来ていて不穏な感じもあるんだが、バーティーはロバータ・ウィッカム嬢に恋をする。
>「ジーヴス」僕は冷たく言った。「君がもしあの令嬢に関して何か批判めいたことを言いたいならば、僕の前では言わないほうがいいな」
>「かしこまりました、ご主人様」
>「またその件については他所でも言わないでいてもらいたいものだ。君はウィッカム嬢のどこが気にいらないんだ?」
>「いえ、滅相もないことでございます、ご主人様」
>「ジーヴス。それでもあえて訊きたい。腹を割って話そうじゃないか。君はウィッカム嬢に不満があると言う。なぜかを僕は訊きたい」
>「あなた様のようなお人柄の紳士様には、ウィッカムお嬢様はお似合いのご伴侶ではあられない、との思いがわたくしの脳裏をよぎったまででございます」(p.83-84)

4.ジーヴスと歌また歌
かつてドローンズクラブでバーティーをひどい目にあわせたタッピー・グロソップが、オペラを勉強中のベリンジャーという女性と婚約したから、昼めしをおごれだの過去の悪いことは言うなだの都合のよいことばかり言う。寛容なバーティーは対応してやろうとするが、ダリア叔母さんが訪ねてきて、グロソップは娘のアンジェラに一時期イレこんでたのにポイと捨てて傷つけたのだという。
>「(略)それであたしは、このベリンジャーとの関係をあんたにぶち壊してもらいたいの、バーティー」
>「どうやって?」
>「どうやってだっていいの。好きなやり方でやって」
>「だけどどうして僕にそんなことができるのさ?」
>「できるかですって? 何言っているの。あんたのところのジーヴスにすべてを話せばいいことでしょ。ジーヴスが道を見つけてくれるわ。あたしが今まで出会った中で最も有能な人物の一人だわね。すべての事実をジーヴスの前にさらして、この問題の周辺に心遊ばせてくれって頼むのよ」(p.118-119)

5.犬のマッキントッシュの事件
レディー・ウィッカムの娘ボビーがバーティーを訪ねてくる、用件は自分の母親の書いた脚本をアメリカの劇場経営者に売り込もうとしている、ついてはその経営者が脚本の採用に影響力をもつ悪ガキの息子をつれてくるのでよろしくもてなしてほしいのだという。
>彼女は僕が入っていくと丁重に挨拶した――実を言うと、あまりにも真心込めて挨拶したもので、カクテルを調整しに退室する前にドアのところでジーヴスが立ち止まり、熱くなりやすい息子が地元の妖婦に強気で当たるのを目にした賢明な老父が投げかけるみたいな、一種の厳しい、警告するがごとき表情を向けるのを僕は見たくらいだ。「冷硬鋼!」と言うみたいに僕はうなずき返し、彼はにじみ去り、僕は快活なホストを演ずるべく残された。

6.ちょっぴりの芸術
ダリア叔母さんのヨット・クルーズ旅行に招待されたバーティーだが、いまロンドンを離れるわけにはいかないと断る、新しい女の子に恋をしているのだ。彼女は芸術家で、僕の肖像画を描いてくれたんだと言うバーティーに、ダリア叔母さんは、そんな縁談をジーヴスが認めるわけないわと断言する。
>「ジーヴス」僕は言った。「君はこのちょっぴりの芸術が気に入らないようだな」
>「いえ、滅相もないことでございます」
>「いやちがう。言いつくろったってだめだ。君の気持ちが僕には書物を読むようにわかるんだ。何らかの理由で、このちょっぴりの芸術は君の意に沿わない。反論する点はあるか?」
>「色彩がいささか明るすぎはいたしますまいか、ご主人様?」
>「僕はそうは思わない、ジーヴス。その他の点は?」
>「さて、管見いたしますところ、ペンドルベリー様はあなた様にいささか空腹げなご表情をお与えなさいました」(p.178)

7.ジーヴスとクレメンティーナ嬢
年に一度のドローンズ・ゴルフトーナメントに参戦するためホテルに滞在しているバーティーのところへ、またもボビー・ウィッカム嬢が現れる。13歳の従姉妹の誕生日祝いにディナーをご馳走してくれという彼女は、最後に従姉妹を女子校へ送り届けてくれればいいんだからと頼む。
>僕はよくよく考えた。
>「そういうことならゆうに我々の射程範囲内みたいだ。どうだ、ジーヴス?」
>「わたくしもさようと拝察いたすところでございます、ご主人様」
>この男の口調は冷たくじめじめしていた。それで、彼の顔にさっと目をやると、僕は「あなた様はわたくしの導きに従っておられればそれでよろしいのに」の表情を認め、またそれはものすごく僕の気に障った。ジーヴスにはまるで伯母さんみたいに見える時がある。(p.216)

8.愛はこれを浄化す
八月になるとジーヴスは休暇をとってどこかリゾート地へ行ってしまう、そのあいだどう過ごすか考えているとダリア叔母さんから招待状が届く。行ってみるとダリア叔母さんの息子のボンゾがいるのは当然だが、アガサ伯母さんの息子のトーマスが滞在しているのは想定外だった。悪魔のようなワルガキのトーマスだが、滞在客の提案による「よい子のお行儀大賞」によっておとなしくしている、それでは賭けが不利だと思ったバーティーはジーヴスを招集する。
>ジーヴスにはいいところがある。彼の心臓はちゃんと正しい位置にあるのだ。厳密な検査の結果彼に欠けた所は認められなかった。彼の立場にある人物の多くが、年に一度の休暇の真ん中に電報で呼び出されたら、ちょっとは怒り狂ったりしてなんかいたことだろう。だがジーヴスはちがう。翌日の午後に彼はそよぎ入ってきた。(p.261)

9.ビンゴ夫人の学友
バーティーの親友ビンゴ・リトルは、女流小説家のロージーと結婚して幸せな生活をおくっていたが、ロージーの学生時代の友人ローラ・パイクが滞在すると事態は一変、ローラが食べすぎはよくない、野菜だけ食べてればいいんだなど意見して、しかもロージーはその意見を鵜呑みにしてるんで、食卓は悲惨なことになってしまった。
>「(略)それでまた恐ろしいことに、そんなことをビンゴ夫人は是認してるんだ。細君というのはしばしばあんなふうなのか? 主人であり支配者たる夫に対する批判を歓迎するものなのかってことなんだが?」
>「奥様方は一般に、旦那様の改善向上に関する外部観衆からの示唆に対し、ご寛容でおいであそばされるものでございます、ご主人様」
>「それで既婚男性ってのは青白くて弱々しいんだな、どうだ?」
>「さようでございます、ご主人様」(p.285)

10.ジョージ伯父さんの小春日和
ジョージ伯父さんはどこにでもいるような肥満気味のオヤジさんで、クラブでうだうだ過ごしている毎日しかないタイプだった、ところがある日ひょっこり来た伯父さんはニタニタ笑いを浮かべて、バーティーにむかって「わしは結婚を考えてる」なんて言い出した。
>「あのバカ親爺が!」
>「はい、ご主人様。無論わたくしはあえてそのご表現を用いるものではございませんが、しかしながら閣下はいささか無分別でおいでと愚考するものと告白申し上げるものでございます。とは申せ、一定以上のご年齢の紳士様が、いわゆる感傷的衝動と呼ばれるものに屈服なされる様を拝見いたすのは稀有にはあらざることと、ご想起をいただかねばなりません。かような紳士様がたは、小春日和と名づけてよろしかろう、ある種、一時的な回春状態をご経験中でおいでなのでございます。わたくしの理解いたしますところ、この現象がとみに顕著なのはアメリカ合衆国ピッツバーグの富裕な住民層においてでございます。(略)(p.317)

11.タッピーの試練
今回のクリスマス休暇はブリーチング・コートの通称バートの邸宅にごやっかいになろうと決めたバーティーは、その地にタッピー・グロソップも滞在していると聞き、以前うけた仕打ちの報復をしてやろうと計画していた。ところが当のタッピーから電報が来て、来るときに俺のフットボール・ブーツを持ってこい、できたらアイリッシュ・ウォーター・スパニエルもよろしくと言ってきた。
>「(略)あいつは僕をサンタクロースだとでも思ってるのか? あのドローンズ・クラブでの一件の後、奴に対する僕の感情がやさしい善意に満ちあふれているとでも思っているのか? アイリッシュ・ウォーター・スパニエルだって、まったく! チッ!」
>「ご主人様?」
>「チッ、だ、ジーヴス」
>「かしこまりました」(p.353)
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十年ゴム消し

2024-12-27 20:02:54 | 忌野清志郎
忌野清志郎 二〇〇〇年・二〇〇九年新装版 河出文庫
これは、もちろん存在は昔から知ってたんだけど読まずにいて、いまさら読む気もないって感じでいたんだけど、ついこないだ街の古本屋で見かけて買った。
オフィシャルによれば、「忌野清志郎が青年期に綴っていた詩や日記をまとめた一冊。」ということになる。
最初の単行本刊行は1987年、ソロアルバム(「RAZOR SHARP」)出したころかあ。(どうでもいいけど、2009年6月新装版って、亡くなったから出したのか…。)
なかは、それよりずっと前のことで、ほかの登場人物から「二十三にもなって」みたいに言われてるから、清志郎が23だとしたら1974年ころってことか。
そのころって、あとがきに「あの頃はほんとに、ヒマだったんだな。」って清志郎が書いてるけど、なんか不遇時代なんぢゃなかったっけか。
気になったんで、『愛しあってるかい』をひっぱりだして、調べてみた。
1972年には、アルバム2つ『初期のRCサクセション』『楽しい夕に』と、シングル3つ『ぼくの好きな先生』『キミかわいいね』『三番目に大事なもの』を出したんだけど、売れなかった、そのあとの時期でしょ。
>しかしチャボとの感動的な出会いの後、グループ自体は仕事が減り、第一期低迷期に突入する。後に百恵で大儲けするホリプロと契約していたのだが、その契約内容は、「月給3万。コンサートの売り上げで利益が予想を上回った時に限り、歩合としてその40%がもらえる」という実に情けないものであった。食えるわけがない。売れるわけがない。(略)
>さて、当時井上陽水やモップスがドドッと抜けた後のホリプロに契約の問題でひとり(ホントは3人だが)残されてしまったRCはその後どうなったかと言うと、やっぱり全然売れなかったのである。売れないグループに出資するほどプロダクションは甘くはないぜ。
>で、74年から75年にかけての1年間、彼らが受けた仕事といったら…受けた仕事といったら…え~と…仕事といったら……と…、あ、何もないや。何も仕事がなかったんですねー。(『愛しあってるかい』p.106-108)
ってころだよね、そうそう。
なかみは、そういうわけで、詩と日記とかなんだが、詩というよりつぶやきに近そうなのもあるし、日記もみっちり記録ってよりも感情をメモったようなとこあって、なんか読んでもフワッとしてる感じ。
のちに実際にレコーディングされた曲の詞の原型のようなものもあるけどね。
そんななかで気になったのは「やさしさ」について書いたものがあったとこ。
>「やさしさ」っていうものに
>ちょっとした 反抗の気持をこめて
>ぼくが やさしいとか
>ぼくの歌にやさしさがあるとか
>もしも まちがっても
>言われないように、
>そんな 赤面するような
>恥しい評価をされないように、
>「やさしさ」を 勝手に
>押しつけられないように、
>「やさしさ」という歌を作った。(p.127)
だって。これって、1976年のアルバム「シングル・マン」に入っている「やさしさ」のことでしょ。
誰もやさしくなんかない
で始まる「やさしさ」は、おとなしい歌かと思わされてると、急に激しい調子になって、
(ずるい、ずるい、ずるい、ずるい)
責任のがれ 君の荷物さ それは
ぼくのじゃない
ぼくのじゃない
ぼくのじゃない
ぼくに背負わせないで
って、すごく訴えかけるものある曲なんだよね、けっこう好き。 ぼくのじゃない のとこはマネしてシャウトしたくなること請け合い。

なんか年の瀬になるとキヨシローを聴きたくなったりするんだよね、なんでかわからないけど。クリスマスはRCの武道館コンサート、って時代があったからかなあ。
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サーベル・タイガー

2024-12-20 19:34:12 | マンガ
星野之宣 1981年 双葉社アクション・コミックス
これはことし9月の古本まつりで買ったマンガ、「星野之宣SF傑作集」ってサブタイトルだけど、そういうこと。
なんか、全部読もうとか思ってるわけぢゃないけど、古いのとか見かけると興味ひかれちゃう、星野之宣。
本書の収録作の初出は、1980年から1981年、おそらく「ジャンプ」集英社との専属契約が終了した直後ぢゃないかと。

「サーベル・タイガー」
氷河に覆われてる時代で、サーベルタイガー(大きい牙もった肉食獣ね)とマンモスが争っているような場所に、原始人類もちょろちょろしてた。
そこへ2479年から未来の人類がやってきて、将来の人類絶滅をふせぐために原始人類を生き残らせようというミッションを実行する。

「アダマスの宝石」
惑星アダマスへは最新の宇宙船でも往復200年かかる距離がある、過去に幾多の宇宙船が向かったが帰還したものは一隻もない。
それでも調査探検に向かうのは、そこには、それを持つものに永遠の命をもたらすと信じられている伝説の黒い宝石があると言われているからである。

「サージャント」
砂漠を舞台にして戦争が行われているが、ひとつの分隊の規模は頭脳戦車(コンク)と兵士5名程度、そのなかでもリーダーである軍曹の地位は頭脳戦車のもの。
ともすれば人間が機械の足手まといになるような戦闘が展開される、なんか大友克洋の「武器よさらば」(『彼女の想いで…』所収)を思い出した。(あっちは1981年作品)

「ユニコーンの星」
人類が宇宙で初めて発見した地球型惑星へ、本格的な有人探査が向かうと、大気の構成をはじめ地球環境に酷似した惑星で、見渡す限りの草原がひろがってた。
馬・牛・犬・猿・白鳥・蟻など数頭ずつの実験動物を放って、適応できるか調査が始まるが、やがて動物たちはおびえていながら、群れ集おうとしなくなる。

「タール・トラップ」
地中から浸み出したタールや天然アスファルトのどろどろした底なし沼のようなプールを舞台にした三部作。
古代の象マストドンと原始人類の話、洪水がくるので箱舟をつくってアスファルト防水をしようとする家族の話、現代のタールトラップで化石発掘隊がタールにはまってしまう話。

「冬の惑星」
永遠の冬の惑星グインIIは、自転速度が速くて1日の長さが地球の1/3しかない、星の住民の寿命は短く、地球時間でせいぜい1年半くらい。
言葉を持たない住民の子どものひとりに案内させて、洞窟のなかにある氷の森を探査隊が発見する。
この作品はなぜか左から右へ進む、巻末ページから横書きの本のようにめくってって読むような仕様になっている。
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古本屋台2

2024-12-13 19:54:19 | マンガ
Q.B.B.(作・久住昌之/画・久住卓也) 二〇二四年二月 本の雑誌社
これは、出てんのずっと知らなくて、出遅れたーとあわてて、ことし9月ころに買ったマンガ。
(買っちゃったら安心して、しばらく読まずにいるのは、いつものこと。)
続巻あるとは思ってなかったよ、第1巻の発行は、ふりかえってみたら2018年だもん。
いいなあ、6年にいちどくらい単行本が出るマンガ、ものすごいゆったりした流れだ、少年誌連載ものだと巻末に、もう次巻の発売予定日が宣伝されてたりするけど、せわしないよねえ。
しかし、次も6年後だとしたら、私は生きてるかどうかわかんないかもしれない、こまったもんだ。
それはそうと、第一巻を読みなおしたら、最後の数ページは書き下ろしで、なんか物語はおしまい的な雰囲気で、最後のコマの隅には「終」って書いてある、そうだよな、続きあるとは思ってなかった俺、まちがってないよな、って気がした。
いま調べたら、第一巻の後半は初出が2017年ころの「小説すばる」、今回の初出は2019年から2020年の「月刊こどもの本」と、「本の雑誌」の2020年から2023年、やっぱ一回終わったものとしていたのを、再立ち上げしたのかな。
(コロナ流行のころなのかな、登場人物がみんなマスクしてるときがある、当然ながら誰も死んだりしてないけど。)
って、いま気づいたら、一巻は集英社で、今回は本の雑誌社じゃん、本の外観おんなじだから出版元変わってたなんて、全然わかってなかった。
なかみは、なんも変わってない、夜に営業している屋台の古本屋、提灯が下がってる、ときどき出る場所変わったりする。
サービスで焼酎一杯を100円で出してくれる、冬はお湯割り、夏は氷入れたり、ただしお代わりはない、「ウチは飲み屋ぢゃないんだから」って言われちゃう。
店主のオヤジが渋くて渋くて、でも機嫌損ねると、「あんたら声が大きいよ」とか「帰んなよ」とか言われちゃう、そう言われるのは通過儀礼みたいなもんで、この屋台気に入ったひとはそれでも常連になっちゃう。
ちょこちょこと出てくる本の数々も多彩なラインナップで、気になるものもあるんだけど、本書ではとうとう巻末に「登場文献一覧」なるリストまで用意してくれちゃってる、読んだことないもの多いけど、今後読もうとするかどうかはわからない。
どんな本かって登場人物たちの話にあがるものもあるけど、ただその本の表紙の画だけが、関係ないセリフのやりとりのあいだに、舞台装置のように描かれてる場合なんかもあって、そういうのが渋くてたまらん。
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ひとり暮らし

2024-12-06 19:14:08 | 読んだ本
谷川俊太郎 平成二十二年 新潮文庫版
ちょっと前に、谷川俊太郎さんが亡くなったってニュースをみた。
詩人として有名なひとなんで、どっかでその詩を目にすることはあったはずだけど、ちゃんと読んだことはないなあ、詩集読むガラぢゃないのよ私。
私がいいなあと思ったのは、矢野顕子さんが歌う『さようなら』って曲があって、その作詞が谷川俊太郎さんだった。
ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
で始まって、なんだろう、どうしたんだろうと思わされてるうちに、
よるになればほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
ってところで、なんかグッと盛り上がる、曲としては静かな調子なんだけど、なんか伝わってくるものある感じで引き込まれる。
この「死ぬまで生きる」ってフレーズがよくて、この歌詞カードのなかでアッコちゃん自身も「俊太郎さん、死ぬまで生きていてくださいね。絶対。」って言ってるんで、私もマネしてときどき使う。
んぢゃ、なんか読んでみなきゃいけないかな、って気になって、かと言って詩を読むのはどうかなって思って、とりあえず中古で手にとったのが、これ。
エッセイ集ということになろうか、単行本は2001年らしい、最初の章では1980年代後半から2001年までにあちこちに書いたものを集めたようだ。
詩を読んでもよくわかんないと思う私だが、詩について谷川さんが、
>詩は思想を伝える道具ではないし、意見を述べる場でもない、またそれはいわゆる自己表現のための手段でもないのです。詩においては言葉は「物」にならなければならないとはよく言われることですが、もしそうであるとすれば、たとえば一個の美しい細工の小箱を前にするときと同じような態度が、読者には必要とされるのではないでしょうか。そこでは言葉は木材のような材質としてとらえられ、それを削り、磨き、美しく組み合わせる技術が詩人に求められる倫理ともいうべきものであり、そこに確固として存在している事実こそが、詩の文体の強さであるはずです。(p.136-137)
っていってるとこは興味深いものあった。なんかインスピレーションめいたものを書きつけてんぢゃないんだ、木工細工なんだ。
という一方で、朗読会のようなイベントの質問コーナーで、
>いつだったかやはり一人の小学生に、「谷川さんはなんでそんなにくだらない詩ばっかり書くんですか?」と問われ、やけになって「詩なんてみんなくだらないものなんだよ」と答えたのを思い出した。(p.159-160)
なんてやりとりをしてるらしい、笑える、面と向かって「くだらない詩」とか言われるとは。
詩にかぎらず言葉ってものについての考察として、レンブラントの自画像を引き合いにだして、その絵は自分で自分をリアルにみつめたものだとして、
>自分という意識なしで、まるで他人を見るように自分を見ている。私もそんなふうに言葉で自分を描けたらと思うが、思うにまかせない。(略)
>(略)詩で自画像を書こうと試みたこともあるが、これもパロディのようなものにしかならなかった。自画像というような主題抜きで書くほうがきっと正直な自分が現れてしまう、それが言葉というものかと思う。(p.51-52)
みたいなこといってるのも、おもしろいと思った。
それはそうと、今回こうやって著者が亡くなったタイミングで読んでたりすると、ご自身の死について語っているところが気になったりする。
2000年ころで70歳ぐらいだろうけど、ひとり暮らしをしてる影響もあるんだろうか、老いとか死とかを考えたりする機会がけっこうあるみたいで。
>過去の自分と出会うのはしかたないにしても、年をとると未来の自分とももうじき出会うんだと覚悟を決めるようになる。つまり老いと死をぬきにしては自分とつきあえない。そろそろ自分とおさらば出来るのがそう悪い気もしないのは、自分に甘い私にも、自分をもてあましているところがなきにしもあらずだったのか。(p.58)
とか、
>死生観の代わりに私がもちたいと願っているのは、死生術もしくは死生技である。何も目新しいものではなく、処世術もしくは格闘技のひとつと思えばいい。要するにどう死んでゆくかという技術のことだ。これがなかなか難しい。人は死の瞬間まで生きねばならないものだから、生のしがらみは最後までついてまわる。しかもその最後の瞬間に至るまでに起こる状況変化は、各人の運命によって千変万化する。なかなか予定というものが立てられない。(p.88)
とか、
>(略)私は年をとるにつれて自分がいいかげんになっていくような気がする。若いころは気になっていたことが気にならなくなった。(略)年とって自分が前よりも自由になったと感じる。(略)
>まあどっちにころんでもたいしたことないやと思えるのは、死が近づいているからだろう。痛い思いをしたり身内や他人を苦しめて死ぬのはいやだが、死ぬこと自体は悪くないと思っている。この世とおさらばするのは寂しいだろうが、死んだら自分がどうなるのかという好奇心もある。未来に何を期待しますかと問われれば、元気に死にたいと答えることにしている。(p.108)
とかって、まだまだ元気だったときに書いたんだろうが、80歳になり90歳になり実際に死が近づいてきたときにどう思ったんだろうって、ちょっと考えさせられる。
あと、死生観とは直接関係ないけど、著者が豊栄市の図書館は市民が集う場所をめざしてるって話を紹介したところで、
>私はこの時代を理解するキーワードのひとつに、「寂しさ」があるのではないかとひそかに思っている。日本人はかつてなかったほどに、一人一人が孤立し始めているのではないか。大家族はもう昔話だし、核家族という言葉さえ聞かれなくなったくらい家族は崩れかかっている。私もその一人だが独居老人が増えているし、結婚を願わない若者も多い。会社もすでに疑似家族としての機能を失いつつあるし、都会では隣近所も見知らぬ人ばかり。私たちは帰属出来る幻の共同体を求めて携帯電話をかけまくり、電子メールで埒もないお喋りに精を出し、ロックコンサートに群がり、居酒屋にたむろし、怪しげな宗教に身を投じる。(略)「和」で生きてきた私たちは、「個」の孤独に耐えられないのだ。(p.221-222)
っていってるのがあって、2000年当時の話なんだが、今もっとそういうの加速してるような気もする。
コンテンツは以下のとおり。

 ポポー
 ゆとり
 恋は大袈裟
 聞きなれた歌
 道なき道
 ゆきあたりばったり
 葬式考
 風景と音楽
 昼寝
 駐ロバ場
 じゃがいもを見るのと同じ目で
 春を待つ手紙
 自分と出会う
 古いラジオの「のすたるぢや」
 通信・送金・読書・テレビ、そして仕事
 惚けた母からの手紙
 単純なこと複雑なこと
 内的などもり
 とりとめなく
 十トントラックが来た
 私の死生観
 五十年という歳月
 私の「ライフ・スタイル」
 ひとり暮らしの弁
 からだに従う
 二〇〇一年一月一日
 二十一世紀の最初の一日
ことばめぐり
 空
 星
 朝
 花
 生
 父
 母
 人
 嘘
 私
 愛
ある日(一九九九年二月~二〇〇一年一月)
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