many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

錯覚の科学

2025-03-07 19:07:35 | 読んだ本
クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ/木村博江訳 2014年 文春文庫版
これは、たしか去年8月ころに買い求めた古本の文庫。
丸谷才一さんの『人魚はア・カペラで歌ふ』のなかで、「一読して、すこぶるおもしろかつた」とあったんで興味もった、モーツァルト効果の話の元ネタにされてた。
日本での単行本は2011年、原題「The Invisible Gorilla」は2010年の刊行。
見えないゴリラ、ったあ何のことよと思うんだが、これは心理学の実験。
被験者にバスケットボールのゲームの映像を見せて、片方のチームのパスの数を全部かぞえてくれって課題を出す、それで一所懸命見てると、その映像にはゴリラ(着ぐるみ)が登場してカメラに向かって胸を叩くまでする、その間およそ9秒なんだが、実験終わったあとに被験者に聞くと、およそ半数がゴリラに気づかなかったという。
人は見ようとしてないものは見えてないって錯覚に関する話なんだが、それだけぢゃなくて、見えなかった人が後でタネ明かしされると「ウソだ、そんなの絶対いなかったって」って反応するとこまで含めて、重要な問題ありなんぢゃないかと。実験受けてないひとに話だけすると、「自分だったら絶対に気づくよ」って答えるとかね。
ということで、
>日常的な錯覚は、人の思考や決断や行動に影響をあたえ、人生まで変えることがある。私たちの目的は、それをお伝えすることだ。錯覚の影響力を正しく理解できれば、自分の行動や思考について、これまでとはべつの見方ができ、適切な行動がとれるようになるだろう。(p.28)
ってあたりがテーマであって、日常的な錯覚には、「注意力、記憶力、自信、知識、原因、可能性にまつわる錯覚」(p.10)の六つがあるとして、それぞれに章を設けて説明してくれる。
注意力の錯覚ってのは、映像内のゴリラを見落とすように、そこにあること予想していないと見えないってことなんだが、世界的バイオリン奏者に朝の地下鉄の駅で演奏してもらったら、ほぼほぼ無視されたって話は、どっかで読んだなと思ったら『予想どおりに不合理』にあった。
記憶力の錯覚ってのは、記憶がひとのなかで変わってっちゃう、時間たってズレてくってだけぢゃなく、つくりかえちゃうこともあるってあたり。
スペースシャトル・チャレンジャーの爆発事故翌日に学生たちにそのとき何をどうしてたかレポートを書かせる、それで2年半後に思い出してもらうと、ずいぶんと記憶に食い違いが生じてるんだが、
>そしてなんと、以前書いたものを見て、自分の記憶ちがいを認めるよりも、自分の「現在の」記憶のほうが正しいと言い張る学生のほうが多かったのだ。
>鮮明な記憶も間違いである場合が多い――だが、その記憶のほうがしっくりくるのだ。(p.117)
ということで、都合よくといったらきびしいかもしれないが、しっくりくるように記憶はつくりかえられちゃうんだ、けっこう怖い。
自信の錯覚ってのは、ひとはとかく自分の実力を過大評価したがるって話で。
チェスの国際大会なり全米大会なりの場で参加選手に自身のレーティングについて訊いてみる、レーティングってのは直近の試合結果で現在の実力を数値化してるんだが、選手は自分の現在の数値をほぼ正確に知っている、そこでその数値はあなたの実力を表してますかと問うと、
>(略)現在のレーティングが自分の本当の実力だと答えたプレイヤーは、わずか二一パーセントだった。四パーセントが自分は過大評価されていると考え、残り七五パーセントは過小評価だと考えていた。自分のチェス能力について、彼らは驚くほど自信過剰だった。(p.134)
ということになる。
それだけならいいんだけど、自信の錯覚ってのはもう一つの側面があって、他人が自信ある(・ない)態度でいるかどうかってのは、私たちが相手の実力を測る有効な手掛りにする傾向があるってんで、けっこう重要。
そりゃチェスの対局だったらいいかもしれんが、医者とか政治家とか裁判の証人とかと向き合った場合に、相手が自信過剰だったらどうよってことになり、さらに困ったことには「能力が弱い人ほど自信は強い」って傾向があるんだという、あぶない危ない。
知識の錯覚ってのは、自分が実際以上によく知っているという思い込みがあるってこと。
これがどんなもんなのかは、日常的な機械や道具についてその仕組みを説明させてみればわかるという、どうして自転車のペダルをこぐと車輪が回るのかとか、水洗トイレの仕組みを正確に説明してみなさいとか。
やってみると、けっこうすぐ行き詰って知識不足に気づくんだが、そこでまた自分がなんもわかってないことを知ったときの驚きようが錯覚の錯覚たるところ。
>トイレを使うとどんなことが起きるかを、どのようにして起きるかと取りちがえ、日常的に見知っているという感覚を、ほんものの知識と誤解してしまうのだ。(p.188)
ということだそうです。
おのれの無知ほど気づきにくいものはないんで、トイレなら使えればそれでいいのかもしれないけど、投資判断とかで間違いを起こすとたいへんだからご用心って。
原因の錯覚ってのは、根拠のない話が定説になってしまうとか、偶然を必然ととらえてしまいがちな傾向とかの裏にひそんでいるもの。
相関関係はあるかもしれないけど、それは因果関係ぢゃないよと、それに気づかないというか、原因・結果ってストーリーを好んぢゃうひとが多いそうで。
アイスクリームの消費が多い日には水難事故の割合が多いというのは相関関係だけど因果はないよね、でもそこにストーリーを持ち込むと信じぢゃうひとがいる俗説ができちゃうのかも。
ハシカのワクチンをうつと自閉症になるから自分の子どもには絶対予防接種させないって親がいるって話を紹介して、
>(略)原因の錯覚には三つの片寄りが潜んでいる。パターンを求めたがる傾向と、二つのものの相関関係を因果関係へと飛躍させる傾向、そして時系列的な前後関係のある物語を好む傾向だ。それがわかると、理由が見えてくる。なぜわが子に、はしか予防のワクチンを接種させない親がいるのか。答えは親たち、メディア、著名人、そして医師の一部までもが、原因の錯覚にとらわれるためだ。具体的に言うと、彼らは実際には存在しないパターンをあると思い込み、偶然同時に起きたことを因果関係ととりちがえるのだ。(p.260-261)
というようにバッサリ。
さらには、ひとは統計的なデータなんかより個人的な体験談とか実話とされるものに弱い、って指摘は興味深いですねえ、ワクチン接種と同じ年頃に自閉症の症状が発見された子どもは何パーセント、ってより、ワクチンうった後にうちの子は自閉症になったって人の話のほうが説得力がある、って。
可能性の錯覚ってのは、でました、モーツァルト効果の話ですね、フットボールの練習中にモーツァルトの曲をかけていると選手の学習能力が高まると。
可能性の錯覚は、まだ開発されていない認知能力の大きな貯蔵庫が、脳の中に眠っているという思い込みである。自分がそこへ到達する方法を知らないだけで、貯蔵庫は開けられるのを待っている――そんなふうに考えるのだ。この錯覚には、二つの思い込みが重なっている。一つは、人間の心と頭脳の奥に、幅広い状況に対応する高度な能力が隠されている、という思い込み。もう一つは、この能力は簡単な方法で解き放つことができる、という思い込みだ。(p.279-280)
ということで、思い込みのすごさというか、こうして冷静に解説されちゃうと、人間って哀しいねえって気までしてきちゃうな。
俺には可能性があるんだって前者の思い込みはまだカワイイとして、後者のたいした努力なんかしなくてもそれは引き出せますよって思い込みのほうは、商売商売ってひとたちに騙されないでねって感じもしないでもないし。
ちなみにモーツァルト効果って、その後ほかの研究者が似たような実験を繰り返したけど、実証されてないんだという。でも最初の発表のインパクトが大きかったから、世の中には効果ありと思っている人がいる。似たような例では、映画のなかにサブリミナル広告を入れるとコーラとポップコーンの売り上げが伸びた、ってのもウソらしい。こわいこわい。
しかし、おもしろいなこの本、忘れたころにまた読んでみると、おお、そーかー、って刺激を受けること多いかもしれない。
章立ては以下のとおり。
はじめに 思い込みと錯覚の世界へようこそ
実験I えひめ丸はなぜ沈没したのか? 注意の錯覚
実験II 捏造された「ヒラリーの戦場体験」 記憶の錯覚
実験III 冤罪証言はこうして作られた 自信の錯覚
実験IV リーマンショックを招いた投資家の誤算 知識の錯覚
実験V 俗説、デマゴーグ、そして陰謀論 原因の錯覚
実験VI 自己啓発、サブリミナル効果のウソ 可能性の錯覚
おわりに 直感は信じられるのか?

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« チャンドラー傑作集1 | トップ |   
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読んだ本」カテゴリの最新記事