中沢新一・小澤實 2016年 角川書店
年末に買って、最近読んだ本。
俳句だけの本だったらそれほど読む気にはなんなかったんだろうけど、中沢新一が何故、って思ったもんだから手にとった。
小澤實は、小林恭二の『俳句という遊び』『俳句という愉しみ』でだけ知ってたんだけど。
新幹線の車内誌に二ページくらいの俳句に関するはなしを書いてるのは見たことがある。
中沢新一は、その文章を読むのを楽しみにしてたそうで。
いっぽう小澤實も、中沢新一の書いたものを読むのが好きだったらしく。
おたがい相手のファンであった二人が、NHK俳句講座でいっしょになったそうで、それから対談をベースにする本書ができたということらしい。
タイトルも深い意味含んでそう、陸ぢゃなくて海の上をたゆたうようなとこが俳句の本質にあって、しかもそれが立てるとか垂直方向の運動が重要ってことで、潜るってことみたい。難解だあ。
中沢新一の俳句論というか歴史認識というか、そういうのがあちこちにビシバシでてくるのがおもしろくて、けっこう刺激的だった。
>俳句は必ず季語を立てないといけない。(略)それは「人間の目で見るな」ということです。(略)「鷹」を詠む時は鷹の目になる。動植物の目になって世界を認識するということをルールにしているわけです。(p.16)
>和歌・短歌では人間が主体になります。ところが、俳句の場合は間であるモノが主体です。モノと人間の間を自在に行き来する通路をつくるということが、俳句の主題です。
というような俳句の性質は、学校の国語の時間には教えてくれてなかったと思う。
そういうこと言ってくれれば興味もつのにねえ、わかるようなわかんないような鑑賞のしかたするから、国語はフィーリングだ、とか子どもが誤解すんだよね。
これについては、小澤實も、
>短歌は恋をはじめ人間関係をよく詠んでいるような気がします。俳句でも恋などを無理して詠みますが、得意ではない。とにかく石とか木とか動物が好きなんです。そのモノの存在感をことばで捉えたいんです。(p.236)
と賛同している。
国語だけぢゃなくて歴史の授業でも次のようなこと、ちょっとでも言ってくれればよかったのに。
>日本人の場合、自然を制圧したり、やわらげたりする時は言葉にするんです。王権というのは単に武力で制圧していくのではなくて、歌というかたちで自然や服(まつら)わぬものを言葉に組み入れていくということが文明ということの大きい意味でした。歌がなかったら古代権力なんてなかったと思う。(p.23)
天皇が歌を詠むってことの意味って、最近になってようやく私は勉強することができたんで(丸谷才一だっけ?よく憶えてはいないんだけど)、こういう指摘はとても鋭いと思う。
あとねえ、人類学もそう、骨格とかだけぢゃないんだ、ネアンデルタール人と現生人類の違いは。
>しかしただ一点だけ、旧人と新人の間には重要な違いがありました。芸術と宗教、この二つのことを、旧人はおこなわなかったのです。(略)人類学的に見ると、私たち新人は芸術と宗教を持った人類です。(p.104-105)
>ネアンデルタール人は比喩を使っていません。(略)そういう世界では芸術は生まれません。(略)「人類とは何か。」これには様々な規定がありますけれど、詩を詠むことができる、詩を作れる人類ということができます。(p.198-199)
いいねえ、詩を作れるヒト。
経済をするヒトとか、政治をするヒトとか、いろんなホモサピエンスの表現あったと思うけど、詩を作るヒトってのがいちばんかっこいい表現なような気がする、いまの私の感覚では。
コンテンツは以下のとおり。
はじめに[中沢新一]
第一章…自然認識としての俳句
第二章…陸から海へ―深川にて
俳句と仏教[中沢新一]
第三章…定住と漂泊―甲州にて
俳句のアニミズム[中沢新一]
第四章…アヴァンギャルドと神話―諏訪にて
中沢さんと話しながら、俳句について考えたこと[小澤實]
年末に買って、最近読んだ本。
俳句だけの本だったらそれほど読む気にはなんなかったんだろうけど、中沢新一が何故、って思ったもんだから手にとった。
小澤實は、小林恭二の『俳句という遊び』『俳句という愉しみ』でだけ知ってたんだけど。
新幹線の車内誌に二ページくらいの俳句に関するはなしを書いてるのは見たことがある。
中沢新一は、その文章を読むのを楽しみにしてたそうで。
いっぽう小澤實も、中沢新一の書いたものを読むのが好きだったらしく。
おたがい相手のファンであった二人が、NHK俳句講座でいっしょになったそうで、それから対談をベースにする本書ができたということらしい。
タイトルも深い意味含んでそう、陸ぢゃなくて海の上をたゆたうようなとこが俳句の本質にあって、しかもそれが立てるとか垂直方向の運動が重要ってことで、潜るってことみたい。難解だあ。
中沢新一の俳句論というか歴史認識というか、そういうのがあちこちにビシバシでてくるのがおもしろくて、けっこう刺激的だった。
>俳句は必ず季語を立てないといけない。(略)それは「人間の目で見るな」ということです。(略)「鷹」を詠む時は鷹の目になる。動植物の目になって世界を認識するということをルールにしているわけです。(p.16)
>和歌・短歌では人間が主体になります。ところが、俳句の場合は間であるモノが主体です。モノと人間の間を自在に行き来する通路をつくるということが、俳句の主題です。
というような俳句の性質は、学校の国語の時間には教えてくれてなかったと思う。
そういうこと言ってくれれば興味もつのにねえ、わかるようなわかんないような鑑賞のしかたするから、国語はフィーリングだ、とか子どもが誤解すんだよね。
これについては、小澤實も、
>短歌は恋をはじめ人間関係をよく詠んでいるような気がします。俳句でも恋などを無理して詠みますが、得意ではない。とにかく石とか木とか動物が好きなんです。そのモノの存在感をことばで捉えたいんです。(p.236)
と賛同している。
国語だけぢゃなくて歴史の授業でも次のようなこと、ちょっとでも言ってくれればよかったのに。
>日本人の場合、自然を制圧したり、やわらげたりする時は言葉にするんです。王権というのは単に武力で制圧していくのではなくて、歌というかたちで自然や服(まつら)わぬものを言葉に組み入れていくということが文明ということの大きい意味でした。歌がなかったら古代権力なんてなかったと思う。(p.23)
天皇が歌を詠むってことの意味って、最近になってようやく私は勉強することができたんで(丸谷才一だっけ?よく憶えてはいないんだけど)、こういう指摘はとても鋭いと思う。
あとねえ、人類学もそう、骨格とかだけぢゃないんだ、ネアンデルタール人と現生人類の違いは。
>しかしただ一点だけ、旧人と新人の間には重要な違いがありました。芸術と宗教、この二つのことを、旧人はおこなわなかったのです。(略)人類学的に見ると、私たち新人は芸術と宗教を持った人類です。(p.104-105)
>ネアンデルタール人は比喩を使っていません。(略)そういう世界では芸術は生まれません。(略)「人類とは何か。」これには様々な規定がありますけれど、詩を詠むことができる、詩を作れる人類ということができます。(p.198-199)
いいねえ、詩を作れるヒト。
経済をするヒトとか、政治をするヒトとか、いろんなホモサピエンスの表現あったと思うけど、詩を作るヒトってのがいちばんかっこいい表現なような気がする、いまの私の感覚では。
コンテンツは以下のとおり。
はじめに[中沢新一]
第一章…自然認識としての俳句
第二章…陸から海へ―深川にて
俳句と仏教[中沢新一]
第三章…定住と漂泊―甲州にて
俳句のアニミズム[中沢新一]
第四章…アヴァンギャルドと神話―諏訪にて
中沢さんと話しながら、俳句について考えたこと[小澤實]