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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

やさしさをまとった殲滅の時代

2015-01-27 18:50:12 | 堀井憲一郎
堀井憲一郎 2013年 講談社現代新書
私の好きなライター、ホリイ氏の新刊。
といっても出版されたのがおととし10月らしい。
おそまきながら私が気づいて買ったのが、去年の10月ころ。
読んだの年が明けてから。なにやってんだか。
それはともかく、帯に「『若者殺しの時代』の待望の続編!」って書いてあるから、たいそう期待してしまった。あれは名著だもん。
で、本書のあとがきを最後に読んだら、メールマガジンに連載してたときのタイトルは「失われたモノたちの00年代」だったそうで。
つまり、この本は、近い過去を振り返って、当時はどういうことか気づいてなかったけど、あれはそういう時代だったのだと整理するという意味で、たしかに『若者殺しの時代』の続編なんだろう。
ということで、ターゲットは00年代、西暦2000年から2009年ころにかけて、何が行なわれてたのかという話。
“殲滅”とか“失われた”という言葉にあらわれてるように、当然のことながら、あまりめでたいことはない。
どっちかっていうと否定的な感じ。失ったもののほうが大きくないか、ってニュアンスがいっぱい。
結論としては、ごく簡単に言っちゃうと、知る人ぞ知るみたいな世界がなくなって、なんか楽しくなくなった、っていうことになるんぢゃないかと。
で、それのなにが“やさしさをまとった”かというと、一見便利になったようにみえるし、個人個人は決して強制されて何かやらされてる感はなくて意見も尊重されてるようにみえる、ってわけだからである。
そのへん、気にかかったポイントをいくつか引くと。
たとえば、なんで情報誌が(なんとかウォーカーとかそういうのが)なくなっちゃったか。
>先端的な人たちが動く→雑誌で取り上げる→ふつうの人たちが追いかける→再び取り上げる→大きなムーブメントになる。(略)
>これがなくなってしまった。元編集長はそう言った。
>つまり街での目立った動きがなくなったのだ。特に男性がなくなったという。
ということらしい。
みんなネットで情報は前より簡単に手にしてるようにみえるけど、街の動きは無い、失われた。
特に男性社会がひどいらしく、そのあたりを指して、
>僕たちの社会は、効率と引き換えに「若い男性の世間」を破壊していったのである。
なんてうまいことを言う。
そういう社会では「母の持つ包容力」が中心に据えられるというんだけど、べつのところでは、ライトノベルの市場拡大現象を指して、
>「少年のころに好きだったものを、いつまでも抱えていても怒られない」という事情によるものである。具体的なイメージで言えば「父が怒らない」ということになる。
と分析してるんで、両者は同じことを言ってるんだろう。
情報誌と街の動きの関係と同じことは、アニメ好きな若者たちについてもいえるらしく、自分の好きなものがあるってことは各々認められるけど、社会全体での大きな動きにはならない。
>大ヒットのアニメが出てきても、多くの人が騒ぐようになっても、それだけでは動かない。自分が見てないものは、どんなに受けていようと、見ていないのだから、自分とは関係ない。美しく孤立しているとは、そういうことである。(略)
っていう状態らしい。まあ、そうなんだろうな、若い人はみんな。
(私なんかも、ネットの片隅を見てるだけだけど、たしかに、ネットを通じた意見のやりとりは、5年前にくらべて明らかに減少してると感じる。みんなただ自分の好きなものを好きだとつぶやいているだけだ。)
そういうひとばっかりになってくると、どうなるかっていうと、「私の視点」が最重要ポイントになる。
その「私の視点」の位置について、著者はすごく驚いている。
具体的な例をあげると、社会的な悪ぢゃなくても、声高に「ブラック」とか命名しちゃう価値観とか。
>「自分や自分が関知するかぎりのまわりの社員の待遇がひどいから」という理由で、企業や会社そのものを「ブラック」であると認定する、(略)むかしの世代には、そんな権限は与えられてなかった。(略)自分が見知できる範囲で酷いと判断したら、そこを含む全体を否定してもかまわないという権限は、むかしは想像の範囲外だったのである。
ということで、自分の立場でしか発言しないし、またそういう発言を周囲が認めちゃう(以前はそういう発言は相手にされない)、最近の若者社会の昔との変化を指摘してる。
ま、それはしかたないとして、終章で、個人個人が分断されて、欲望を管理・誘導されてく方向にすすむ社会からの脱出のヒントが掲げられてて、それは自分がまわりのいろんな人に迷惑をかける存在であるってことを認めようってこと。
簡単な話、迷ってる人がいたら、道くらいは教えてあげる、それで金銭的な御礼なんか要らない。逆に自分が困ったときには聞けばいい。
>自分で教えたことのない人は、人に聞けない。そういう訓練ができていないからだ。自分で解決しようとして、スマートフォンを振り回し、ずいぶんと消耗してしまう。道は聞いたほうが早い。
って一節、私はけっこう同意しちゃう。っていうか妙に突き刺さってきたな、この本読んで、この部分がいちばん。




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