kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

少しずつ

2015-05-07 | 陸上競技
土日に県選手権が実施されました。これに関しては少し触れましたが、男子2名が100mで準決勝に進出。これが一番の結果です。女子は思うように走れず、さらに体調不良者が出たためリレーは棄権。仕方ない部分です。これからどうやって戦っていくのかを考えていかなければいけないと思います。今の時点では「レースに参加することができない」というところでしょうか。出場して終わってしまうというのは少し寂しい。そこにどのような感情を抱くかは選手次第だと思います。

少し話がそれますが。前任校で指導していた大学生が約4年ぶりに県選手権で優勝しました。高校2年生で200mでインターハイ出場し、山口国体にも参加。その後故障と動きの崩れにより思うように走れませんでした。大学2年間はほとんど記録が出せず。やっとここにきて走れるようになってきました。辛い場面を何度も乗り越えてきたからやっとここにたどり着いたのだと思います。途中で投げ出していたら復活はなかったと思います。多くの先生方から「よく走れたね」と言っていただきました。私は何もしてません。本人が這い上がってきたのだと思います。OG対決も見られましたが、この春卒業した選手は思うように走れません。アップにつきあったりして少しずつ改善するきっかけをつかんでもらえたらと思いましtが、やはりまだまだ。全盛期の走りとは別人です。環境が変わり思うようにできない部分があるでしょう。これまで以上に多くの誘惑もあるでしょうし。勝負をするなら真剣にやらないといけません。いくつか約束をしました。この約束を守ってもらえれば変わってくると思います。力は抜群にある。最後は本人が「全てをかける」ところまで行けるかどうかです。

いつも思うのですが「強ければ良いのか」というのは選手として忘れてはいけないポイントになると思います。中学生、高校生は周りからチヤホヤされるとどうしても勘違います。特別扱いをされると自分が偉くなったような感覚に陥るです。しかし、しょせん陸上競技の場面だけの実力。それだけで大きな評価を受けて自分が素晴らしい人間だと勘違いしないようにしなければいけません。そこを諭せるのが指導者の役割だと思っています。好きなようにさせるのではない。基本的なことができて初めて価値があります。一部分だけを過大評価してしまうと選手のためになりません。こういう部分も少しずつ少しずつ教えていく必要があると思っています。強くなれば注目を集める。そうなると少しのことでも批判されやすくなります。「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」ですね。力が付けばつくほど謙虚にならないといけないと思います。

戦うことを求める。これが良いことかどうかはわかりません。「勝利至上主義」で生きているわけではない。しかし、「勝利」を目指すことでしか見えないことがあると思っています。中途半端な努力で何かを獲られるほど甘くはない。やるだけのことで何を獲るのか?部活動としての限界はあると思います。一生懸命やっていく。その一生懸命は人によって違ってきます。周囲から見て「んー」という感じでも本人は「一生懸命」なのかもしれません。ここをどこの価値観に合わせるのか?それなりの「一生懸命」に価値があるのか。それを決めるのは私ではないのかもしれない。価値観という抽象的な概念の中で人とかかわることの意味ですね。

少しずつ表情が変わる。それが本人たちにとってどういう意味を持つのか。自分自身に負けないようなチーム作りは必要だと思っています。そこには絶対に温度差が生じます。上述のように人それぞれの価値観の中でやっているからです。統一することが可能なのか。また、統一する意味があるのか。表面的に何かをやることは無意味だとずっと思っています。やるからには「全力で」「本気で」「一生懸命に」がいいと思っています。それは私は・・・ですが。

なんかまとまりない文章ですね。すみません。思いつくがままに書いておきます。
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競技をするということ

2015-05-07 | 陸上競技
思うことを適度に。

このblogを始めてから、正確に言うともっと前から「指導」について考えています。競技面指導。これは技術指導に偏りがちになりますがやはり根本は「心」の指導になると思います。物事に取り組む姿勢について学ばなければやはり意味はないのです。表面的に競技力が上がったり、「やったふり」をしているだけでは時間の有効かつうようになりません。例えば私に注意を受ける。次も同じようなことをしたら「怒られる」からやるというのでは意味がないと思っています。注意を受けた理由をきちんと理解して「問題点は何か」を自分の中できちんと処理できて初めてその「注意」に意味が生まれる。一概に怒ればいいわけではありません。

これは単純なことだと思いますが、結構できなかったりします。表面的な変化だけをみたりしていたら「一生懸命にやっているふり」をしている人間の評価が上がることになります。それを見ている周囲の人間は「先生の前だけやっている」と不満を感じる。不協和音が生まれる原因となります。もちろん、現在の指導対象は「高校生」です。高校生にそこまで求めるのはどうなのか?と言われるかもしれません。ではいつの段階で教えるのが適切なのでしょうか?大学に進んだら教えてもらえるのか?そんなことはありません。やはり早い段階で「気づく」ための指導は必要だと考えます。それが実際にできているのかどうかはわかりません。

人は言われて初めて気づくことがあります。また、言われなくなると忘れてしまうのです。力が本物になっていれば他者から指摘されなくても「これは駄目だな」とわかります。が、そこまで到達しなければすぐに元に戻るのです。ここが難しいところ。表面的な変化はすぐにでも生まれます。それが本物になるかどうかは時間がかかります。周囲を見ながら自分の行動が正しいかどうかを見極めていく。これは私自身にも言えることですが。まだまだ未熟な部分が多い。それでも多くの子供たちが慕ってくれるというのはそれなりの「理由」があるのだと思っています。全員を変えていくことができるかというのは難しいですが。「変えていく」と書くとかなり「偉そう」に見えますね。本当は「変わっていくのを見ている」というのが適切な表現なのかもしれません。結局は言われている本人が「変わるんだ」という意思があって初めてその変化が生まれるのです。これは今担当している学校だけの話ではありません。批判しているわけでも肯定しているわけでもない。一般的にというのはまた適切ではないかもしれないですが(笑)。

やはり「大人になる」というのはすごく大切なことだと思います。目の前のことだけ考えている。自分のことだけを考えている。それでは周囲からは認めてもらえません。私自身も反省するところはたくさんあります。「kanekoの行動はどうなのか」といわれる部分はあるでしょう。でも本当に間違っているのかどうか。誰のための行動なのか。ここに自分なりの「信念」を持ってやっていきたいと思っています。周囲から言われることを素直に受け入れながらもそれだけを判断基準にはしません。それは大切なこと。自分自身の行動が「大人として」どうなのかを考えないといけません。

先週の金曜日、初めてではないかもしれませんが注意をしました。あまりにも幼い。「楽しくやる」という価値観。その「楽しい」を間違えている。他社に迷惑をかけて「楽しむ」ことが決していいことではない。自分さえよければいいというのは許されるべき行為ではないのです。難しい部分ですが。根本的な考え方から見直していく必要があると改めて感じました。何を求めて集団に属するのか。ここはなかなか分かりません。「その集団に所属する」ことに満足するというのでは「他の部活でも同じ」だと思っています。所属することに価値を求めるのか、自己実現をすることに価値を求めるのか。これだけでずいぶん違ってきます。求められていることは何かを感じられるようにならないといけません。

中途半端な内容です(笑)。また書きます。たぶん。何か伝わるものがあるでしょうか??
コメント (2)
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